其ノ肆
そろそろ夕七つ(午後四時)になろうという頃。
南町奉行所の、みならい同心佐倉鋼之助は、奉行所の同心詰所にいた。その手にある丸盆には二つの湯飲み。ふわりと湯気を立てている。
鋼之助は、ちらりと目をくれた。
目のまえでは、指導をしてくれている先輩同心の片岡真太郎が、厳しい顔をして一日の報告書を書いている。茶を入れてくれと片岡に頼まれたのだが、側に近寄りにくかった。
「ふう……」
つい溜め息が出た。片岡の苛立ちはわかる。
神田川でおちなの遺体が見つかってから、かれこれ一月も経つ。なのに、探索はいっこうに進まないでいた。
それでもようやくにしてわかったのは、見知らぬ男がふらついていたとだけ。
その男の容貌も、年は二十から二十三くらいの中肉中背。優しそうな顔立ち。これといった特徴も無い。
そんな男は、江戸中にごまんといる。探しようがなかったし、この男が下手人かどうかもまたわからない。はっきり言って手詰まりだった。
「お、茶だ。貰おうか」
「え、はい。あっ」
片岡かと思ったら、声はうしろから聞こえてきた。
誰だと考えるまえに、うしろから伸びた手が湯飲みを掴んだ。手を追えば、片岡と同じ定町廻り同心の山村三次郎だった。美味そうにお茶を飲んでいる。
「ああ、美味い。佐倉よ、お茶を入れるのが上手くなったな」
「は、はい」
みならいは他の先輩方にお茶を入れるのが決まりらしく、鋼之助もお茶入れをした。
だが鋼之助は、お茶なんて生まれてこのかた入れたことがなかった。もともと鋼之助は、八千石の大身の旗本の瀧澤家の次男だったのだ。
人見知りの鋼之助でも、喉が乾けば、昔からいる慣れ親しんだ老女中に茶を淹れてくれるよう頼んでいた。
そんな鋼之助が入れた茶が美味いはずもない。
皆、ひと口飲んだら吐き出した。
鉄瓶に茶筒の茶葉をすべて入れて、かんかんに沸騰させてはいけないのだと、この時初めて知ったのである。片岡が「茶の指導もするなんて……」と、嘆いていた。
このことは、『南町奉行所お茶事件』として、一月経った今でも話題に出てるらしい。
湯飲みを掴んだままに山村が、報告書をじっと睨みつける片岡ににじりよっていった。この二人は同い年で同期だそうだ。顔を合わすと、何かと喋っている。
「なに難しい顔をしているんだ?」
「ん、三次郎か。って、おまえ、そいつは俺の湯飲みではないかっ」
山村が手に取ったのは、片岡の湯飲みだった。
側面には、月に兎が跳ねている絵が描かれている。風流なんだか可愛らしいのか、判断に困る図柄だ。
「細かいことはいいではないか」
山村が、またひと口お茶を飲んだ。
「よくない。おまえは昔からそうだ。ずぼら過ぎる」
そう言うと片岡は、
「佐倉、早く茶をくれ。おまえのでいい」
と、お茶をねだった。どっちもどっちである。
長年連れ添った夫婦は似てくると聞くが、同期もそうなのかもしれない。鋼之助は片岡が向かう文机に湯飲みを置いた。ひと口飲んだ片岡に、山村が訊ねる。