其ノ漆
「な……?」
驚いた。その目が、月よりも明るい金色に光っていたのだ。気のせいかと思い、瞬きを数度したが、男の目は金色のままだった。
「っ!」
男がちらりとこちらを向いたので、鋼之助は急いで身を隠した。
(……っ)
騒ぎ立つ胸を隠し、鋼之助は見つからないように、じっとしている。
しばらくして男は、その場から去っていった。鋼之助は、男の背中を見送る。
その男が、酷薄な笑みを浮かべたのは、知る由もなかった。
◇◇◇
──あれは、一体何だったのだろう……。
鋼之助は八丁堀に続く道を歩きながら考えていた。
そろそろ町木戸も閉まる時刻だ。昼間は人通りが多く賑やかな江戸橋の手前であるが、すれ違う人はいない。
(あの男は、たしか神田川にもいた)
あとになって思い出したが、神田川に捨てられていたおちなの遺体を凝視していたのも、同じ男だった。
そのときも、男の目が光っていた。でもそのときは、太陽の光が反射して、そういうふうに見えたのだと思っていた。
(でも、今は夜だ)
太陽は当然出ていない。月明かりでは弱すぎる。光の反射ではなかったのだ。
(そうなると……?)
目が光った理由がわからない。鋼之助が知らないだけで、そんな特殊な目を持つ人もいるのかもしれない。
なんせ鋼之助は、佐倉家に養子に入るまで、雪隠や風呂を使うとき以外では、めったに部屋から出なかった。だから鋼之助の世界は、部屋のなかだけがすべてだったのだ。
ここにいればいい。だって外には……。
鋼之助の顔に陰鬱な翳りがかかったそのとき、背後で突然、かたりと音が鳴った。
「……っ!」
瞬間、鋼之助は喉をひきつらせた。咄嗟に振り向いてしまったが、後悔している。刀を構えたくても腰に差してないし、持っていたとしても、満足に刀を振るったことが無いから、役に立つかどうか。
何がいるのかわからないが、さっさと逃げればよかった。見なければ、それがすべてなのにと、鋼之助の身体が小刻みに震える。はあはあと、息づかいも荒くなる。
鋼之助がじりじりと後ずさった、そのとき。黒い影が、目の前の地面に着地した。
「ひっ!」
喉に貼りついたような奇妙な悲鳴を聞き止めたらしい黒い影が、勢いよく鋼之助に振り向いた。
そこには、爛々と金色に光る眼……。
「にゃあ」
「………」
猫だった。
人間にちっとも興味の無い顔の猫は、とてとてと走り去っていった。
鋼之助は崩れ落ちるように、ぺたりと尻餅を着く。
走り去る猫の、ぼってりしたお尻を目で追いながら、猫の目はなぜ光るのだろうと、ぼんやりと思っていた。
◇◇◇
やっとのことで八丁堀の役宅に帰り着くと、中間の弥彦だけでなく義父の新八郎までもが起きていてくれた。
また起きてしまった幼女の殺しを伝えると、新八郎は口をひん曲げて怒った。
「外道め……」
そう呟くと、黙り込んだ。
こんなに感情をあらわにした新八郎を見るのは初めてだ。鋼之助は退座し、自室に向かおうと濡縁に出る。すると弥彦が側に寄って、教えてくれた。
「大旦那さまは、自分が探索できないから、もどかしいんですよ」
佐倉新八郎は、つい先月まで現役同心だったのだ。それも定町廻りに臨時廻りと、廻り方一筋だった。
「旦那さまが出ていったあと、大旦那さまときたら」
くすくすと、弥彦が笑い声を洩らした。鋼之助が現場に出向いたあとに、何かあったらしい。気になる。笑いが収まるのを待ってしばらく、ようやく弥彦は教えてくれた。
「旦那さまの忘れた刀を届けてやると言い出してきかなかったのです」
「ええっ」
つい鋼之助は頓狂な声を出していた。
「わたしは必死になって止めたんですよ」
長年仕えている弥彦は、すぐさま新八郎の真意を見抜いたのだ。刀を持っていくのは名目で、本当のところは、探索に関わりたくてしかたがないのであると。
