其ノ肆
「もう七つ(午後四時)を過ぎてるな。よし、奉行所に引き上げるか」
「はい」
同心の勤務時間は夕七つまでだ。片岡と鋼之助は千草屋から出ると、南町奉行所へと帰路についた。だが、日本橋大通りを過ぎたあたりで、
「ああっ」
と、片岡が素っ頓狂な声を上げた。なにがあったのだろうか。鋼之助が片岡の顔を見上げると、そこにはしかめっ面があった。
「忘れてた……」
そう言うと、眉間に皺を寄せた片岡が頭を掻く。そして一つ、大きく溜め息をついた。
「辰次と太助を」
「あ」
八つ半(午後三時)に米沢町の自身番で、辰次と太助と落ち合う予定だったのだ。似顔絵のことで頭がいっぱいで、二人のことをすっかり忘れていた。
知らせに走らせようにも小者はいない。自身番の手を借りたくても時刻が時刻だ。店閉まいや食事やらで忙しい頃。ただの言伝てで、手を借りるのは憚られた。
「……ちっ、めんどくせえな」
くちびるをへの字に曲げた片岡は、不満を言いつつも足を米沢町に向けた。なんだかんだで片岡は面倒見がいいのだ。
口許を綻ばした鋼之助は、夕日のなかを歩いていく片岡の背中を追った。
◇◇◇◇◇
次の日。南町奉行所に出仕したあと、片岡と鋼之助は、岡っ引きの辰次と小者の太助を連れて、道行きながら打ち合わせをした。
「ゆうべ話したとおり、今日はおゆいとおはるの似顔絵を、おちなとおみさの両親に見てもらう」
探索が進展するかもしれない喜びからか、片岡の足取りは軽い。
「へい」
辰次が軽快に返事をした。
ゆうべ、あれから片岡達が米沢町の自身番に顔を出すと、仏頂面の辰次が待っていた。太助は欠伸かいて待ちくたびれていた。岡っ引きと小者という立場だから、表立って同心に文句は言えないだろう。片岡達の弁解を黙って聞いていたのだった。
「二組に分けますか?」
昨日のことなんぞ忘れたような口振りで辰次が聞いた。一瞬迷ったようだが、片岡はすぐに決断した。
「そうだな。辰次は」
「あっしは佐倉の旦那と、おちなの長屋に行ってきます」
片岡の言葉を遮って、辰次は言い切った。ついでに、にやりと口角を上げた。
「片岡の旦那と佐倉の旦那がまた一緒に行動すれば、忘れられるかもしれねえんで」
「なにっ」
「うっ」
辰次はしっかりと昨日の片岡達の失態を忘れはせず、ちくりと皮肉った。同時に不満の声を上げた片岡と鋼之助だが、身から出た錆なもので強くは出られない。片岡は口をひん曲げて、鋼之助は気まずそうに下を向いた。
「……くくっ」
横では、珍しく太助が笑いを噛み殺していた。
片岡と太助は、おみさの両親が住む富沢町の柳長屋に向かい、鋼之助と辰次は、おちなの両親が住む田次郎長屋に向かった。
長屋の木戸をくぐり、路地を進む。田次郎長屋は少し古い割り長屋だが、手入れが行き届いている。古いながらも住みやすそうだ。どぶ板もきちんと並んである。
ここには、一月前に神田川でおちなの遺体が見つかってから、聞き込みのため何度か通った。
「邪魔するよ」
木戸から二つ目の家の前に立った辰次が、おとないを入れた。ここがおみさの両親が住む家だ。
辰次が腰高障子を開くと、四畳半の部屋で女が横になっていた。女はおちなの母親だ。母親は鋼之助達に気づくと、慌てて居住まいを正した。
「親分さん、それに佐倉さま」
「身体は大丈夫か?」
土間に入り、辰次が少しだけ優しげな口調で聞いた。
「はい、もう、大丈夫です」
気丈に言うが、母親の頬は痩けていた。母親はおちなを失った心労から食が細くなり、半月前に倒れてしまったのだ。
「香平は仕事だな」
「はい」
香平はおちなの父親だ。腕の良い左官職人である。
「おまえさんまで失うことになったら、香平もあとを追いかねんぞ。香平のためにも、しっかりとな」
「はい」
辰次から労りの言葉が心に沁みたようで、母親は濡れた目尻を拭った。
鋼之助は岡っ引きは辰次しか知らない。岡っ引きとは、ただ聞き込みをするだけではなく、こういった世話もするらしい。
「ところで、今日寄ったのは、この絵を見てもらいたいからなんだが……、旦那」
辰次が絵を出すよう、鋼之助に目配せする。
