其ノ弐
「後妻をとると思うか?」
あれだけ意固地に後妻をとることを拒否していたのだ。今さら妻を娶るとは思えない。
そもそも後継ぎも無く同心を引退すれば、八丁堀の役宅から出なければならない。役宅は公儀から貸し与えられているのだ。
新八郎はもう引退する。となると、ただ新調しただけとは考えられないのである。
にいっと、山村が片頬を吊り上げた。
「と、なるとぉ?」
片岡に答えを言わせようという口振りだ。
推測していくと、どうやら答えは一つしかない。
「養子だな」
「な!」
満足げに山村が笑った。
「そうか、養子か」
山村とは対称的に、片岡がぼんやりとした顔で呟いた。
「佐倉さんの引退を、身近に感じちまうなあ」
「あ、うん……」
片岡の台詞に山村も、まるで迷子にあった子供のような顔になった。今にも泣き出しそうな、でもどこか、きっと両親が見つけてくれるという希望ものせた、ちぐはぐな顔つきで。
片岡真太郎と山村三次郎は同期であり、共に三十二歳の同い年だ。
互いに十四歳の頃に同心みならいになった。
当初二人は、それぞれ己の父に付き従って雑務をこなしていた。まだ十四だ。できる手伝いは限られる。だから二人は不満を持っていた。
このくらいからの子は、大人と子供の狭間という、微妙な年齢。
世間もまだよく知らず、己はもっとできると高を括っている。こんな小者がやるような仕事なんか、本当の小者にやらせばいいのにと。
同心になったのだから、罪人を挙げたい、手柄を立てたい。
同心のみならず奉行所に勤める者のお役目は、江戸の治安を守るといったもの。行政・司法・犯罪・消防といったすべてを担うのだ。
犯罪の探索などといった治安維持は、ごく一部でしかない。そんな当然のこと、父親が町奉行所に勤めているのだから、わかりそうなものだ。
だが、町を颯爽と歩き、皆に慕われている定町廻り同心を見ていたら、つい思い込んでしまう。
これが同心のお役目だと。
──だからだからだから。
──罪人を挙げてやる。
──そうすれば、きっと、認めてもらえる。
それは偶然聞いた、岡っ引きの情報。
朝顔の義助の住み家がわかったというものだった。
この義助という男は、当時の江戸の町を賑わしていたスリだった。
普通のスリならば、ここまで噂にのぼらなかっただろう。なんせ江戸にはスリが多いのだ。
義助は紙入れをするだけでなく、折り紙でで作った朝顔を置いていくという、おかしな男だった。
粋を気取っていたのだろう。
町人も朝顔スリのことを、面白半分で囃し立てていた。
二人は当然のように義助の住み家に向かった。張り込んで、スリの瞬間に縄をかける。スリは現行犯でなければ捕まえられないのだ。
義助は家を出て、人通りの多いほうに向かった。
そうして、裕福そうな大店の手代らしき男に狙いを定め、懐に素早く指先を入れる。紙入れを抜き取り、朝顔を入れようとした瞬間、二人は声をあげた。
「朝顔の義助、見たぜ!」
簡単に捕まえられると思っていた。相手はケチなスリだ。現場を押さえられれば、諦めて、お縄につく。
だがそれは、みならい同心の、甘い思い込みだった。
財布の代わりに朝顔を置いていく。
そういったような一風変わった行為を続けてする人間というものは、これは己の美学だと、自分に酔っている場合が多い。もしかすると、紙入れを盗むより、この行為をしたいがためにスリをしていたのかもしれない。
あと少しで達成できたのに邪魔された。逆上するのには、十分だった。
義助は懐に忍ばせていた匕首を抜き、闇雲に振り回した。町人の何人かが呻く。
まだ十手を与えられていないみならいは、咄嗟のことで刀を抜くよりも先に切りつけられた。
片岡は左の二の腕、山村は右手の甲を。共に深い傷ではなかったが、二人は恐怖に身を竦ませた。なんせ、初めての刃物のやり合いだ。怖くて、怖くて。刃が迫る。なのに、動けない。
そこに現れたのが、佐倉新八郎だった。
簡単に十手で匕首を弾き飛ばし、義助の腹に一撃を食らわす。
あっという間の出来事だった。
唖然とする片岡と山村に、佐倉は鷹揚な足取りで近づいた。二人は身を強張らせた。怒鳴られるに決まっている。
だが、
「若い奴は、無茶をするぜ」
佐倉はそう言って、苦笑いを溢したのだった。
「あ」
「う」
二人は泣いた。往来だということも忘れて、声を上げて泣いた。
このあと片岡と山村は、しばらくの間、謹慎となった。いかんせん町人にも怪我人が出ているのだ。若気の至りではすまされない。
父親にも殴られた。それだけの無茶をしてしまったのだ。
世間知らずで馬鹿だった子供時代の、苦い想い出である。
このとき以来である。片岡と山村が佐倉を慕うようになったのは。
何かにつけて、佐倉のあとを追う。犬っころが飼い主になついていたようだとは、当時を知る先輩談だ。
あれから二十年近く経つ。
片岡と山村の父は、とっくに引退している。ある意味で佐倉は、二人の父親のような存在だった。
そんな佐倉が引退するという事実。
今まで、どこか遠い世界の話のような気がしていた。しかしそれが急に近寄ってきたのである。
「寂しいな」
「寂しいさ」
その日は必ずやってくる。
「ずうっと同心をやってほしかったよ」
「うん」
無理だとわかっていても、口にせずにいられない。
だがいつまでも、くよくよしてるばかりでは駄目だ。二人は佐倉の背を追って、ここまでになったのだ。
今度は、その恩を返す番である。
片岡は決意を秘めた目で山村に向いた。
「佐倉さんの養子、しっかり面倒を見てやろうぜ」
「おう!」
片岡と山村は深く頷きあったのだった。




