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無能同心  作者: 葉弦
第四章 糸口
28/51

其ノ肆

「もう七つ(午後四時)を過ぎてるな。よし、奉行所に引き上げるか」

「はい」


 同心の勤務時間は夕七つまでだ。片岡と鋼之助は千草屋から出ると、南町奉行所へと帰路についた。だが、日本橋大通りを過ぎたあたりで、


「ああっ」


 と、片岡が素っ頓狂な声を上げた。なにがあったのだろうか。鋼之助が片岡の顔を見上げると、そこにはしかめっ面があった。


「忘れてた……」


 そう言うと、眉間に皺を寄せた片岡が頭を掻く。そして一つ、大きく溜め息をついた。


「辰次と太助を」

「あ」


 八つ半(午後三時)に米沢町の自身番で、辰次と太助と落ち合う予定だったのだ。似顔絵のことで頭がいっぱいで、二人のことをすっかり忘れていた。

 知らせに走らせようにも小者はいない。自身番の手を借りたくても時刻が時刻だ。店閉まいや食事やらで忙しい頃。ただの言伝てで、手を借りるのは憚られた。


「……ちっ、めんどくせえな」


 くちびるをへの字に曲げた片岡は、不満を言いつつも足を米沢町に向けた。なんだかんだで片岡は面倒見がいいのだ。

 口許を綻ばした鋼之助は、夕日のなかを歩いていく片岡の背中を追った。







◇◇◇◇◇






 次の日。南町奉行所に出仕したあと、片岡と鋼之助は、岡っ引きの辰次と小者の太助を連れて、道行きながら打ち合わせをした。


「ゆうべ話したとおり、今日はおゆいとおはるの似顔絵を、おちなとおみさの両親に見てもらう」


 探索が進展するかもしれない喜びからか、片岡の足取りは軽い。


「へい」


 辰次が軽快に返事をした。

 ゆうべ、あれから片岡達が米沢町の自身番に顔を出すと、仏頂面の辰次が待っていた。太助は欠伸かいて待ちくたびれていた。岡っ引きと小者という立場だから、表立って同心に文句は言えないだろう。片岡達の弁解を黙って聞いていたのだった。


「二組に分けますか?」


 昨日のことなんぞ忘れたような口振りで辰次が聞いた。一瞬迷ったようだが、片岡はすぐに決断した。


「そうだな。辰次は」

「あっしは佐倉の旦那と、おちなの長屋に行ってきます」


 片岡の言葉を遮って、辰次は言い切った。ついでに、にやりと口角を上げた。


「片岡の旦那と佐倉の旦那がまた一緒に行動すれば、忘れられるかもしれねえんで」

「なにっ」

「うっ」


 辰次はしっかりと昨日の片岡達の失態を忘れはせず、ちくりと皮肉った。同時に不満の声を上げた片岡と鋼之助だが、身から出た錆なもので強くは出られない。片岡は口をひん曲げて、鋼之助は気まずそうに下を向いた。


「……くくっ」


 横では、珍しく太助が笑いを噛み殺していた。

 片岡と太助は、おみさの両親が住む富沢町の柳長屋に向かい、鋼之助と辰次は、おちなの両親が住む田次郎長屋に向かった。

 長屋の木戸をくぐり、路地を進む。田次郎長屋は少し古い割り長屋だが、手入れが行き届いている。古いながらも住みやすそうだ。どぶ板もきちんと並んである。

 ここには、一月前に神田川でおちなの遺体が見つかってから、聞き込みのため何度か通った。


「邪魔するよ」


 木戸から二つ目の家の前に立った辰次が、おとないを入れた。ここがおみさの両親が住む家だ。

 辰次が腰高障子を開くと、四畳半の部屋で女が横になっていた。女はおちなの母親だ。母親は鋼之助達に気づくと、慌てて居住まいを正した。


「親分さん、それに佐倉さま」

「身体は大丈夫か?」


 土間に入り、辰次が少しだけ優しげな口調で聞いた。


「はい、もう、大丈夫です」


 気丈に言うが、母親の頬は痩けていた。母親はおちなを失った心労から食が細くなり、半月前に倒れてしまったのだ。


「香平は仕事だな」

「はい」


 香平はおちなの父親だ。腕の良い左官職人である。


「おまえさんまで失うことになったら、香平もあとを追いかねんぞ。香平のためにも、しっかりとな」

「はい」


 辰次から労りの言葉が心に沁みたようで、母親は濡れた目尻を拭った。

 鋼之助は岡っ引きは辰次しか知らない。岡っ引きとは、ただ聞き込みをするだけではなく、こういった世話もするらしい。


「ところで、今日寄ったのは、この絵を見てもらいたいからなんだが……、旦那」


 辰次が絵を出すよう、鋼之助に目配せする。


「これ、なんだが」


 たどたどしい声と共に鋼之助は、懐からおゆいの似顔絵を出した。昨日描いたもので、片岡達のほうはおはるの似顔絵を持っていっている。


「まあ」


 絵を目にした途端、母親は大きく目を開いた。口許が小刻みにわなないてる。


(やはり、共通点は……)


