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無能同心  作者: 葉弦
第五章 過去〜奇縁〜
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其ノ壱

 二日後──。

 あと少しで、とっぷりと日が暮れる。今日最後の輝きとばかりの力強い橙が、江戸の町を照らしていた。

 鋼之助は煌々とした夕日に照らされながら、一人で八丁堀の役宅へ帰ろうとしている。

 もう一月余り、毎日通っている道。当初、毎朝この道を通るたびに不安が募り、同心をやっていけるかと心許なかったが、どうにかやれている。それが少し、誇らしかった。

 慣れた足取りで楓川を新場橋で越える。川面に夕日が反射して、きらきらと美しい。

 こんなに美しいものがあるのかと、思わず鋼之助は足を止めた。


「きれいだな」


 ありきたりな言葉だが、鋼之助はこの美しさを、つい先月前まで知らなかったのだ。

 薄暗い部屋で一人きり、こんこんと絵を描いていた。題材にしたのは、部屋からわずかに見える庭に、身近にある道具。

 そして、人物。と言っても、人見知りで上がり症の鋼之助が、実在の人間を前にして描けるわけがない。幼い頃から見知っている女中や用人。兄の子供が生まれ、なつかれると、その子供達を描いた。そして想像で歴史上の人物を描いたりもしていた。

 絵を描くのに、自分の足で題材を探して歩いたことはない。部屋のなかだけが、鋼之助のすべてだった。

 だが。部屋の外には、知らないものがいっぱいあったのだ。こんなにもきれいで、美しいものが。

 なぜ今まで知らなかったのだろう。知ろうとしなかったのだろう。

 たった一歩、部屋から出れば……。


「………」


 ゆらり。鋼之助の足下がふらついた。たたらを踏み、ついにはしゃがみこんでしまう。吐く息が荒い。身体がぶるぶると震えた。


 ──だって、外には……。


「……っ」


 鋼之助の胸に、苦い淀みが広がっていく。


 ──外には……。


「んっぷっ……」


 喉奥から苦味が込み上げた。吐き気が止まらない。うずくまる鋼之助は、何度もえずいた。


「ん、はあっ、はあ、はあ……」


 鋼之助の額に、じわりと汗が浮かんだ。霞がかる頭のなかでは、過去の出来事がぐるぐると思い出されていく。


 黒い、黒い、黒い影。

 黒い影が呼ぶ。

 黒い影が笑っている。


 ──ねえ、呼んでるよ。

 ──あそこに、なにかいるよ?

 ──嘘じゃ、ない……。


 女が喚いている。

 子供が嗤っている。



「嘘じゃない……、嘘じゃ……」


 鋼之助は左頬に左手をあてた。ぶつぶつと念仏のように「嘘じゃない」と、呟いている。

 心の奥底に、重石を付けて封じ込んでいたもの。それが、ずるずると這い上がってくる。


「うう、うぅぅ……っ」


 怖くて怖くて、堪らない。

 得体の知れない恐怖が、身体を蝕んでいく。

 鋼之助の心模様に同調するように、いつのまにか夕日は山あいに隠れ、あたりは薄暗くなっていた。

 遠くから、明るい声がする。家族で団欒しているのだろう。食べ物の匂いもした。

 なのに、どこか現実離れした感覚が身を包んだ。

 ぼんやりとした鋼之助の目に、二つの小さな光が入った。それは、金色の光。


「見つけたよ」


 薄暗いのに、どうしてか金色の光が笑った気がした。

 金の光はゆっくりと、鋼之助に向かってくる。その光が目の輝きだと気づいたのは、人相がわかるぐらいに近づいたときだ。


「あ……」


 鋼之助の喉がひきつった。あの男だ。神田川でおちなの遺体を、橘町でおみさの遺体を熱心に見ていた、あの金目の男。

 男の目は異様な光を帯びていた。以前に見たときよりも、断然に輝きが違う。

 鋼之助と金目の男は、一間(一メートル八十)ほどのあいだで対峙している。


「……っ!」


 鋼之助は身体を強張らせた。男の手に刃物が握られているのに気づいたのだ。男は黙ったままに刃物を構え、一直線に鋼之助に向かってきた。

 なのに鋼之助は身構えることができない。毎朝、義父である新八郎と朝稽古をしているが、まだ素振り程度しか知らない。そのうえ、身体がすくんでいるから動けないのだ。


 ──殺されるのか。


 頭のなかの妙に冷静な部分がそう思った。

 勢いよく迫る刃──……、その時!


「やいやいやいっ!わしの息子に何してやがるっ!」


 と、怒鳴り声が響き渡った。

 鋼之助は声がしたほうを見た。

 どうして、ここにいるのだろうと、鋼之助は目を見張った。

 助けに入ったのは、なんと、義父の佐倉新八郎だったのだ。


「ち、ちちう……え?」


 新八郎は抜き身の太刀を右手に、鋼之助に駆け寄る。


「大事はないか、鋼之助?」

「は……、はっ。ありませぬ」


 鋼之助の無事を確認すると、新八郎は金目の男と向き合った。


「おぬしは何者だ? なぜ鋼之助を狙った?」

「………」


 答えるつもりはないのか。金目の男は黙ったまま、にやにやと笑っている。


「ちっ、気味の悪い」


 口をぎゅっと一文字に結び、新八郎は刀を正眼に構えた。新八郎は小野派一刀流を極めていると、朝稽古のときに言っていた。その言葉どおり、真剣を構えた新八郎から発せられる気迫は、剣術に疎い鋼之助でも肌に感じる。

 だが金目の男には通じていないのか、薄ら笑い浮かべたままだ。何ともいえない暝い笑い。


(この雰囲気……)


 鋼之助の頭に、火花が弾いた。

 この金目の男が持つ雰囲気を、どかで見た。

 この男が、ではなく、この男が持つ雰囲気とよく似たものを、鋼之助は過去に見た気がするのだ。


(どこで見たのだ?)


 どくどくと、胸が早打つ。あと少しで思い出せる。だがそれを邪魔をするように、頭に霞がかかるのだ。

 おまえは本当に知りたいのか? 知ってしまって後悔はしないのか?

 誰かが、そう問うのだ。


「鋼之助、どうした?」


 異変に気づいた新八郎が声をかけるが、鋼之助は返事を返せる余裕がない。頭のなかで過去の記憶が、洪水となって轟々と流れていっていたのだ。

 すると、そのとき。


「佐倉どのっ!」

「出合え、出合え!」

「八丁堀に討ち入りだあっ!」


 たくさんの足音が集まってきた。新八郎の声を聞きつけて、近隣の住人が駆けつけてきたのだ。


「ふん」


 金目の男は忌々しげに地面に唾を吐くと、両膝を曲げる。そして地面を強く蹴り上げて、近くの家の屋根上に飛び移ってしまった。


「なっ?」


 目の前で起こった異常な出来事に、集まり出した人々が驚きの声を上げた。新八郎も、大きく目を見開いている。

 そのとき新八郎が、ぼそりと呟いた。聞こえたのは鋼之助だけだろう。


「もしや、妄鬼か……っ?」


 言葉尻が尖っている。新八郎は、あの男を知っているのか。






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