「これ、なんだが」
たどたどしい声と共に鋼之助は、懐からおゆいの似顔絵を出した。昨日描いたもので、片岡達のほうはおはるの似顔絵を持っていっている。
「まあ」
絵を目にした途端、母親は大きく目を開いた。口許が小刻みにわなないてる。
(やはり、共通点は……)
鋼之助は確証した。
「お、おちなですっ。……ああっ、ああ、おち、な……?」
眦に大粒の涙を浮かべていたが、だんだんと冷静になったらしく、ついには母親は小首を傾げた。
「あの、この絵、おちなですか?」
「いや、違う」
辰次がきっぱりと否定した。
やはり母親というものは、どんなに似ていても自分が産んだ子供の違いは見抜けるのだ。
「この子は?」
「この子はな──……」
辰次が説明する。ただし、まだおゆいとおはるは確実なことはわかっていない。行方不明とだけ伝えた。
「そうですか……」
母親は複雑な顔を見せた。その胸中は何を思っているのだろう。思わず鋼之助は、腹を押さえていた。
それからしばらく、母親は似顔絵を眺めていた。そして、ぽつりと。
「でも、似ている……」
母親は、一筋の涙を溢した。
田次郎長屋を出た鋼之助達は、片岡達と落ち合うために小伝馬町の自身番に向かった。
自身番を覗けば、すでに片岡と太助が待っており、片岡は上がり框に腰かけて、茶を飲んでいた。
「どうだった?」
鋼之助の顔を見た途端に片岡が訊く。その顔は生き生きとしている。片岡のほうも成果があったのだろう。辰次が答えた。
「へえ、大当たりです」
そして、からかうような口調で、
「旦那のほうも収穫があったようですね」
と、言った。
「よくわかったな」
きょとんとして答える。もしかしたら片岡は、顔に出やすいことを自覚していないのかもしれない。
不思議そうな顔をしつつ、片岡は懐からおはるの似顔絵を出して広げた。
「おみさの親に見せたら、すぐに似ていると返ってきたぜ」
おみさの遺体の捨て方には含むものはあるが、顔が似ているということは大きいと、片岡が続けた。
これで犠牲となった女の子達の共通点は『顔』でほぼ間違いないとみていいだろう。
「だが、そうなると」
沈んだ顔で片岡が言い淀む。
「おゆいとおはるも下手人の手にかかったとみて、間違いないだろうな」
「ああ……」
鋼之助は口許を押さえた。
(そうだった)
犠牲者に共通するものが顔であれば、おゆいとおはるも……。
探索が進むことばかりに気をとられていて、そのことには気がいかなかった。
「半年前に最初の犠牲者となった、おゆいとおはる。一月前に三人目のおちな。そして、八日前におみさが手にかかった」
片岡が事件を順立てていった。
「どんどん間隔が短くなっていますね」
辰次が鋭い目を片岡に向けた。
「ああ、我慢がきかなくなってんだろうな」
片岡は、鋼之助、辰次、太助と順繰りに顔を見回した。
「いいか、五人目の犠牲が出るまえに、この事件の片を着ける」
力強い片岡の言葉に、皆が深く頷いた。
「下手人は次の獲物を探しているはずだ。手分けして、下手人より先にこの顔立ちに似た子供を探す」
「つまり、対象となる子供を守りつつ、下手人がのこのこと現れるのを見張る、ということですね」
「そうだ」
先読みした辰次に、片岡がにやりと笑い返す。だがすぐに、苦しげな顔になった。
「子供を囮に使うのは気が引けるが、しかたがねえ。こうでもしなければ、下手人の尻尾が掴めねえのさ」
「はい」
片岡の心中は痛いほどわかる。次の犠牲者を出すわけにはいかないのだ。
そうしてこの日から、おゆいとおはるの似顔絵をもとに、名の知れない人探しが始まった。
◇◇◇◇◇
三日後。
鋼之助は岡っ引きの辰次と一緒に、おゆいの似顔絵をもとに人探しを続けていた。
昨日一昨日は日本橋大通りを中心に、その界隈を聞き込んだ。だがなかなか成果は得られない。
たまに似ている子がいると耳にして、その女の子に会いに行くが、実際に会ってみると似てなかったり……。人というものは、興味の無いことへの記憶は、ずいぶんといい加減になるのかもしれないと、鋼之助は実感した。