 鋼之助は確証した。


「お、おちなですっ。……ああっ、ああ、おち、な……?」


 眦に大粒の涙を浮かべていたが、だんだんと冷静になったらしく、ついには母親は小首を傾げた。


「あの、この絵、おちなですか?」

「いや、違う」


 辰次がきっぱりと否定した。

 やはり母親というものは、どんなに似ていても自分が産んだ子供の違いは見抜けるのだ。


「この子は?」

「この子はな──……」


 辰次が説明する。ただし、まだおゆいとおはるは確実なことはわかっていない。行方不明とだけ伝えた。


「そうですか……」


 母親は複雑な顔を見せた。その胸中は何を思っているのだろう。思わず鋼之助は、腹を押さえていた。

 それからしばらく、母親は似顔絵を眺めていた。そして、ぽつりと。


「でも、似ている……」


 母親は、一筋の涙を溢した。

 田次郎長屋を出た鋼之助達は、片岡達と落ち合うために小伝馬町の自身番に向かった。

 自身番を覗けば、すでに片岡と太助が待っており、片岡は上がり框に腰かけて、茶を飲んでいた。


「どうだった?」


 鋼之助の顔を見た途端に片岡が訊く。その顔は生き生きとしている。片岡のほうも成果があったのだろう。辰次が答えた。


「へえ、大当たりです」


 そして、からかうような口調で、


「旦那のほうも収穫があったようですね」


 と、言った。


「よくわかったな」


 きょとんとして答える。もしかしたら片岡は、顔に出やすいことを自覚していないのかもしれない。

 不思議そうな顔をしつつ、片岡は懐からおはるの似顔絵を出して広げた。


「おみさの親に見せたら、すぐに似ていると返ってきたぜ」


 おみさの遺体の捨て方には含むものはあるが、顔が似ているということは大きいと、片岡が続けた。

 これで犠牲となった女の子達の共通点は『顔』でほぼ間違いないとみていいだろう。


「だが、そうなると」


 沈んだ顔で片岡が言い淀む。


「おゆいとおはるも下手人の手にかかったとみて、間違いないだろうな」

「ああ……」


 鋼之助は口許を押さえた。


(そうだった)


 犠牲者に共通するものが顔であれば、おゆいとおはるも……。

 探索が進むことばかりに気をとられていて、そのことには気がいかなかった。


「半年前に最初の犠牲者となった、おゆいとおはる。一月前に三人目のおちな。そして、八日前におみさが手にかかった」


 片岡が事件を順立てていった。


「どんどん間隔が短くなっていますね」


 辰次が鋭い目を片岡に向けた。


「ああ、我慢がきかなくなってんだろうな」


 片岡は、鋼之助、辰次、太助と順繰りに顔を見回した。


「いいか、五人目の犠牲が出るまえに、この事件の片を着ける」


 力強い片岡の言葉に、皆が深く頷いた。


「下手人は次の獲物を探しているはずだ。手分けして、下手人より先にこの顔立ちに似た子供を探す」

「つまり、対象となる子供を守りつつ、下手人がのこのこと現れるのを見張る、ということですね」

「そうだ」


 先読みした辰次に、片岡がにやりと笑い返す。だがすぐに、苦しげな顔になった。


「子供を囮に使うのは気が引けるが、しかたがねえ。こうでもしなければ、下手人の尻尾が掴めねえのさ」

「はい」


 片岡の心中は痛いほどわかる。次の犠牲者を出すわけにはいかないのだ。

 そうしてこの日から、おゆいとおはるの似顔絵をもとに、名の知れない人探しが始まった。






 ◇◇◇◇◇






 三日後。

 鋼之助は岡っ引きの辰次と一緒に、おゆいの似顔絵をもとに人探しを続けていた。

 昨日一昨日は日本橋大通りを中心に、その界隈を聞き込んだ。だがなかなか成果は得られない。

 たまに似ている子がいると耳にして、その女の子に会いに行くが、実際に会ってみると似てなかったり……。人というものは、興味の無いことへの記憶は、ずいぶんといい加減になるのかもしれないと、鋼之助は実感した。






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