其ノ壱
二日後──。
あと少しで、とっぷりと日が暮れる。今日最後の輝きとばかりの力強い橙が、江戸の町を照らしていた。
鋼之助は煌々とした夕日に照らされながら、一人で八丁堀の役宅へ帰ろうとしている。
もう一月余り、毎日通っている道。当初、毎朝この道を通るたびに不安が募り、同心をやっていけるかと心許なかったが、どうにかやれている。それが少し、誇らしかった。
慣れた足取りで楓川を新場橋で越える。川面に夕日が反射して、きらきらと美しい。
こんなに美しいものがあるのかと、思わず鋼之助は足を止めた。
「きれいだな」
ありきたりな言葉だが、鋼之助はこの美しさを、つい先月前まで知らなかったのだ。
薄暗い部屋で一人きり、こんこんと絵を描いていた。題材にしたのは、部屋からわずかに見える庭に、身近にある道具。
そして、人物。と言っても、人見知りで上がり症の鋼之助が、実在の人間を前にして描けるわけがない。幼い頃から見知っている女中や用人。兄の子供が生まれ、なつかれると、その子供達を描いた。そして想像で歴史上の人物を描いたりもしていた。
絵を描くのに、自分の足で題材を探して歩いたことはない。部屋のなかだけが、鋼之助のすべてだった。
だが。部屋の外には、知らないものがいっぱいあったのだ。こんなにもきれいで、美しいものが。
なぜ今まで知らなかったのだろう。知ろうとしなかったのだろう。
たった一歩、部屋から出れば……。
「………」
ゆらり。鋼之助の足下がふらついた。たたらを踏み、ついにはしゃがみこんでしまう。吐く息が荒い。身体がぶるぶると震えた。
──だって、外には……。
「……っ」
鋼之助の胸に、苦い淀みが広がっていく。
──外には……。
「んっぷっ……」
喉奥から苦味が込み上げた。吐き気が止まらない。うずくまる鋼之助は、何度もえずいた。
「ん、はあっ、はあ、はあ……」
鋼之助の額に、じわりと汗が浮かんだ。霞がかる頭のなかでは、過去の出来事がぐるぐると思い出されていく。
黒い、黒い、黒い影。
黒い影が呼ぶ。
黒い影が笑っている。
──ねえ、呼んでるよ。
──あそこに、なにかいるよ?
──嘘じゃ、ない……。
女が喚いている。
子供が嗤っている。
「嘘じゃない……、嘘じゃ……」
鋼之助は左頬に左手をあてた。ぶつぶつと念仏のように「嘘じゃない」と、呟いている。
心の奥底に、重石を付けて封じ込んでいたもの。それが、ずるずると這い上がってくる。
「うう、うぅぅ……っ」
怖くて怖くて、堪らない。
得体の知れない恐怖が、身体を蝕んでいく。
鋼之助の心模様に同調するように、いつのまにか夕日は山あいに隠れ、あたりは薄暗くなっていた。
遠くから、明るい声がする。家族で団欒しているのだろう。食べ物の匂いもした。
なのに、どこか現実離れした感覚が身を包んだ。
ぼんやりとした鋼之助の目に、二つの小さな光が入った。それは、金色の光。
「見つけたよ」
薄暗いのに、どうしてか金色の光が笑った気がした。
金の光はゆっくりと、鋼之助に向かってくる。その光が目の輝きだと気づいたのは、人相がわかるぐらいに近づいたときだ。
「あ……」
鋼之助の喉がひきつった。あの男だ。神田川でおちなの遺体を、橘町でおみさの遺体を熱心に見ていた、あの金目の男。
男の目は異様な光を帯びていた。以前に見たときよりも、断然に輝きが違う。
鋼之助と金目の男は、一間(一メートル八十)ほどのあいだで対峙している。
「……っ!」
鋼之助は身体を強張らせた。男の手に刃物が握られているのに気づいたのだ。男は黙ったままに刃物を構え、一直線に鋼之助に向かってきた。
なのに鋼之助は身構えることができない。毎朝、義父である新八郎と朝稽古をしているが、まだ素振り程度しか知らない。そのうえ、身体がすくんでいるから動けないのだ。
──殺されるのか。
頭のなかの妙に冷静な部分がそう思った。
勢いよく迫る刃──……、その時!
「やいやいやいっ!わしの息子に何してやがるっ!」
と、怒鳴り声が響き渡った。
鋼之助は声がしたほうを見た。
どうして、ここにいるのだろうと、鋼之助は目を見張った。
助けに入ったのは、なんと、義父の佐倉新八郎だったのだ。
「ち、ちちう……え?」
新八郎は抜き身の太刀を右手に、鋼之助に駆け寄る。
「大事はないか、鋼之助?」
「は……、はっ。ありませぬ」
鋼之助の無事を確認すると、新八郎は金目の男と向き合った。
「おぬしは何者だ? なぜ鋼之助を狙った?」
「………」
答えるつもりはないのか。金目の男は黙ったまま、にやにやと笑っている。
「ちっ、気味の悪い」
口をぎゅっと一文字に結び、新八郎は刀を正眼に構えた。新八郎は小野派一刀流を極めていると、朝稽古のときに言っていた。その言葉どおり、真剣を構えた新八郎から発せられる気迫は、剣術に疎い鋼之助でも肌に感じる。
だが金目の男には通じていないのか、薄ら笑い浮かべたままだ。何ともいえない暝い笑い。
(この雰囲気……)
鋼之助の頭に、火花が弾いた。
この金目の男が持つ雰囲気を、どかで見た。
この男が、ではなく、この男が持つ雰囲気とよく似たものを、鋼之助は過去に見た気がするのだ。
(どこで見たのだ?)
どくどくと、胸が早打つ。あと少しで思い出せる。だがそれを邪魔をするように、頭に霞がかかるのだ。
おまえは本当に知りたいのか? 知ってしまって後悔はしないのか?
誰かが、そう問うのだ。
「鋼之助、どうした?」
異変に気づいた新八郎が声をかけるが、鋼之助は返事を返せる余裕がない。頭のなかで過去の記憶が、洪水となって轟々と流れていっていたのだ。
すると、そのとき。
「佐倉どのっ!」
「出合え、出合え!」
「八丁堀に討ち入りだあっ!」
たくさんの足音が集まってきた。新八郎の声を聞きつけて、近隣の住人が駆けつけてきたのだ。
「ふん」
金目の男は忌々しげに地面に唾を吐くと、両膝を曲げる。そして地面を強く蹴り上げて、近くの家の屋根上に飛び移ってしまった。
「なっ?」
目の前で起こった異常な出来事に、集まり出した人々が驚きの声を上げた。新八郎も、大きく目を見開いている。
そのとき新八郎が、ぼそりと呟いた。聞こえたのは鋼之助だけだろう。
「もしや、妄鬼か……っ?」
言葉尻が尖っている。新八郎は、あの男を知っているのか。