其ノ壱
「おいおいおい、聞いたか?」
桜の蕾が膨らみ始める弥生月。
お江戸は南町奉行所の同心詰所に、定町廻り同心の山村三次郎が勢いよく入ってきた。
「ああっ。うるせえな、間違っちまったじゃねぇか」
苛立つような声で、そう返したのは、南町奉行所の筆頭同心の片岡真太郎であった。
手もとを見れば、書き損じた報告書。無残にも、『花』という漢字の“匕”の部分が“夕”になってしまっている。どうしてこんな間違いができるのか、片岡自身が首を捻った。
「そんなことはどうでもいい」
「どうでもいいわけあるか、馬鹿」
これはお奉行に提出する報告書である。
しかも最後の数行を残すだけだった。ここまで書いといてやり直すのは、正直言ってめんどくさい。
今の南町奉行はおおらかな人柄で、小言は言われないとは思うが……。
しかしこのまま素知らぬ顔で提出するのも気が咎める。書き直すか、誤魔化すか、思案のしどころである。
どうしたものかと片岡が、筆の尻でこめかみを掻いていると山村が、
「ここに新しい同心が入ることになったようだぞ」
と、勝手に喋りだした。
「新しい同心?」
ようやく片岡が、紙から目を離した。
「うん」
「おかしいな」
町人達から、南町奉行所で一、二を争う男振りと評される片岡が首を傾げた。
「八丁堀に、みならないになるような奴はいたか?」
八丁堀とは、与力や同心の役宅がある付近を指す。日本橋通りを東に進み、楓川を挟んだ地域。薬師堂の周りに組屋敷が並んでいる。
本来同心というものは、一代限りの抱席だが、実際には世襲になっていた。親から子へ。子からそのまた子へ。役宅を変えることは、そうは無い。そうなると、おのずと八丁堀界隈の事情に詳しくなる。
今現在、八丁堀には同心みならいになるような適齢の男子はいなかった。
「養子だよ、養子」
すると山村が、簡単に答えを明かした。
「養子? あ、まさか……」
ある一人の男の名前が浮かんだ。
今八丁堀に、後継ぎのことで頭を抱えている家はひとつしかない。
「そのまさかさ」
ふふふ、と山村が笑った。
この男は『早耳』の三次郎とあだ名が付けられるほど、噂話や世間の事情をいち早く掴むのだ。
知っているか? おいおい知らないのかい。そんなんでよく筆頭同心が勤まるな。
にまにまとした顔で、片岡に伝えてくるのだ。同期という気安さもあってだろう。筆頭同心の片岡を出し抜けることが、よっぽど嬉しいらしかった。今もにまにました顔で、片岡の反応を見ている。
「あの佐倉さんが養子をとったのか……」
唖然とする片岡をよそに、子供のようにキラキラとした目の山村。どうやら片岡の答えは合っていたようだ。
佐倉新八郎。
近年もっとも腕の立った同心である。挙げた手柄は数知れず。
新八郎は腕っぷしが強く、頭の回転も早い。
大概こういった人物は、己がすべて正しいと思い込みがちになる。しかし新八郎は真逆の人物だ。他の者の話もよく聞き、考えも尊重する。だからといって、己の意見に絶対の自信と理由があれば、頑固に考えを曲げなかった。
嘘か誠か、若い頃に一度、大身の旗本の息子と大喧嘩をしたという噂がある。同心は正確には武士の身分ではない。一昔前の足軽が同心や与力にあたるのだ。
当然将軍に謁見する資格はない。対して旗本は将軍直属という身分で、将軍に謁見する資格がある。
同心と旗本。身分の差は明らかだ。
そんな人間を相手の大喧嘩。火事と喧嘩は江戸の華というように、江戸っ子は喧嘩好き。そうして判官贔屓でもある。
そういうこともあって、新八郎は奉行所内でも町人の間でも人気が高かった。
そんな新八郎が長年に渡り頭を悩ませたのが、後継ぎの問題である。
