2-2
翌週の月曜になって尚子はさっそく雫のもとを訪れるため王子駅に降り立った。
ちらりと腕時計を見る。
午前11時。この時間ならば突然訪ねて行っても失礼にはならないだろう。
尚子は雫の家に向かって歩き出した。
もともと月曜日は編集部の定例ミーティングなどがあり、一日を会社で過ごすことになっていたが、先日、真由から相談された件が気になっていて、朝のミーティングを済ませると急ぎ会社を出たのだった。だが、真由の件をどう切り出せばいいのか、先日からずっと考えているのだが、どう雫に話せばいいのか良い知恵が出てこない。
真由が仕事を辞めたがってる、などとストレートに言うわけにはいかない。そんなことをいえば、雫がいかにショックを受けるかは想像がつく。
(どう話せばいいんだろう)
結局、雫の家に着く頃になってもまだ、その答えは見つからなかった。
思案しながらふと視線を家の前に移すと、そこに一人の男が立っているのが見えた。ぼさぼさ髪に、汚れたような黒いジャンパーを着て、全体的に薄汚れたような格好に見える。歳は30過ぎくらいだろうか……。
尚子ははっとして思わず路地に隠れると、そっとその姿を眺めた。
真由が言っていたのは、この男のことかもしれない。よく見ると真由が話していたように左の頬に大きな傷が見える。
(誰だろう)
男はしきりにぴょんぴょんと飛び跳ねるような動作をしながら、家の中を覗こうとしている。
雫は人気作家ということもあり、これまでも若い学生がどこで調べたのか雫の家を訪ねてくることもあったが、男はそういう部類とはまったく違って見える。
(どうしよう……)
さっきまで真由のことを悩んでいたことなど忘れ、尚子はじっと男の姿を観察した。
男は門の右手に移動したり、左手に移動したりしながら、さかんに家のなかを覗こうとしている。
(警察に連絡するべきだろうか)
だが、男が何者なのかわからないままで警察に連絡するのも躊躇われた。男が真由の言っていた男である確証はない。もし男が真由の言っていた男であったとしても、まだ何かしたわけではない。警察が来たところで一時的に追い払うことしか出来ないだろう。むしろ、そんなことをしたら男の気持ちを逆撫ですることになるかもしれない。
(よし――)
尚子は大きく息を吸い込むと、路地を出て男に向かって歩き出した。
相変わらず男は家の中を覗こうとしていたが、尚子が近づいていくと、その姿に気づき一瞬気まずそうな表情をして顔を背けた。
「あの――そこで何してるんですか?」
勇気を振り絞って男に声をかけた。もし、雫のファンだというならば、丁重に帰ってもらえばいい。まさか、いきなり刺し殺されたりするようなことはないだろう。
「え?」
男は躊躇うように視線を泳がせ、顔を俯かせた。
「何してるんです? あなた、誰ですか?」
尚子はもう一度繰り返した。
「おまえこそ誰だよ?」
男は顔をあげると、その窪んだ目で尚子を睨んだ。その目に尚子は少したじろいだ。
「わ……私は杜野雫先生の担当の編集者です」
「ふん、杜野雫先生ねえ」
男は鼻を膨らませ、いかにもバカにしたような言い方をして口元を歪ませた。その態度に尚子はムッとして口調を強めた。
「あなた、何なんですか? ここで何してるんです?」
「何でもねえよ」
そう言うと男は尚子に背を向けて歩き出した。わずかだがその左足を引きずっているように見えた。
「ちょ、ちょっと――」
「うるせえな!」
ちらりと振り返ると男は怒鳴った。その剃刀のような視線に尚子は言葉を失った。
男はそのまま、角を曲がって消えていった。
(なんだろ……あの男)
さすがに追いかけるまでの勇気はなかった。
門扉はいつも昼間は鍵が開いているため、尚子はそのまま門扉を開けて、中へと入っていった。
いつものように玄関のチャイムを押すと真由が顔を出した。
「おはよう」
「おはようございます。尚子さん、今日、いらっしゃることになってました?」
いつも雫の家を訪れるのは火曜日と金曜日と決めている。
「ううん、ちょっと先生の様子を見にね」
そう言ってウインクをしてみせた。
「ああ……すいません」
その意味に気づき、真由は軽く頭をさげた。
「ところでさっき家の前に変な男がいたんだけど――」
「またですか?」
真由は顔をしかめてドアの隙間から表を見た。
「私が声をかけたらいなくなっちゃったけど……たぶん、真由ちゃんが言ってた人だと思う。頻繁に来てるの?」
「ええ……最近はよく……昨日も来ていたみたいです。やっぱり警察に連絡したほうがいいですよね」
「そうね……先生たちはなんて言ってるの?」
「旦那さんたちは警察に言う必要はないって……確かに何かされたわけじゃないんですけど、でも何か起こってからじゃ遅いですよね」
「ひょっとして先生たちはあの人が誰か知ってるのかしら?」
「さあ……」
「先生は上にいるの?」
「はい、どうぞ」
真由に促されて尚子は2階に上がった。いつものようにドアをノックする。
「はぁい」
その声に尚子はドアを開けて、中へ入った。
「先生、おはようございます」
「あら? どうしたの? 今日、何か約束あったっけ? まさか締め切りなんてことないわよね」
驚いたような顔で雫は卓上カレンダーに視線を向ける。
「いえ、違いますよ。ちょっとお伺いしてみただけです」
「そお? 良かった。まだ全然進んでないからどうしようかと思っちゃったわ」
そう言って明るく笑う。
「大丈夫です。しっかり良いものを書いてくださいね」
「ありがと」
「ところで……ちょっとお話が……」
「話?」