寝間着を着替えようとする新八郎を押し止め、
「大旦那さま自らがお運びにならずとも、わたしがお渡ししてきましょう」
と、弥彦は宣言した。
夜も更けている。ついでに鋼之助のお供をしてくると言い、刀を渡すよう迫ったのだ。
だが新八郎は固辞した。
「むっ、気にするな。わしが行こう。夜風にもあたりたいしな」
などと、空とぼけて言う。
「いえいえ。大旦那さまが出向くと、鋼之助さまが困ってしまいますから」
「困るだと?」
つい出てしまった言葉を聞き咎めた新八郎が、くちびるを尖らした。
「あ、いえ」
弥彦は視線を逸らした。
「どういう意味だ、困るとは?」
「あああ、その」
「弥彦ぉ?」
わざと低い声を出して、白状しろとばかりに迫る。観念した弥彦は、居直って言った。
「親が出しゃばってはいけませぬ」
すでに佐倉家は鋼之助が家督を継いでいる。なのに隠居した新八郎が出張っていたら、鋼之助の立場がない。鋼之助の指導役の片岡も、いい気はしないだろう。
「むう……」
説得は功をを奏したようだ。新八郎はまだ何か言いたげだったが、どうにかこらえて居間に座った。
「大旦那さま、お休みにならないのですか?」
新八郎は拗ねたような顔で、
「鋼之助を待つ」
と、言った。探索に関われないのなら、せめて探索状況だけでも聞きたいのだ。
「そうですか。ではわたしは鋼之助さまに刀を……」
「ならん」
「大旦那さま?」
新八郎はそっぽを向いて言う。
「おまえだけ行くのはずるい。だから行くな」
どうせ刀があっても、鋼之助はろくに扱えない。何かあれば、腕の立つ片岡や辰次がいるから心配はないと、新八郎は言った。
「はあ」
名目とはいえ、さっきまで執拗に刀を届けると言い張っていた男の言葉とは思えない。もっとも、これが佐倉新八郎だ。
新八郎は妻を亡くして久しい。そして子供もいないから、今の今まで誰にも気兼ねなく、好きなように生きてきた。むろん奉行所内や朋輩……とくに年下の者の前では、腕っこきの同心らしく鷹揚に振る舞っていた。
その反動なのか、屋敷に戻ると途端に我が儘になるし、だらけてしまうのだ。 ここ一月は鋼之助がいるから、屋敷内でも年相応に振る舞っていた。だが、だんだんとボロが出始めている。
弥彦の打ち明け話に、鋼之助は口をあんぐりとして聞いていた。
「お、驚きました」
正直な感想だった。だがそれを聞いて、がっかりしたとか、失望したとかはない。むしろ、
「安心しました」
「安心、ですか?」
真ん丸に目を見開いた弥彦が訊ねる。
「はい」
鋼之助は微苦笑した。
「義父上は、わたしとは違って、完璧な人だと思っていたので……」
奉行所に出仕してからというもの、新八郎の評判がとても高いことを知った。
おおらかで、誰にも好かれ尊敬されている。そのうえ、腕っこきの同心だったのだ。
そんな男の養子となった自分に向けられる目は、いいものばかりではない気がしていた。
そもそもこんな外見だ。とくに秀でた特技も無い。嘲笑されてもしかたがないと思っている。
ずうっと部屋のなかだけが自分の世界だった鋼之助は、外で普通に生活しているだけで、皆が自分より立派に見えてしまっていた。
それよりも、重圧のほうが苦しかった。佐倉新八郎が築いたものを汚さないように。血の繋がりがないからこそ、その思いは強かった。
だがその反面、自分は本当に佐倉家の後継としてやっていけるのかという葛藤も強い。
でもそんな新八郎にも、人間くさいところがある。それが、ほっとさせてくれたのだ。
「完璧な奴なんかいるもんか」
突然障子越しから声がかかった。新八郎だ。いつのまにいたのだろう。
新八郎はそれだけを言うと、障子を開けることなく、その場から去った。
「………」
「………」
弥彦と鋼之助は顔を見合わせた。そして、ばつが悪そうに苦笑した。




