其ノ陸
その日の夜。
新しい殺しが起きたと、片岡から岡っ引きの手札を貰っている辰次が、佐倉家に飛び込んできた。
時刻は五つ半(午後九時)を越えている。
鋼之助は急いで寝間着から着流しに紋付きの黒羽織に着替えて、辰次が先導する夜道を走った。
途中で大小を差していないことに気づいたが、すでに遅い。鋼之助はそのまま走った。
やはり刀が無いと楽だった。
八丁堀から楓川を海賊橋を渡って越え、そこから江戸橋を渡って東に進んで、橘町に来た。
町外れの古びた仕舞家に着くと、近所の町人や奉行所の小者達が、すでに家の周りにいた。
いくつもの提灯の明かりが、ゆらゆらと揺れている。
「ちょいとすまねえ。佐倉の旦那のお出ましだ。通してくれ」
「た、辰次……っ」
妙に仰々しく言うものだから、皆が鋼之助に注目した。上がり症で人見知りの鋼之助はいたたまれない。
足早に家のなかに入っていく。家のなかは、やはり外から見たのと同じで、傷みかかっていた。障子や襖が黄ばんでいる。雨漏りでもあるのか、畳はぼこぼこして、所々が、ささくれ立っていた。掃除もされてなく、お世辞でも綺麗とは言えない。
土間から上がり口に上がるため、雪駄を脱ごうとすると、辰次が止めた。なるほど。一足も履き物が無い。皆は土足で上がっているらしい。鋼之助もそのまま上がった。
「ん、佐倉。来たか」
「片岡さん」
奥の部屋に行くと、小者の太助がかざす提灯の明かりで、片岡真太郎が死体の改めをしているところだった。
鋼之助は奉行所でのことを思い出し、少しだけ胸に苦いものが広がった。
だがそれも、すぐに消し飛んだ。
「あ……」
またである。
「ああ」
鋼之助の言いたいことがわかっている片岡は重々しく頷いた。その顔は、厳しい怒りに染まっている。
死体は、女の子のものだった。
一月前に神田川で見つかった、おちなより、一つ二つ年が上に見える。
裸のままで、首周りには捻られたさらしが巻き付いていた。
「そこの二人が見つけたんだ」
手を合わせていた鋼之助は、片岡が指差した先を見た。壁際で居心地が悪そうに身を寄せあっている男女がいる。十代後半くらいだろうか。名前は、男が一太。この近くの小店の跡取りで、女はお育、同じく近くの小店のひとり娘だそうだ。
「ここで逢い引きをする予定だったらしい」
ちくりと片岡が言えば、男女はばつが悪そうな顔をして、下に向いた。
先に話を聞いていた片岡が、詳しく教えてくれた。
この仕舞家は、見ての通り人は住んでない。建て直す予定らしいが、なかなか普請が決まらず、延び延びになっていたそうだ。だから、かっこうの逢い引きの場だったらしい。
今夜も二人は楽しむために忍び込んだ。
もつれ合うように、この部屋になだれ込み……。そこで違和感に気づいたらしい。
男の手が妙な手触りのものに触れた。相手の女の柔肌とは違う。何かがいる。まさか、先客か? そう思って声をかけた。
だが返事はない。男は持っていた提灯に火をつけた。すると。
「先客は死体だった、というわけだ」
片岡が話を締め括った。死体の傍らに膝をつき、
「見てみろ」
と、鋼之助を呼んだ。
言われた通りに、鋼之助は片岡の隣に座った。間近に見えた死体は、少し色黒の肌だ。きっと生前は、元気に外で遊んでいたのだろう。
「死因は絞殺だろう。……犯されたような痕もあった」
痛々しげに片岡の顔が歪む。鋼之助も胸が重くなった。それを振り払うように片岡が声を上げる。
「この死体も裸だ。おちなは川に捨てられていたから、水流で着物が剥ぎ取られたと思っていたが、違うようだ」
「はい」
片岡の言うことを一文字も聞き洩らすまいと、鋼之助は頭のなかに書き込んでいく。
犠牲になったのは、小さな女の子。
犯され、裸で捨てられていた。
死因は首絞め。
「おちなとの共通点が多い」
「はい」
犯人は同一人物なのだろう。
「ただ」
片岡は、そう言ってしばらく黙り込んだ。何を考え込んでいるのだろうか。経験の浅い鋼之助には、わからない。片岡は、じぃっと、死体を見つめている。それから天井を見上げた。そして、ぽつりと。
「雑すぎる」
と、言うと、戻した頭を小さく振った。
「雑、ですか?」
片岡の意図することがわからず、鋼之助は首を傾げた。
「ああ。死体の捨て方が雑なんだ。おちなは片足に縄をくくりつけられて沈まされていた。なのに、この死体は、乱暴を働いたあとのままだ」
この違いは何だ。考え込む片岡が、顎をさすった。
(すごいなあ)
胸のなかで、鋼之助は驚嘆していた。事件を解決するには、見たままのことを並べるだけでは駄目なのだ。事実と事実を比べ、そして違いを知る。事実の、そのまた奥にあることを見なければならない。難しいことだ。自分にちゃんとできるのかと、鋼之助は腰が引けそうになった。
「死体を動かすまえに、あの二人が来たのでは?」
今まで黙っていた辰次が口を挟んだ。
「それも考えられるが……。死体の具合がな、こいつは殺されたばかりじゃねえ。少なくとも一日は経っている」
辰次は納得したようで、素直に引き下がった。
「まあ、今、調べられるのはこのくらいだろう。太助、外の奴らを呼んでくれ。死体を番屋に運ぶ」
自身番のことを番屋とも言う。
「へい」
辰次に提灯を渡して、太助は出ていった。片岡は死体の発見者である男女に、帰っていいと伝えた。二人はあからさまに、ほっとしていた。殺しの疑いをかけられなくて、安心したのだろう。
せっかくの密会であったのに、不運なことである。
男女に続いて、鋼之助達も家から出た。
「もう、町木戸も閉まる。まっすぐ帰れよ」
からかう片岡に、男女は苦笑いを向けて帰っていった。もしかしたら、このあと違う場所でしけ込むのかもしれない。
「あいつら、場所を代えてやるな」
同じことを考えたらしく、片岡かがにやりと、笑った。鋼之助も苦笑いを返した。よく死体を見たあとで、そんな気になれるものだ。
それも、あんな酷いことをされた死体をまえに……。
死体を前にしても、しょせんは他人事なのかもしれない。他人の悲しみは、他人のものなのだ。
戸板に乗せられて、死体が運び出された。かけられた筵の膨らみの小ささに、周りからどよめきが起きる。
野次馬達は、こんなに小さな子が殺されていたとは知らなかったのだろう。誰からともなく、手を合わせる。
なぜ、こんな小さな子供が、そんな対象になるのか。
下手人の心が、何ひとつわからない。
提灯を持った小者が先立ち、そのうしろを、戸板を持った四人の男が続いた。
暗い夜道でのその姿は、不思議な光景だった。
「佐倉、今夜はもう帰っていいぞ」
「はい、わかりました」
片岡と辰次は番屋まで付いて行くようだ。鋼之助は片岡にお辞儀をし、来た道を戻ろうとした。
路地を曲がろうとした、そのとき。
強い光を目の端に感じた。
(なんだ?)
曲がり角の町家の軒下に身を隠し、死体が捨てられていた仕舞家周辺に目をくれた。野次馬がぞろぞろと引き上げようとしているとこだった。
しかしそのなかに一人だけ、直立不動のまま、死体を運ぶ一行を強い目で見つめている男がいた。