尚子の真剣な表情を見て、雫の顔から笑みが消える。「どうしたの?」
「さっき家の前に変な男がいたんですけど……ご存知ですか?」
さっと雫の表情が曇った。
「ああ……あれね……たまに来てるみたいね」
平静を装うように雫は言った。
「警察に連絡なさらないんですか?」
「こういうのはよくあることじゃないの。いちいち気にしていたらしょうがないわ。放っておけばすぐにいなくなるわよ」
「でも、あれって普通のファンとかいうのとはちょっと違う感じがしましたよ。何かあってからじゃ困ります」
「大丈夫よ。尚子さんったら大げさね」
「先生!」
「わかったわ……雄一郎さんに相談してみる」
尚子を宥めるように雫は言った。その答えに尚子はひとまずほっとした。「ところで、それが尚子さんの言う『話』なの?」
「い……いえ……そうじゃないんですけど」
そう言われて今度は尚子が口篭もった。まだ雫にどう真由の件を話せばいいのか考えていなかった。
「ひょっとして真由ちゃんのことかしら?」
「え? どうしてそれを――」
「やっぱりね。土曜日に真由ちゃんと会ったんでしょ?」
尚子の顔を覗きこむように雫は言った。
「えぇ? どうして知ってるんです? 真由ちゃんから聞いたんですか?」
「いいえ、真由ちゃんは何も言わないわよ」
「それじゃどうして――」
「そりゃ、わかるわよ。一応、真由ちゃんの親代わりのつもりでいるんだから」
「はぁ……」
「それで? 真由ちゃんから何を相談されたの? やっぱり大学には行きたくないって?」
「そういうことじゃないんです。ただ……真由ちゃん、あまりに先生のお世話になるのが申し訳ないって。先生に遠慮してるんですよ」
「そう……やっぱりねえ」
雫は困惑した表情を見せた。
「先生が真由ちゃんを可愛がるのもわかりますけど、少し距離をおいたほうが真由ちゃんにとっては気持ちが軽くなるんじゃないでしょうか」
「そうねえ。尚子さんの言う通りかもしれないわ。でも、私、本当に真由ちゃんのことが可愛くてしかたがないの。だから、出来ることは何でもやってあげたいの。私ね、彼女を養女にしたいって考えているのよ。そのことは聞いた?」
「はい」
「尚子さん、どう思う?」
「どうって言われても……」
尚子は返事に詰まった。
「養女ってことになれば、私が彼女に何をしてあげてもおかしくはないでしょ?」
「そりゃそうですけど……でも先生、どうして急にそんなことを言い出したんです?」
「急……かしら?」
そっと人差し指を口元に当てて雫は首を傾げた。
「急ですよ」
「でもね、前から考えていたことよ。雄一郎さんだって同じ気持ちよ。それに真由ちゃんだって大学を受験するならそろそろ準備をはじめなきゃいけないでしょ」
雫の真剣な眼差しに、雫がいかに真剣に真由のことを考えているかを感じ取ることが出来た。
「でも、真由ちゃんにもいろいろ気持ちの整理があるでしょう。急に養女なんて言われてもきっとびっくりしているんですよ」
「そうかもしれないわね。でもね私、本気なのよ――」
そう言った時、ドアがノックされた。
「――はい」
雫が返事を返すと、ドアが開いて真由が顔を出す。
「沢登先生がいらっしゃいました。どうしますか?」
「それじゃ、休憩室に入ってもらって」
「わかりました」
真由は軽く頭を下げてドアを閉めた。
「どうかしたんですか?」
沢登直人は雫の顧問弁護士をしている。尚子もこれまでに何度が会ったことがある。愛想が良く、人当たりも悪くない。
「ちょっとお願いしてることがあったの……悪いんだけど」
と、雫が胸のところで小さく手を合わせる。
「――あ、お忙しいところ突然お邪魔してすいませんでした」
慌てて尚子はソファから立ちあがり頭をさげた。
尚子が部屋を出るとちょうど、沢登が階段を上がってきたところだった。
「こんにちは」
尚子が挨拶すると、沢登は軽く右手をあげた。
「やあ」
沢登はまだ若いが有能な弁護士だと雫が誉めていたのを聞いていたことがある。沢登は若いながらも池袋に小さな事務所を構えている。確か36歳だと聞いていたが、年齢よりもずっと老けて見える。その薄くなった頭と大きく張り出したお腹のせいかもしれない。
「先生、また太ったんじゃありませんか?」
からかうように尚子が言うと、沢登は頭を掻いて笑った。その丸顔に淵の丸まった眼鏡がよく似合っている。
「そうなんですよ。『天高く馬肥ゆる秋』ですね。この季節になると食が進んでね」
「先生の場合は秋だけじゃないでしょ」
「いやあ、違いない」
沢登は大きな口を開けて笑った後、急に周りを見回して誰もいないことを確認するとそっと尚子に近づいた。「ところで雫先生、変わりない?」
「え? どうしてですか?」
「……いや……何もなければいいんだが……」
沢登はそう言って口篭もる。
「何かあったんですか?」
「いや、なんでもないよ」
そう言うと沢登は尚子とすれ違い、階段を昇っていった。
(どうかしたのかしら?)
沢登の後ろ姿を見送ってから階段を降りる。1階に降りると、真由が慌てて追いかけてきた。
「尚子さん――どうでした?」
「うーん……一応話はしたみたんだけど、あんまりじっくりとは話が出来なかったのよ」
「そうですか」
真由はがっかりしたように肩を落とした。
「ごめんね。でも、そんなにすぐに答えを出すことでもないし、少し時間かけてゆっくり考えてみない? 先生だってそんな無理に養女になれって言っているわけじゃないんだから。私もまた先生の気持ち、訊いてみるわ」
「……はい」
真由は困ったような表情を見せながらも、素直に頷いた。