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尚子は会社に一度戻る予定になっているため、早々に切り上げて帰ることにした。いつもは一人で勝手に帰っていくのだが、今日は珍しく真由が見送りに一緒に着いて来る。尚子は真由の表情に、何か自分に話したいことがあるのだとすぐに察した。
階段を降りていくと、ちょうど雄一郎が病院に続く廊下から戻ってくるのが見えた。白衣に手をつっこみ背中を丸めている。寒がりの雄一郎はすでに白衣の下に茶色のセーターを着込んでいる。今年の冬、雫が自分で編んでプレゼントしたものだ。
「こんにちは」
尚子が頭を下げると、雄一郎はちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を見せた。その目元はいつも穏やかだ。若い頃は外科医としてメスを握っていたらしいが、ある時、外科では治せない人の傷ついた心を治したいと思い立ち、臨床心理師の道を目指したのだという。
「いらしてたんですか。あ、もうお帰りですか?」
いつもながら柔らかな口調で語りかける。
「ええ、今日は仕事の状況を伺いに来ただけですから。診療のほうは?」
「今、ちょうどクライアントが切れたところなのでちょっと一服しにきたんです。病院じゃタバコを吸えないので」
「タバコやめられたって言ってませんでしたか?」
雫が雄一郎の健康を気遣って、タバコを止めるようお願いしていたのは今年の春のことだ。雄一郎はもともとヘビースモーカーだったが、雫のためにもと、雄一郎も本気になってタバコを止めたのだと聞いていた。最近では健康のためか、釣りをはじめるつもりになったらしく釣竿を買ってきたと真由が話していた。ひょっとしたら如月が作っていた装置は雄一郎のためのものだろうか。
「それが……最近になってまたはじめちゃったんですよ。だめですね、長年吸い続けてたもんで、やはり急にはやめられません」
雄一郎は大きな身体を屈めてバツが悪そうに答えた。
「雫先生、がっかりしてるんじゃないですか?」
「もう諦めてくれましたよ」
照れくさそうに笑いながら、雄一郎は尚子とすれ違いながら2階にある自分の書斎へと階段を上がっていった。
「なんか……最近旦那さんも変なんですよ」
雄一郎の後姿を見て、ぽつりと真由がつぶやいた。
「変って?」
「その……うまく説明できないんだけど……ちょっといつもと違うんです」
真由は言葉に詰まりながら答えた。
「そう? そうは感じなかったけど……それより真由ちゃんどうするつもりなの?」
「大学の件ですか?」
「雫先生は真剣よ」
「それは私だってわかっています。先生にそこまで考えてもらうのは私も嬉しいです。でも私、雫先生にとってただの使用人です……どうしてこんなによくしてくれるのか……」
真由は困ったような表情をした。確かに家政婦として雫に雇われている真由にとって、いくら可愛がられているとはいえ学費まで出してもらうということは躊躇われることかもしれない。
「雫先生にとって真由ちゃんは娘みたいなものなのかもしれないわね。あ、でも先生の娘にしてはずいぶん大きいわね。妹って言ったほうがいいのかしら」
尚子の冗談にも真由は表情を暗くしたままだった。そして、ほんの少し迷ったような素振りをしたあと、まっすぐに尚子に顔を向けた。
「尚子さん、ちょっと今度良かったら外で会ってもらえませんか? 相談したいことがあるんです」
「それは構わないけど……ここじゃまずい話なの?」
「……やっぱり二人ナオのほうがいいんで……」
やはりいくら自分の部屋があるとしても、ここでは話しづらいこともあるのだろう。
「いいわ。真由ちゃんの都合のいい時に携帯に電話ちょうだい」
「はい」
真由が何を悩んでいるのかはわからなかったが、真由のために何かしてあげたいと思った。




