其ノ参
「大丈夫ですか?」
真っ先に鋼之助の異変に気づいた辰次が問う。どうにか落ち着いた鋼之助は、深く呼吸をした。
「……っ、はい。もう、大丈夫です」
「どうした、死体を見たからか?」
片岡も気にかけてくれた。
「……それも、あるかもしれませんが、……それよりも、実家の姪が、このくらいの子で……」
「……そうか」
鋼之助を気遣ってか、それ以上は聞いてこなかった。
(七瀬は元気だろうか)
鋼之助は無性に姪が気になってきた。
実家の瀧澤家にいるとき、唯一といっていい話し相手が、兄の子供達だったのだ。
とくに姪の七瀬は、なぜか鋼之助に懐いていた。鋼之助が描く絵を、それは毎回楽しみにしてくれていたのである。
もし、この死体が七瀬だったら……。鋼之助は、ふいに出た恐ろしい考えを、頭を振って退けた。
「おちなっ!」
そのとき、女の悲鳴が神田川一帯に響いた。
女は着物が乱れるのも構わず死体に駆け寄る。その膝は擦り切れて、血が滲んでいた。草履も片方が無かった。
「おちな、おちなだよぉ……っ」
遺体の顔を見るや、女はその冷たい身体にすがりつく。
「母親だそうです」
辰次が、女と来た自身番人らしき男に聞いてきた。
「おちなあぁっ!!」
子を亡くした母親の慟哭が、土手いっぱいに響き渡った。
◇◇◇
神田川に浮かんだ遺体は、ひとまず近くの自身番に運ばれた。そこで母親から遺体の詳細を訊ねることになった。
遺体の名前は、おちな。
年は五つ。神田の平永町にある田次郎長屋に住む、大工職人夫婦のひとり娘だった。
三日前から娘の行方がわからず、大家に相談していたそうだ。
母親はおちなを連れて帰りたいと言ったが、片岡が引き留めていた。
奉行所の小者と辰次が現場周辺を改めたが、下手人に繋がるような手がかりが無い。だからもう少し詳しく遺体を調べたいと片岡が言えば、母親は渋々ながらも娘の無念を晴らすため認め、一人で帰っていった。
よろめく背中は痛々しくて、何人かが鼻をすすっていた。
片岡は、早くおちなを帰してやりたいと思ったのだろう。すぐに小者の太助を走らせて、医者を呼んだ。これからおちなの身体をくまなく調べるのだ。
自身番の外に辰次が控え、自身番内では片岡と鋼之助、それに番人が待っていると、総髪に長い髭をたくわえた医者がやって来た。
名は源仲という。
四半刻(三十分)ほど経った頃、ようやく遺体の改めは終わった。
難しい顔をした医者が桶で手を洗いながら、陰鬱そうに捨て吐いた。
「惨いですな」
そう言ってから、
「犯されていたようです」
と、言った。
「なに? こんな子供をか?」
とても信じられない医者の言葉。
驚愕に目を見開いた片岡が言葉を詰まらせた。鋼之助は右手で口許をおおった。おちなはまだ五歳だ。そんな子供を……。
「酷い」
思わず出た言葉に、片岡が力強く頷いた。
「ああ、人間のやることじゃねえ」
五歳の女の子を犯し、そのうえ殺したのだ。まともな人間のすることじゃない。
「両親には言うべきか……」
片岡の言うことはもっともだ。自分の娘が殺されただけじゃなく、乱暴も働かれていたのだ。
母親の衰弱ぶりは痛ましかった。そこにさらに残酷な宣言を告げるのは酷だった。
それでも親にしてみれば、真実を知りたいと思うのだろうか。
「まあ、それはいい」
自身番内に重苦しい空気が漂ったが、片岡が打ち破った。外で待っていた太助を呼び込み、
「おちなを田次郎長屋に運ぶぞ」
と言い、先に長屋に知らせてくるように伝えた。
「佐倉、おまえは辰次と一緒に聞き込みだ。田次郎長屋の周辺から、三、四日前に不審な奴がいなかったか、聞いて廻れ」
「はい」
「よしっ」
片岡は自身に言い聞かせるよう、強めの声を出した。
片岡はこれから遺族に会うのだ。どんな話をするのか、その事を考えると、鋼之助は己のことでもないのに、腹に小さな痛みが走った。
◇◇◇
平永町の田次郎長屋の前に来ると、長屋は妙に静まりかえっている気がした。
すでに、おちなが殺されたことが伝わったのだろう。長屋自体が泣いているように見えた。
しばらくしたら片岡達が、おちなを運んでくる筈だ。
「佐倉の旦那。まずは大家に話を聞いてみましょう」
「うん」
表通りに面する店を表店といい、その店と店の間には長屋への入口の木戸がある。
その木戸の脇に大家が店を構えていた。
(んん、緊張するなあ……)
鋼之助はどきどきしてきた。 たくさんの人がいるなかに入っていくのも苦手だが、まだ自分が紛れるような感覚になるから平気だ。だが一対一で会話をするのは、見知った相手以外となると苦手を通り越して恐怖に近い。心臓がどんどん早鳴った。
そんな鋼之助の気持ちを読んだかのように、辰次が店先に立ったので、鋼之助は、ほっとした。
大家の店であるせともの屋の店先で声をかける。
「ちょいと、ごめんよ。あっしは南町の片岡の旦那から手札を頂いている辰次と申しやすが」
「片岡さまから?」
帳場にいた主人らしき男が、きょとんとした顔を見せた。辰次の顔を不思議そうに、じいっと見ていたかと思うと、破顔した。
「ああ、辰次親分。辰次親分だ」
確認するように頷いている。どうやら辰次のことを、ど忘れしていたらしい。
そんなことにはかまわずに、辰次は訊ねた。
「田次郎長屋の大家かえ? おちなのことで聞きたいのだが」
「ああ、可哀想なことです」
大家はうって変わって、悲痛な声を上げた。おちなは明るくて良い子だったと、眦を拭った。
「三日前、おちながいなくなる数日前あたりで、このへんで不審な奴は見なかったかね?」
「おちなが殺されたと聞いて、わたしも思い返してみたのですが、とくに不審な者は……。なんせ、いつも店の外を見ているわけではありませんので……」
大家としての責任の呵責。無意識に自分を擁護していたが、だんだん尻すぼりになっていた。
「そうだな。では、見知らぬ奴は見なかったか?」
「見知らぬ人ですか? そうですね、何人か見ましたけど。これといって特徴がある顔つきでもないし、悪さをするようにも」
「そうか。邪魔をしたな」
鋼之助と辰次は大家の店から出た。残念ながら目ぼしい情報は得られなかった。
早くも辰次は、次の店に向かっている。その背を追いながら、もしかしたら、この殺しの下手人を挙げるのは難しいのかもしれない、と。
初めての事件だが、鋼之助にはそう思えてならない。
それと同時に頭の片隅で、
(どうしたらあんなに矢継ぎ早に話ができるのだろう)
と、辰次と大家の会話を思い返していた。
鋼之助にとって『話す』ということは、何よりも高い壁なのだ。
田次郎長屋の住人に聞き込んでいる途中、おちなが帰ってきた。
もの言わぬ幼子に、長屋は一段と、悲しみに包まれた。




