其ノ壱
障子を開けると、すでに太陽が青い空に昇っていた。
濡縁に這い出た鋼之助は唖然とした。
「しまった……」
寝坊してしまった。
昨夜、夜具に身を沈ますと、気づくと今になっていた。
途中一度も起きることなく、寝入り端もわからない。それだけ疲れていたのだろう。初めてあんなにも歩いたのだ。それも刀という重りを付けて。
一応武士である者の言葉ではないが、事実そうだった。
こんなにぐっすりと心地好く眠ったのは初めてかもしれない。ずいぶんと深く寝ていたというのに、目覚めはすっきりしている。
「……っとと、そんな、場合じゃ」
呆けたままに晴空を眺めていた鋼之助だったが、はっとなった。奉行所勤めになって、たった二日目で遅刻してしまうことになろうとは。
鋼之助は己の迂闊さを嘆いた。
「旦那さま」
すると佐倉家で中間をしている弥彦が廊下を進んできた。
「ああ、よかった。起きてくれなかったらどうしようかと思っていました」
弥彦は心底安心したように、顔をくしゃくしゃにして笑った。
弥彦が言うには、鋼之助を何度も起こしに来たらしい。障子越しから幾度も呼びかけたが、鋼之助はまったく起きる気配がなかったのだと。悩んだすえ、今度は直接声をかけようと息巻いていたのだが、廊下に座り込んでいる鋼之助を見て安堵したのだ。
「そ、それは、すまぬ」
それを聞いた鋼之助は、慌てて頭を下げた。
「旦那さま、なにも頭を下げなくてもいいんですよ」
泡を食った弥彦がおろおろとする。
「ささ、早く出仕の御準備を。今からなら、まだ五つ(午前八時)に間に合います」
町奉行所の同心の出仕時刻は五つだ。
「ま、まだ間に合う?」
「はい」
とっくに五つを過ぎていたと思っていた鋼之助は、確かめるように聞いた。良かったと、ほっと息をつく。そんな鋼之助を急かすように、弥彦が背中を押した。
◇◇◇
「……おまえ、大丈夫か?」
みならいである鋼之助の指導を任された先輩同心の片岡真太郎が、心配そうな顔を浮かべて鋼之助の顔を覗き込む。
「は、はいぃぃ……」
そうは言うが、荒く肩で息をしている。
寝坊した鋼之助は、弥彦に急かされるまま顔を洗い、着替えて朝餉をとった。正確には、かき込んだ、というほうが正しい。ゆっくり朝餉をとる時間は無かったが、同心は体力勝負だと新八郎が言うので、茶漬けにしてかき込んだのだ。
佐倉家に養子に入ってからは初めてのことばかりが続くが、こんなに忙しい朝餉も初めてだ。
髪結いも、とっくに帰っていたので、鋼之助が茶漬けを食べてる間に弥彦が乱れた髷を直してくれた。ありがたいことである。
そうして出来うる限りの走りで、やっとこさ数寄屋橋御門内の南町奉行所に着いたのだ。
ようようにして着いた鋼之助は、その瞬間、奉行所前でへたり込んでしまった。足ががくがくしている。
(足が笑うとは本当なんだ……)
と、場違いながら思っていると、慌てた様子で片岡が奉行所内から出てきた。どうやら門番が知らせてくれたらしい。
「で、どうしたんだ?」
片岡が問いた。鋼之助の、そのざまの理由を訊いている。鋼之助は正直に、
「ね、寝坊しました……」
と、答えると、仰向けのまま地面に倒れ込んでしまった。
「お、おいっ」
色めき立つ片岡の声が、どこか遠くから聞こえる。
しっかりしろ、中に運べ、水を持ってこい。などという叫びを聞いたのを最後に、鋼之助の視界は真っ黒に塗り潰されていったのだった。
◇◇◇
ごおぉぉん──……。
ごおぉぉん──……。
刻を知らせる鐘の音が耳に入った。
瞼を開けると、ぼやけた視界に映ったのは、古めかした天井だった。
「え……」
鋼之助はぱちくりと瞬いた。ここは、どこだろう? そう思うが、記憶の糸が見つからない。それでも必死に頭を巡らせた。
たしか自分は、奉行所には着いた。そして……。
「おお、よかった、起きたか」
鋼之助が思い返していると、その声と共に片岡真太郎が視界に入ってきた。鋼之助の頭上に座って、覗き込んでいる。
「へ……?」
状況がいまいち掴めず、鋼之助は呆けた声を出した。
「おまえ、奉行所の前で倒れたんだよ」
苦笑しつつ片岡が説明してくれて、ようやく状況を把握した。急いで身体を起こして片岡に頭を下げる。
「す、すみません、不調法を晒しました」
鋼之助は羞恥から真っ赤に顔を染めた。
(また失敗した)
昨日に続いて今日もだ。片岡はきっと呆れている。
(……っう)
そんな暗い感情が胸に広がると、腹に痛みが走った。昔から心理的な負担を感じると、腹痛がおきてしまう。心理的なものであり、医者に治せるものじゃない。己を変えたいと願っていても、なかなか思い通りにはいかないものだ。
「かまわねぇよ」
すると、そんな鋼之助の心境を知らない片岡が、予想外の言葉をくれた。
きょとんとする鋼之助に、片岡は歯を見せて笑った。
「いやはや佐倉よ。おまえさん、意外に気骨があるのだな」
片岡の言葉の意味がわからず、鋼之助は首を捻った。
「出仕の時刻に遅れるからと、走って奉行所まできて、ぶっ倒れるなんてな」
「あ」
鋼之助の顔が一段と赤くなった。
片岡は続ける。適当に言い訳を作ればいいのに、鋼之助は馬鹿正直に答えた。
それが片岡の心に響いたらしい。
「は、はあ……」
鋼之助はいたたまれなかった。片岡は褒めるが、鋼之助はただ遅刻をしないように、がむしゃらに走っただけだ。不様に倒れたのだって、日頃から身体を動かしていなかった悪習の結果である。
そして言い訳する度胸も無いのが本当のとこだ。
なのに片岡は褒めそやすから、まともに顔が見れない。小さくなる鋼之助をおいて、片岡は意気込む。
「よし。では、町廻りに行くか」
「は、はい」
張り切る片岡の背中を、鋼之助は追った。
◇◇◇
片岡と鋼之助は奉行所を出ると、小者の太助を伴って神田のほうに向かった。
町廻りとは、町の様子を見て廻りながら各町の自身番に順繰りに顔を出し、変わったことがないかを聞いて廻るのだ。
その自身番には、町内の家主や雇い人が交代で詰めている。
家主達が話し合いや、町の運営に必要な書き物をするための場所でありながら、不審人物を一時的に留め置くなどの、治安上の役割も担っていた。
そうして何ヵ所かの自身番に顔を出したところで、
「神田川に死体が上がった」
と、紺屋町の自身番に男が駆け込んできた。二十歳前の若い船頭だ。まだみならいかもしれない。
「なに?」
「あ、片岡の旦那っ」
若い船頭は片岡の顔を見知っていたようで、頭を下げた。




