其ノ参
「ほ、ほんとに違いますから」
「ははは」
片岡はまったく請け合わない。鋼之助は言い合いできるほど、まだ口達者ではない。
せめて昨夜描いた絵を持っていればよかったと思いながら、鋼之助は下を向いた。
(そうだ。あの男の絵を片岡さんに見てもらえばよかった)
絵を描けた喜びが強く、そこまで気が回らなかった。
昨夜現場で見た金目の男は、一月前に神田川に捨てられていたおちなの現場にもいた。何らかの関わりがあるのかもしれない。
鋼之助が後悔しかけたとき、辰次が戻ってきた。
やはりいい男だ。通り過ぎた若い娘の目が釘付けになっている。
辰次はそんな娘に興味もしめさず、自身番まできた。
「片岡の旦那、長吉夫婦の住む柳長屋を見てきました。ついでに長屋の連中と大家に話を訊いてきやした」
「うむ。それで」
「へい。どうやら二十二、三の若い男が一人、何度か木戸から長屋を覗いていたようです」
「特徴は?」
片岡が問うと、辰次の顔が渋いものになった。
「それが、これといった特徴のある顔では無かったらしく、体つきも普通だそうで」
「おちな殺しと同じか」
これといった特徴も無い、中肉中背の若い男。
ふと鋼之助の頭に、金色の目の男が思い出された。
だがあんな特徴的な目だ。そんな特徴を持つ男が長屋の周りでうろちょろしていれば、誰もが覚えているはず。それに顔にも、印象は薄いが特徴がある。
「よし。過去の事件記録を調べてみるか」
気合いを入れるように両膝を叩き、片岡が立ち上がった。
「おちなとおみさの遺体の捨て方の違いには疑問が残るが、下手人が同じ人間の可能性が高い。となれば常習犯であろう。そうなると、他にも似た事件があるかもしれん」
なんせ今のままでは手がかりが少なすぎると、片岡が言う。
おみさが犠牲になったのは残念だが、常習犯の可能性があるとわかっただけでも救いだ。
「はい」
無意識に鋼之助は、頭の隅に金色の目の男を追いやっていた。
「佐倉は辰次と柳長屋周辺の探索だ」
「はい」
鋼之助は素直に頷く。みならいができることは少ないのだ。
片岡が鋼之助を見た。
「おまえは素直だな」
「……は?」
「いや、何でもない」
そうして自身番から出ていった。片岡の言うことは、時々謎かけのように難しい。
◇◇◇◇◇
「鋼之助っ!」
次の日の朝。
七つ半(午前五時)を少し過ぎた頃、鋼之助は義父である新八郎にたたき起こされた。こんなことは初めてである。
寝惚けまなこに写る新八郎の両手には、木刀。一気に目が覚めた。
「ち、義父上っ、いかがなさいましたっ?」
賊でも襲ってきたのかと飛び起きると、
「鋼之助、庭に出よ」
「へ?」
ぱちくりと目を瞬かせる鋼之助に、新八郎が木刀を差し出してきた。思わず受け取った鋼之助。
「うむ。やる気満々だな」
と、鼻息荒い新八郎。
いえ、咄嗟に掴んだだけですと、言う前に庭に連れていかれた。
「ひっ」
ぴうっと、冷たい風が肌を撫でる。春と言えど、朝はまだまだ肌寒い。鋼之助は寝間着のままで新八郎と対峙した。
濡縁の端では、中間の弥彦が二人を見ている。
「同心のお役目についたのだから、自分の身くらい自分で守られるようにならねばならん」
「はあ」
新八郎の言うことはもっともだ。つまりこれから新八郎は、鋼之助に剣術の稽古をつけてくれるということなのだろう。
しかし、なにもこんな朝早くでなくてもと、鋼之助はあくびを噛み殺す。
「ではまず正眼の構えをせよ」
新八郎が木刀を構えた。気迫に押され、鋼之助ももたもたと木刀を構えようとする。
だが、そのときになって気づいた。
「あの、正眼の構えとは、どういうものですか?」
絵筆は毎日のように握っていたが、木刀はまったくといっていいほど触ったことが無い。
「………」
言葉が詰まる新八郎、項垂れる弥彦。どうやら先は長いらしい。
庭に冷たい風が吹いた。




