其ノ弐
屋根の上から金目の男が振り向いた。その目は爛々と、よりいっそう光っている。金色を通り越し、禍々しく紅く濁っていた。
「あっ!」
その目を見た瞬間、鋼之助は思い出した。
「くそっ、消えやがった!」
誰かが憎らしげに捨てはいた。見れば、屋根の上には、もう男はいなかった。
「佐倉と佐倉さん。んんん、ややこしいな。まあいい。二人とも怪我はありませんか?」
山村三次郎が二人に駆け寄った。酒を呑んで屋敷でくつろいでいたのだろう。顔が赤い。
「三次郎。なに、手合わせするまえに逃げちまったよ」
新八郎は苦笑した。だがどこか、陰があるように見えた。
「なんでえ、せっかく大立ち回りできると思ったのによ」
と、新八郎より年上に見える白髪頭の男が、太刀を片手に笑った。つられて周囲からも笑いが上がる。
気づけば鋼之助と新八郎の周りには、おっとり刀の男が何人もいた。
「しかし八丁堀に討ち入りに来やがるとはな」
「おうよ。よほどの命知らずか、馬鹿でいやがる」
集まった男達が口々に言い合っている。興奮しているせいか、皆の口調が伝法になっていた。
ここは八丁堀だ。町人もいるが、この町に住むのは同心与力が多い。だから江戸の町なかで、警備上もっとも安全で住むにはもってこいの場所なのだ。そんな八丁堀に刃物を持って乗り込んできた男。まっとうな人間ではあるまい。
鋼之助は男の姿を思い返した。その両目に宿る禍々しい光。
かつて、同じ目をした女がいた。
その人は、すでにこの世にはいない。
「……母上」
それは、鋼之助の母親であった。
新八郎と鋼之助は、ともに帰路についた。
興奮冷めやらぬ同輩が、新八郎を呑みに誘ったが、新八郎は断った。やはりその顔には、沈鬱そうな色が乗っている。
二人は道すがら、言葉を交わすことはなかった。鋼之助には聞きたいことがあったが、踏ん切りが着かないでいたのだ。
佐倉家の屋敷に着くと、木戸門のまえで、中間の弥彦がうろうろしていた。二人の姿を認めると、わたわたと駆け寄ってくる。
「大旦那さまに旦那さま。ああ、ご無事で」
弥彦が早口で言う。
「突然、大旦那さまの声が外から聞こえたと思ったら、ご近所のお屋敷から次々に太刀を持った同心与力の方々が出ていきまして……。もう、本当に生きた心地がしませんでした」
最後のほうは涙混じりだ。ばつが悪そうに、新八郎は頬を掻いた。
「こんなとこまで、聞こえておったか」
鋼之助が襲われたのは楓川付近だ。佐倉家の屋敷からは、だいぶ離れている。
新八郎が弥彦を安心させるように言った。
「なに、見てのとおり、鋼之助もわしも無傷だ。賊は逃げてしまったがの」
二人の無事がわかって安堵したようで、弥彦がほっと、息をついた。
「お二人方がご無事でようございました。賊はすぐに捕まりましょう。八丁堀に打ち入って、皆様がいきり立っておられるようですから」
新八郎と鋼之助が帰ってくるまで、集まった同役達が引き上げていく姿を見ての感想だろう。
「うむ。そうだな」
だが新八郎の声には張りがない。鋼之助もそうだった。あの金目の男は、そう簡単には捕まえられない。そんな気がしてならなかった。
屋敷に入ると鋼之助は、着替えて新八郎と共に夕餉をとった。寝仕度を整えた頃には、五つ半(午後九時)をまわっていた。
弥彦がひいてくれた布団の横に腰を下ろした鋼之助は、考えていた。夕方にあった、あの一幕を。
あの金目の男は、何もかもがおかしい。金や紅に光る目を持ち、尋常ではない跳躍力。そして、まとう暝い雰囲気。
(あの男は……)
ふと浮き出た続きの言葉を、頭を振って蹴散らす。
(だって、そんな、馬鹿なことが……)
あるわけがない。そう思うが、実際に目にしてしまった。
──あの男は、人ではないのか……?