其ノ肆
それから半刻(一時間)ほど素振りをした。
肌寒かったのに、うっすらと汗ばんでいる。息も上がっていた。
湯屋に行こうと新八郎が誘ったので、連れだって八丁堀の湯屋に出向くことになった。
新八郎の養子になってから、何度かともに湯屋へ行っている。普通なら小者らが供をするものだか、佐倉家には中間の弥彦しか屋敷で世話をする者がいない。
いま弥彦は屋敷で朝餉の支度をしているから、供はできないのだ。
家来を弥彦しか雇っていない理由というのが、そのほうが気楽だということらしい。先日に聞いた弥彦の言葉通り、だんだんと新八郎の本当の性格が見えてきている気がする。
「新さん」
「よお、勝八っちゃん」
湯屋に入ると、番台に座っていた初老の男が親しげに新八郎に声をかけた。勝八というここの主人で、新八郎とは古馴染みだそうだ。
二人が話し込んでいる間に、鋼之助は着物を脱ぎ、洗い場のほうに向かった。
留桶を取り、岡湯を貰う。
今では手慣れたものである。なんせ鋼之助は、一月前までは湯屋にも行ったことがなかったのだ。
そもそも鋼之助は八千石の旗本である瀧澤家の次男だったのである。屋敷に風呂があったので、わざわざ湯屋に行く必要がなかったのだ。
初めてこの湯屋へ来たときは、途方にくれた。何をどうすればいいのか。ぼうっとしていると、湯あたりしたのかと騒がれたのが懐かしい。
「お、佐倉じゃないか」
懐かしくも恥ずかしい過去を思い出していると、女湯のほうから声をかけられた。
湯屋は一応男女に別れているが、仕切りが浅い。石榴口が付いてる湯殿から、洗い場の中ほどまでしかないのだ。そうなると、脱衣場も双方から丸見えだった。
「山村さん」
声をかけたのは、同じ南町の奉行所定町廻りの山村三次郎だ。
八丁堀の湯屋は朝は留湯にされ、与力と同心が入ることが許されている。これは、男湯からの話を盗み聞く……いわゆる諜報活動の一環であった。
だが果たして、実際に諜報活動の役に立っているのかは、鋼之助にはわからない。
「おまえも風呂か」
「はい」
山村の鍛えあげられた身体は濡れていた。上がったとこなのだろう。
(それにしても)
凄い筋肉だ。胸板も厚く、腕も太い。場所が場所だけに下半身を凝視するわけにもいかないから、ちらりとしか見ていないが、足の筋肉もしっかりと付いている。己の貧弱な身体とは大違いである。
「お、三次郎も来てたか」
主人との話を切り上げて、新八郎が洗い場のほうにやってきた。
新八郎の身体も五十過ぎとは思えないくらいに逞しい。
新八郎と山村と鋼之助が並べば、大木・大木・爪楊枝、といった具合のちぐはぐな絵だ。
二人が言葉を交わすなか、鋼之助は身を隠すように両腕を胸の前で交差していた。
新八郎と鋼之助は身体を濯ぎ、男湯の石榴口をくぐった。新八郎は引退したし、鋼之助は女湯に入る度胸もない。だから男湯だ。
熱い湯がちくちくと肌を刺してくる。うううと、鋼之助は小さな呻き声を洩らした。また客が一人、石榴口をくぐった。するとその男は山村だった。
「おまえ、もう風呂に入ったのではないのか?」
平然と熱い湯に浸かる新八郎が聞く。
「へへ、せっかくの佐倉家の団欒なんで、相席させていただこうかと」
山村がぺろりと舌を出す。何かに感づいたのか、新八郎が片方の口端を上げて笑った。
「『早耳』の三次郎の耳を喜ばすネタは無いぞ」
「いやいや、そんなつもりじゃねえですよ」
湯船は石榴口があるため、ほの暗いからわかりづらいが、山村の笑いがひきつっているように見えた。
「それよりも……」
新八郎がちらりと、鋼之助を見た。
「片岡達が抱えている事件の、新しい情報は無いのか?」
思わず鋼之助の背筋が伸びた。当事者であるが、口を挟みにくい。
「はあ、それが……」
明るかった山村の声が下がった。それだけで情報は無いと悟った新八郎が、「そうか」と呟いた。続けて、
「この事件は難儀するぞ」
そう言う新八郎の目は、敵を前にした武者のように光っていた。
◇◇◇◇◇
それから二日後の朝。
二日前から突如として始まった、義父による朝稽古をこなした鋼之助は、南町奉行所に出仕した。
慣れないせいか、身体の節々が痛い。つい泣き言を言いたくなるが、筋がいいと新八郎に言われたので、引っ込んでしまう。我ながら単純だと、鋼之助は苦笑する。
長屋門造りの表門の脇にある小門を抜け、右手側にある同心詰所に入った。まだ片岡真太郎は出仕していないようだ。
ここしばらく、鋼之助の指導役の片岡とは別行動である。片岡は奉行所で、おちなとおみさの事件に類似する過去の事件記録はないか調べている。
鋼之助は片岡が手札を与えている岡っ引きの辰次を借りて、おみさの住んでいた柳長屋を中心に富沢町付近で聞き込みをしていた。
しかし、たいした収穫は無かった。




