其ノ弐
「昨夜の死体だが」
「はい」
ひと口飲んでから片岡は切り出した。
「やはり、死んでから一日は経っているみたいだ。今朝早くに医師に見てもらった」
死体の改めをしたのは、以前おちなの遺体の改めをした源仲だそうだ。
「……おちなと同じで、乱暴もされていた」
言いにくそうに片岡が呟いた。朝から気が滅入りそうになるが、犠牲者や家族を思うと弱音は言えない。
「今日はとりあえず橘町の自身番に行く。辰次は先に向かった」
「はい」
鋼之助は立ち上がった。ふと、思う。
(そう言えば、わたしはいつも「はい」としか答えていないような……)
もう少し語彙を増やしたほうがいいのかもしれない。
◇◇◇
南町奉行所を出て、呉服橋御門を通る。そこから東に向かい日本橋を渡った。
五つ半(午前九時)過ぎにもなると、すでに通りは活気に溢れている。
そこから大伝馬町の通りを行き、両国方面に向かう。
あと二間(約三メートル)ほどで橘町の自身番に着くというあたりで、なにやらその自身番が騒がしかった。
「なんでえ?」
片岡が首を捻る。自身番からは女の悲鳴が聞こえていた。
「もしや」
そう口にした片岡が走り出す。鋼之助も慌ててついていく。そのうしろを小者の太助が追った。
自身番に顔を出すと、手前の土間で見知らぬ女が、昨夜の死体にしがみついて泣き叫んでいた。
「母親か?」
「へい」
痛ましげな顔で片岡が訊ねれば、自身番にいた辰次が答えた。
「そっちは、父親です」
母親の肩に手をのせ、必死に怒りを押し殺しているような顔の男を指差した。
「つい先ほど、娘の死を知ったそうで」
両親は片岡達が着く少し前に、自身番に飛び込んできたそうだ。血の気の失せた娘を目にしたとたん、母親は崩れ落ちたという。
両親の気持ちをおもんばかえば、すぐに話を聞けないと思い、片岡達を待っていたのだと辰次は言った。
「そうか」
一瞬、嫌な顔を見せた片岡だが、すぐに気を引き締めた顔つきになった。
「すまねえが、話を聞かしてもらえるかえ?」
できるだけ優しく、片岡が父親に声をかけた。
「へいっ」
片岡に向き合った父親は、声を詰まらせつつ答えた。
「あっしは富沢町の柳長屋に住む、棒手振りの長吉といいやす。こっちは女房のおねい。……そして」
長吉が目を拭った。
「そ、そっちは、娘のっ、おみさで……っ」
必死にせき止めていた悲しみが、一気に長吉を襲った。長吉はうずくまり、土間を叩いて娘の名を叫んでいる。
思わず片岡が天を仰いだ。ぎゅっと眉間を寄せている。長く同心を勤めていても、このような場は慣れることはないのだろう。
「おい長吉。娘の無念を晴らすためだ。旦那方にしっかり話しな」
力づけるように、辰次がぽんぽんと、長吉の肩を叩いた。
「へ、へい。すいやせん……。おみさは、一昨日から行方がわからなくなってやした」
長吉が鼻をすする。代わって母親のおねいが、おみさを愛しげに見つめながら続けた。
「……おみさは、外で遊ぶのが大好きな子だったんですよ。器量が良いのに、男の子みたいに真っ黒に日焼けしちまって……」
二度と帰ってこない娘のことを、懐かしげに母親が言う。しかしどんなに娘の死を拒否したくても、もう過去のことなのだ。
「すまぬが、先を続けてくれ」
気まずそうに片岡が促す。
「すいやせん」
長吉が引き継いだ。
「おみさが帰ってこないので、大家さんや近所に声をかけて探すのを手伝ってもらってたんですが……、今朝早くに大家さんから、この自身番に子供の死体が運ばれたと聞きやした。まさかと、思ったんですが……」
自身番に来ると、まさかが真実になって目の前に現れたのだ。二親の絶望は計り知れなかっただろう。
「そうか」
そう言うと片岡は、両親に帰っていいと告げた。おみさもだ。
そんな片岡を鋼之助は不思議に思ったが、黙っていた。
両親とおみさが自身番から出ていく。辰次と太助も、おみさを運ぶのを手伝うため自身番から出て行った。
それを見送ると、鋼之助は不思議に思っていたことを聞いてみることにした。
片岡は自身番の上がり框に腰かけ、鋼之助は上がり框のまえにひきつめてある玉砂利に立っている。奥の間には番人が二人いたが、世間話に興じていた。
「あの、片岡さん」
「ん、なんだ?」
珍しく鋼之助から話しかけたので、片岡はきょとんとしていた。
「その、両親からもっと詳しく話を聞かなくてよかったのでしょうか?」
片岡があっさりと両親を帰したことが、気になっていたのだ。
「ああ、そのことか」
苦笑して、片岡が続ける。
「あんなに興奮してたのでは、まともな答えは返ってこねえさ。少し時間を置いてからだな」
「あ、そうでしたか」
鋼之助は恥ずかしく思い、俯いた。勇み足だった。片岡は鋼之助より遥かに長く同心をしているのだ。何らかの考えがあるに決まっている。
(恥ずかしい……)
それがわからなかった己に、嫌悪しそうになったとき。
「なかなかいいな」
片岡が、にやりと笑った。
「は?」
意味がわからず、鋼之助は首を傾げた。何がいいのだろうと思うが、片岡は説明する気はないようだ。
「あっ」
と思ったら、口許をもごもごとさせた。顔が少し赤い気がする。
「片岡さん?」
思わず声をかけると、片岡は意を決したように鋼之助に向いた。その力強い視線に、鋼之助は後ずさりしそうになる。片岡が口を開いた。
「佐倉。おまえは、よくやってる」
「……は」
「うむ」
勢いよくそれだけを言うと、片岡は満足したようで、笑顔でうんうんと頷いていた。そんな片岡とは対照的に、鋼之助はぽかんと口を開いている。
(なんなのだろう……?)
まるで謎かけだ。とんと片岡の言葉の意味がわからない。ただ妙に心に引っかかる。鋼之助は胸中で、片岡が放った言葉を繰り返してみた。
片岡は「よくやってる」と、言った。おそらく、その前に言った「なかなかいいな」の説明だろう。ではその前にした会話は……。
(あっ)
──その、両親からもっと詳しく話を聞かなくてよかったのでしょうか?
鋼之助は自分の言った言葉を思い出した。差し出がましいことを言ったと思っていた。だが片岡は、好ましく思ってくれたのかもしれない。
(褒めてくれたのだろうか?)
言葉の足りない片岡の言葉だけでは、確かなことはわからない。でも、もしかしたら、そうなのかもしれない。もしそうだとしたら、人に褒められるのは初めてだ。
(そうだったら、いいな)
鋼之助の顔が赤面した。
「ところで、その目はどうしたのだ?」
「え?」
「目だ、目」
片岡が自分の両目を指差して言う。
「今朝から思っていたのだが、赤いぞ。昨夜、眠れなかったのか?」
からかうような顔つきになった。昨夜死体を見たから寝れなかったと、思っているのだ。
「い、いえ。違います」
寝ていないのは事実だが、死体が怖かったからではない。鋼之助は慌てて否定する。
「そうかな」
だが鋼之助がきょどった顔で言うせいか、真実味が無いようだ。片岡はにやにやと笑っている。




