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尚子の勤める白亜出版は7年前に現社長が大手の出版社から独立し、これまでにはなかった新しい分野の小説を作り出すことを目的として設立した。そのため会社設立当時は有名な作家に書いてもらうことも出来ず、新人を発掘するところから始まった。全国的に名前が通り始めたのはつい最近になってからだ。ただ、いくら名前が通り始めたとは言うものの自社ビルを構えるほどの余裕はなく、今は御茶ノ水にある小さなオフィスビルの3Fと4Fの2フロアを借りている。会社には三つの編集部があり、純文学を中心に扱う第一編集部、コミック系を扱う第二編集部、そして、エンターテーメント系を扱う第三編集部。尚子は第三編集部に属している。
会社に戻ったのは午後4時を少し回った頃だった。
席に着くとさっそく編集長の財部がツカツカと近寄ってきた。財部も白亜出版設立当時からいるメンバーの一人だ。顎から頬にかけて髭を伸ばし、頭は短く刈り込んでいる。本人は髭が似合っていると思い込んでいるようだが、それは無精髭にしか見えず、周囲に不評をかっていることに本人は気づいていない。まだ36歳になったばかりだが、その風貌はどう見ても40代後半に見える。
だが、財部の編集者としての手腕は出版業界でも有名で、これまでにも何人ものベストセラー作家を世に産み出している。
杜野雫を最初に担当したのも財部だった。
「浅井、調子はどうだ?」
「私は元気ですよ」
「おまえじゃないよ。如月先生のことを言ってるんだ」
財部は渋い顔をして言った。
「――ですよね」
「杜野先生は原稿が遅れることは滅多にないけど、如月先生は危ないからな」
確かに毎回、如月の原稿はギリギリまで遅れることが多い。「しかも今回は新作だろ? なんか気になってなぁ……もう書き始めてるのか?」
「いえ、まだプロットも出来てないみたいですよ」
「おい……それ、やばいんじゃないのか?」
財部は太い眉の間に皺を寄せた。
「でも、如月先生って、いつも書き始めたら結構早いみたいだし……きっと大丈夫ですよ」
尚子は曖昧に答えた。
「きっと? 頼りない言い方だな。プロットはいつ出来上がりそうだ?」
「さあ……」
「なんだよ。聞いてないのか?」
財部の表情が変わる。
「……あ、いや……私、ホラーって苦手だから」
「そんなの言い訳になるかよ。おまえ、一応は如月先生の担当だろ? 担当ってのは原稿を持ってくるのだけが仕事じゃないんだぞ。作家の陰になって一緒に作品を作っていかなきゃいけないんだぞ。わかってるのか?」
財部は説教じみた口調になった。
「はあ……」
「はあ、じゃないだろ」
「あの……前から聞きたかったんですけど、どうして私が如月先生の担当なんですか?」
その問いかけに財部は視線を逸らした。
「ん? ああ……それはいろいろあってな」急に財部の態度が変わる。
「だからぁ。そのいろいろってなんです?」
「いろいろはいろいろだよ」
実は以前にも同じ質問をしたことがある。その時も財部はうやむやにして答えようとはしなかった。何か理由があるんだろうか。
「いろいろって何ですか?」
なおも追求すると財部はむっとした顔つきになった。
「理由なんてどうでもいいんだよ。おまえの好き嫌いは別として、担当なんだからちゃんと仕事しろよ!」
財部は声を大きくして言った。
(うわ……逆ギレじゃんかぁ)
そう思いつつも言い返すことも出来ず渋々尚子は頷いた。
「はぁい」
「明日、もう一回行ってちゃんとプロット聞いて来い。それと、岸本が今いっぱいいっぱいになっているから、ちょっと手伝ってやってくれ。ノルマ、2本だからな」
財部はそう言い残すと部屋を出て行った。
「ラッキー、助かったぁ」
隣に座っている岸本房子が笑いながらA4サイズの封筒を二つ、尚子の机の上に置いた。
房子は尚子より一つ年上の27歳で、主に編集部に送られてくる小説を読んで、将来性のある新人を見つけ出すのを専門の仕事にしている。
今は杜野雫などの有名作家が書いてくれているお陰で毎月出版部数も少しずつ伸びてはいるが、大手出版社とは違い未だに新人作家発掘の手を緩めるわけにはいかない。
「げぇ……2本かぁ……」
尚子は恨めしそうな顔で房子を見た。基本的に小説を読むのは好きなのだが、一般の素人小説となると気が引ける。自分の好みに関わらず客観的に小説のレベルを見極めるのはなかなか難しい作業だったし、なかにはまったく小説としての形を成していないものもある。とはいえ、このなかに第2、第3の杜野雫がいる可能性があるかもしれない。
「文句言わないの。私はあなたの小説だって読んだんだからね」
房子は笑顔で言った。確かにそれを言われると身も蓋もない。
房子は大学を卒業してすぐに、この出版社に就職し、それ以来ずっと新人発掘の仕事に取り組んでいる。杜野雫や如月凛音の原稿を最初に読んで彼らのデビューを決めたのも房子だった。編集部でも房子の眼力は大きく評価されている。
化粧気もなく、長い髪を後ろで束ね、銀縁のレンズの厚い眼鏡をかけている。優等生的な文学少女というイメージが強いが、決して取りつきにくいなどということもなく、会社のなかでは尚子の一番の親友だった。
編集者のなかには尚子のように作家を目指して業界に入ってきた人間も多いが、房子の場合は子供の頃から編集者になるのが夢だったらしい。
「手軽なものにしてくださいね」
そう言って一つの封筒に手をつける。
「大丈夫よ。二つとも尚子の好きなホラーにしてあげたから」
「えー! 勘弁してー」
思わず封筒から手を離す。
「嘘よ。さすがに素人の書くホラーなんて一日2本も読んでたら具合悪くなっちゃうもんね。あなたの好きなミステリーにしておいてあげたわ」
目は微笑みながら、冷静な口調で房子は言った。
「房ちゃん、ありがと」
「――とはいっても、それにも当たり外れはあるけどね。へたなミステリーはホントわけわかんないわよ。そう思ったら途中で止めて構わないからね。ただ、ちゃんと尚子が読んだ感想を書いて封筒の表に貼り付けておいて」
「はぁい」
尚子は封筒から原稿を取り出すと、仕方なく原稿に目を通し始めた。




