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昨日に引き続き、青空が覆っている。
朝、のんびりとベッドのなかで惰眠をむさぼったあと、尚子は真由との約束を思い出して10時過ぎに家を出た。昨日、予想した通り、脹脛が軽い筋肉痛になっている。運動不足であることを改めて思い知らされた。
有楽町で電車を降りて、歩いていくと、土曜日のマリオン前は若い男女で溢れていた。今日から公開される前評判の高いハリウッド映画の上映があるためか長蛇の列が続いている。
(いいなぁ)
ここ数ヶ月はずっと仕事に追われ、映画館でゆっくり映画を観るようなこともなかった。学生の頃は毎週のように映画館に通ったものだ。バイトで学費を稼ぐ毎日だったが、それでも心は満たされていた気がする。
ぼんやりと歩いていると時計台の下に真由が待っているのが見えた。思わず腕時計を見るとちょうど11時半になろうとしているところだ。
尚子が近づいていくと、真由も気がついて振り返り軽く頭をさげた。
「おはようございます」
「おはよ。待った?」
「いえ、ついさっき来たところですから」
白いブラウスにグレーのプリーツスカートが良く似合っていてとても可愛らしい。手には今年の春に雫から誕生日のプレゼントとしてもらったヴィトンのバッグを大切そうに持っている。
「それじゃ、ちょっと早いけど、まずはお昼でも食べてそれから話をしようか」
尚子は知っているイタリアンレストランに真由を連れて行った。真由はそれほど食欲があるようでもなかったが、それでもスパゲッティのランチセットを綺麗に平らげた。
食後の紅茶が来たところで尚子は話を切り出した。
「それで、相談って何? 大学のこと? やっぱり大学には行きたくないの?」
「あの――」
と真由は顔をほんの少し俯かせた。「大学のこともあるんですが……私……じつは先生のところを辞めようかと思ってるんです」
「辞める?」
さすがに尚子は真由の言葉に驚いた。「どうして? 何か嫌なことでもあるの?」
「いえ、そんなんじゃありません。先生は私には本当によくしてくれています。でも、あまり甘えすぎちゃいけないと思うんです。先生は大学に行くように言ってくれますが、私にはそんなことまでしてもらう理由はありません」
「それで辞めるの?」
「もともと学校を卒業したら先生のところを離れようかって思っていたんです。私もこれからのことを真剣に考えなきゃいけない歳になってきましたから。それで今、仕事を捜しているんです」
「雫先生にその話はしたの?」
真由は首を振った。
「先生にはいずれ時期を見てお話しようかと思ってます」
「何かやりたいことがあるの?」
「そういうわけじゃありません。先生のところで仕事をさせてもらうのはとても楽しいですし、先生にはすごく感謝してます」
「それなら新たに就職口を見つけることもないんじゃない?」
「このままずっと今の仕事を続けるわけにもいかないと思うんです。出来ればちゃんとした技術を持った仕事につきたいんです」
「先生は真由ちゃんも作家の才能があるって言ってるわよ」
「それは先生が優しいからそう言ってくれるだけです。私にそんな才能ありません。それに、いつまでも先生に甘えているわけにはいきません」
真由の話に尚子は困惑した。まさか仕事を辞めるなどと打ち明けられるとは思っていなかった。もし、このまま真由が辞めることになれば、雫がどれほど落ち込むかは容易に想像出来る。
尚子は自分を落ち着かせようと、紅茶をゆっくりと一口飲んでから、頭のなかで言葉を整理しながら口を開いた。
「先生に甘えたくないっていう気持ちはわかるわ。でもね、そんな簡単に答えを出さなくてもいいんじゃないかな。もっとゆっくり考えてみたらいいんじゃない? 先生は真由ちゃんのことを心から可愛がってくれているじゃないの。何か自分でやりたいことを見つけて、それから仕事を辞めても遅くないんじゃない?」
「でも……」
真由は困ったような表情を浮かべた。
「他にもまだ理由があるの?」
「……先生、私を養女にしたいって言ってるんです」
「養女?」
尚子は目を丸くした。雫が真由を可愛がっている事は知っていたが、まさかそんなことを考えていようとは思ってもいなかった。
「三日前ににそう言われました」
「……それで?」
「お断りしました。もちろん先生のことが嫌ってわけじゃありません。先生のことは本当に好きだし、尊敬もしています。でも、今までそんなこと考えた事もなかったですから」
「そうよね」
真由の気持ちは尚子にもよくわかる気がする。突然、養女になれと言われて驚かないほうがおかしい。
「……なんか最近の先生はちょっと様子がおかしい気がするんです」
ぽつりと真由は呟くように言った。
「おかしい? それってどういうこと?」
「なんか……先生も旦那さんも……最近どこか以前と違ってるんです。理由はなんとなくわかってるんです」
「何かあったの?」
「……ちょうど1週間前なんですけど……私、買い物の帰りに家の前にいる男の人を見たんです」
「どんな?」
「30半ばくらいの男の人で、黒いジャンバーを着た人。頬に大きな傷があって……少し怖い感じの人です。それで家の前に立って、家の中を伺うように覗き込んでいたんです。なんか怖かったんで、そのことを先生に話したんです。そしたら、先生も旦那さんもすごく慌てて……」
「警察には?」
尚子の問いかけに真由は首を振った。
「いいえ、私は念のために警察に連絡したほうがいいんじゃないかって言ったんですけど、お二人はそんな必要ないって……でも、二人ともそれ以来どこか様子がおかしくなって……そんな時に養女にならないかって言われたんです」
「その男の人と何か関係があるのかしら?」
「わかりません。でも、あんなこと突然言い出すなんて変ですよ……それに……」
「まだ何かあるの?」
「……あの……こんなこと本当は言うべきじゃないのかもしれないんですけど……」
「何なの?」
「つい先日なんですけど……夜中、トイレに起きたんです。そうしたら先生が家のなかをぼんやりと歩いているんです」
「どういうこと?」
尚子には真由の言っていることがわからなかった。
「その様子が変だったんです」
「どんな風に?」
「夢遊病って言うんでしょうか……もちろん、私はそういうものを実際に見たことはないんですけど……でも先生はそんな感じで……私とすれ違ったのにまるで私のことなんて見えていないようで……」
「先生は真由ちゃんに気づかなかったの?」
「はい……私もなんか怖かったので、その時は話し掛けなかったんですが、翌朝になってそのことを話したら先生、真っ青になっちゃって……その次の日になって旦那さんから寝るときには部屋に鍵をかけるように言われました。今までそんなこと言われた事なかったのに……あんなこと言わなければ良かったのかもしれません」
「……そう」
「私、先生のことが心配なんです」
不安そうな顔で真由は言った。
「それじゃ、そのことは私から先生に訊いてみる。それと仕事のことだけど、真由ちゃんはもう少し待ってくれる?」
「……はい」
雫が真由のことを心から可愛がっているのを知っているだけに、真由が家を出てしまうようなことになった時の雫のことが心配だった。