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無能同心  作者: 葉弦
第二章 初めての事件
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其ノ壱

 障子を開けると、すでに太陽が青い空に昇っていた。

 濡縁に這い出た鋼之助は唖然とした。


 「しまった……」


 寝坊してしまった。

 昨夜、夜具に身を沈ますと、気づくと今になっていた。

 途中一度も起きることなく、寝入りばなもわからない。それだけ疲れていたのだろう。初めてあんなにも歩いたのだ。それも刀という重りを付けて。

 一応武士である者の言葉ではないが、事実そうだった。

 こんなにぐっすりと心地好く眠ったのは初めてかもしれない。ずいぶんと深く寝ていたというのに、目覚めはすっきりしている。


 「……っとと、そんな、場合じゃ」


 呆けたままに晴空を眺めていた鋼之助だったが、はっとなった。奉行所勤めになって、たった二日目で遅刻してしまうことになろうとは。

 鋼之助は己の迂闊さを嘆いた。


 「旦那さま」


 すると佐倉家で中間をしている弥彦が廊下を進んできた。


 「ああ、よかった。起きてくれなかったらどうしようかと思っていました」


 弥彦は心底安心したように、顔をくしゃくしゃにして笑った。

 弥彦が言うには、鋼之助を何度も起こしに来たらしい。障子越しから幾度も呼びかけたが、鋼之助はまったく起きる気配がなかったのだと。悩んだすえ、今度は直接声をかけようと息巻いていたのだが、廊下に座り込んでいる鋼之助を見て安堵したのだ。


 「そ、それは、すまぬ」


 それを聞いた鋼之助は、慌てて頭を下げた。


 「旦那さま、なにも頭を下げなくてもいいんですよ」


 泡を食った弥彦がおろおろとする。


 「ささ、早く出仕の御準備を。今からなら、まだ五つ(午前八時)に間に合います」


 町奉行所の同心の出仕時刻は五つだ。


 「ま、まだ間に合う?」

 「はい」


 とっくに五つを過ぎていたと思っていた鋼之助は、確かめるように聞いた。良かったと、ほっと息をつく。そんな鋼之助を急かすように、弥彦が背中を押した。




 ◇◇◇




 「……おまえ、大丈夫か?」


 みならいである鋼之助の指導を任された先輩同心の片岡真太郎が、心配そうな顔を浮かべて鋼之助の顔を覗き込む。


 「は、はいぃぃ……」


 そうは言うが、荒く肩で息をしている。

 寝坊した鋼之助は、弥彦に急かされるまま顔を洗い、着替えて朝餉をとった。正確には、かき込んだ、というほうが正しい。ゆっくり朝餉をとる時間は無かったが、同心は体力勝負だと新八郎が言うので、茶漬けにしてかき込んだのだ。

 佐倉家に養子に入ってからは初めてのことばかりが続くが、こんなに忙しい朝餉も初めてだ。

 髪結いも、とっくに帰っていたので、鋼之助が茶漬けを食べてる間に弥彦が乱れたまげを直してくれた。ありがたいことである。

 そうして出来うる限りの走りで、やっとこさ数寄屋橋御門内すきやばしごもんないの南町奉行所に着いたのだ。

 ようようにして着いた鋼之助は、その瞬間、奉行所前でへたり込んでしまった。足ががくがくしている。


 (足が笑うとは本当なんだ……)


 と、場違いながら思っていると、慌てた様子で片岡が奉行所内から出てきた。どうやら門番が知らせてくれたらしい。


 「で、どうしたんだ?」


 片岡が問いた。鋼之助の、そのざまの理由を訊いている。鋼之助は正直に、


 「ね、寝坊しました……」


 と、答えると、仰向けのまま地面に倒れ込んでしまった。


 「お、おいっ」


 色めき立つ片岡の声が、どこか遠くから聞こえる。

 しっかりしろ、中に運べ、水を持ってこい。などという叫びを聞いたのを最後に、鋼之助の視界は真っ黒に塗り潰されていったのだった。




 ◇◇◇




 ごおぉぉん──……。

 ごおぉぉん──……。


 刻を知らせる鐘の音が耳に入った。

 瞼を開けると、ぼやけた視界に映ったのは、古めかした天井だった。


 「え……」


 鋼之助はぱちくりと瞬いた。ここは、どこだろう? そう思うが、記憶の糸が見つからない。それでも必死に頭を巡らせた。

 たしか自分は、奉行所には着いた。そして……。


 「おお、よかった、起きたか」


 鋼之助が思い返していると、その声と共に片岡真太郎が視界に入ってきた。鋼之助の頭上に座って、覗き込んでいる。


 「へ……?」


 状況がいまいち掴めず、鋼之助は呆けた声を出した。


 「おまえ、奉行所の前で倒れたんだよ」


 苦笑しつつ片岡が説明してくれて、ようやく状況を把握した。急いで身体を起こして片岡に頭を下げる。


 「す、すみません、不調法を晒しました」


 鋼之助は羞恥から真っ赤に顔を染めた。


 (また失敗した)


 昨日に続いて今日もだ。片岡はきっと呆れている。


 (……っう)


 そんな暗い感情が胸に広がると、腹に痛みが走った。昔から心理的な負担を感じると、腹痛がおきてしまう。心理的なものであり、医者に治せるものじゃない。己を変えたいと願っていても、なかなか思い通りにはいかないものだ。


 「かまわねぇよ」


 すると、そんな鋼之助の心境を知らない片岡が、予想外の言葉をくれた。

 きょとんとする鋼之助に、片岡は歯を見せて笑った。


 「いやはや佐倉よ。おまえさん、意外に気骨があるのだな」


 片岡の言葉の意味がわからず、鋼之助は首を捻った。


 「出仕の時刻に遅れるからと、走って奉行所まできて、ぶっ倒れるなんてな」

 「あ」


 鋼之助の顔が一段と赤くなった。

 片岡は続ける。適当に言い訳を作ればいいのに、鋼之助は馬鹿正直に答えた。

 それが片岡の心に響いたらしい。


 「は、はあ……」


 鋼之助はいたたまれなかった。片岡は褒めるが、鋼之助はただ遅刻をしないように、がむしゃらに走っただけだ。不様に倒れたのだって、日頃から身体を動かしていなかった悪習の結果である。

 そして言い訳する度胸も無いのが本当のとこだ。

 なのに片岡は褒めそやすから、まともに顔が見れない。小さくなる鋼之助をおいて、片岡は意気込む。


 「よし。では、町廻りに行くか」

 「は、はい」


 張り切る片岡の背中を、鋼之助は追った。




 ◇◇◇




 片岡と鋼之助は奉行所を出ると、小者の太助を伴って神田のほうに向かった。

 町廻りとは、町の様子を見て廻りながら各町の自身番じしんばんに順繰りに顔を出し、変わったことがないかを聞いて廻るのだ。

 その自身番には、町内の家主や雇い人が交代で詰めている。

 家主達が話し合いや、町の運営に必要な書き物をするための場所でありながら、不審人物を一時的に留め置くなどの、治安上の役割も担っていた。

 そうして何ヵ所かの自身番に顔を出したところで、


 「神田川に死体が上がった」


 と、紺屋町の自身番に男が駆け込んできた。二十歳前の若い船頭だ。まだみならいかもしれない。


 「なに?」


 「あ、片岡の旦那っ」


 若い船頭は片岡の顔を見知っていたようで、頭を下げた。






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