新八郎には息子も娘もいない。
結婚は一度したそうだ。しかし早くに御新造は亡くなったらしい。
妻に先立たれ、子を持たない男の多くは後妻をとるのが普通である。先祖代々続く家を残したい。武士であろうと商家であろうと、家名を残したいというのは当然の考えだろう。
しかし。御新造を忘れられなかったのだろう。
新八郎には、妾も恋人も、とにかく女の影は一寸も無かった。いじらしいくらいに、新八郎は、そのままずうっと、一人身だった。
そんな新八郎は、あと七日で同心を引退する。
新八郎は五十三歳だが、まだまだ現役が勤まる。早すぎる引退を、皆が惜しんでいた。
「しかし、急だなあ」
片岡は筆を置くと、つるりとした顎を撫でた。
養子の話は、ずいぶん前から出ていた。人望の厚い男である。息子を佐倉家の養子に出したいと名乗り出る家は数えきれなかったほどだ。なのに新八郎は一度として首を縦に振るうことはなかった。妻への操立てというにはおかしい。きっと新八郎自身に、何かしら思うとこがあったのだろう。
「で、一体どこの誰なんでえ?」
そんな新八郎が養子にしたいと思わせた男とは?
すると途端に、山村が捨てられた犬のように眉尻を下げた。山村は町方とは思えないほど、考えがすぐ顔に出る。これのせいで、何度先輩同心に叱られたことか。
「じつはな……」
「うん」
山村はじつに勿体ぶった言い方で、ゆっくりと口を開いていく。よっぽどの重大情報なのだろう。片岡はごくりと、唾を飲んだ。
「まったくわからん」
「おいおい」
呆れて口が塞がらない。
「『早耳』の三次郎が形無しじゃねえか」
「そうなんだよぉ……」
がっくりと肩を落とす。
「どうも佐倉さんは、誰にも養子の生家を教えていないようなんだ」
本人が口をつぐんでいるとなると、いくら早耳の三次郎でもお手上げである。
「でもな、それで引き下がるおいらじゃねえ」
「そうだな」
この男は、誰よりもいち早く、最新の情報を掴むことに命をかけてるといってもいい。お江戸一の情報通になるのが夢だそうだ。
同心より、岡っ引きのほうが向いてる気がする。もしくは瓦版屋か。
「佐倉さん方面が無理なら、相手の家を調べてみればいいのさ」
山村は続けて言う。あの佐倉新八郎の養子に入るとなると、養子を出すほうは少しくらいは自慢するというのが人情だろう。
とくに女。女の口に戸は立てられないのは世の常識。妻女や女中が、ついうっかりと口を滑らせば、あっという間に広がる。
だから養子の生家を見つけるのも時間の問題だと、山村は思っていた。
だが、これも……、
「誰も知らねえって」
「ちょっと待てよ」
ここで片岡が待ったをかけた。今までの話の流れを聞くと、不審な点が一つある。
「おまえは一体どこで、その養子の件を聞いたんだ?」
こうも八方塞がりだと、どこから養子の噂が出たのかさえ怪しい。そもそも、その噂を聞いた本人に当たってみればいいことだ。
「雲野屋の小僧からだよ」
「雲野屋? もしかして布団屋の?」
「ああ」
当店の布団は、雲の上で寝ているような心地好さ。
が、売り文句の雲野屋。高級品から大衆品まで、幅広く商品を取り扱っている。
「佐倉さん、布団を一組注文したんだと」
堂々と胸を張って言った。他には何も付けくわえない。
「それだけか?」
「おう」
「それだけで養子をとるって決めつけるのは早計じゃねえか?」
そこまで言って、はたと考える。
布団を新調するなら、古い布団は引き取ってもらうだろう。となると、佐倉家に一人増えるのか。
今、新八郎の屋敷には、当主の新八郎と、下働きを任されている中間の弥彦の二人だけが住んでいる。