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優しき殺人者  作者: けせらせら
39/41

6-3

 翌日、尚子は如月を訪ねていた。

 如月は尚子に背を向け、さかんに指を動かしている。一度、書き始めるとあとは一気に書き上げるのが如月のいつものパターンだ。もともとシステムエンジニアだったため、指の動きは滑らかで、普通の人とは速さが格段に違っている。

 そんな如月の後ろ姿を尚子はソファに座って眺めていた。

(どうしよう……)

 尚子はまだ迷っていた。自分が何も見なかったことにすれば、全ては闇に葬られる事だろう。だが、本当にそんなことをしていいのだろうか。

(はっきりさせなきゃ)

 自分を奮い立たせるようにぎゅっと拳を握ると立ち上がった。

「――先生」

 尚子は如月に声をかけた。尚子の声に気づかないのか、如月の指の動きは止まらない。

「先生!」

 尚子は声のトーンをあげた。

 ピタリとキーボードの音が止まる。

「何?」

 くるりと如月は振り返った。握り締めた手のなか、爪が手のひらに突き刺さる。

「ちょっとお話したいことがあるんです」

「話? 俺の仕事を止めなきゃいけない話?」

「そうです」

 尚子はきっぱりと言った。その尚子の表情を見て、如月は一瞬、その青みがかった瞳で何かを考えた後、ゆっくりと立ち上がり、ソファに座る尚子の前に移動した。尚子も再びソファに腰を降ろす。

「じゃ聞こうか」

「何の話かはわかってるんですね」

「さあ」

 だが、その如月の目ははっきりと尚子の心のなかを見透かしているように見える。

「雫先生の事件のことです。あんな終わり方でいいんでしょうか?」

「……あれについて今更何を話したいんだ? あれはもう終わったことだ。思い出として懐かしく語るような話でもないだろ」

「それじゃ、雄一郎さんと雫先生を川島誠司さんが殺し、自殺……本当にそれが真実だと先生は思いますか?」

「警察はそう考えているんじゃないのか」

「警察のことなんて聞いていません。私は先生の考えを聞きたいんです」

「なぜ?」

「それは……」

 さすがにどう話していいか迷った。

「……ナオは、違うと思っているんだね?」

「……はい」

「なぜ?」

 穏やかな眼差しで如月は訊いた。

「これです」

 尚子はポケットのなかから一枚の写真を取り出して如月に渡した。

「これは?」

「一年前、雫先生の書斎で一緒に撮った写真です。遺作となった原稿と一緒にパソコンのなかに保存されていました」

「それで?」

「大切なのはこの本棚に写っているものです。ここにあるのは『盲目のアマディウス』ですよね」

「そのようだな」

「どうしてここにこの本があるんでしょう? なぜ雫先生が持っているはずの本を、如月先生から借りなきゃいけなかったんでしょう?」

「それが事件とどう関係してるっていうんだ?」

「そもそも私にはこの一連の事件を川島誠司さんがおこしたものとは思えないんです」

「その理由は?」

「動機です。川島さんが雄一郎さんや雫先生を殺す動機はなんですか? 川島さんが二人を殺したところで何の得があるんでしょうか?」

「それはナオが言ったように雄一郎さんが川島誠司を殺そうとして、争っているうちに逆に雄一郎さんが殺されたのかもしれない」

「確かに部屋は争ったような跡がありました。でも、その音を誰も聞いていません。私たちが気づいたのは大きな物音一つです。二人が争ったというのなら、なぜそれまで誰も気づかなかったんでしょう?」

「……さあ」

 表情を変えず如月は尚子の顔を見た。「それじゃあの部屋の状況はどう説明するんだ?」

「誰かが作り上げたんです。いかにも争ったように見せるために」

「誰が?」

 尚子は息を大きく吸い込み、そして答えた。

「雄一郎さんです」

「殺された雄一郎さんが?」

「そうです」

「何のために?」

「雄一郎さんが自殺したことを隠すためではありませんか?」

「自殺? ナオもあの現場を見ただろう? あの状況をどう見たら自殺だと思うんだ?」

「確かに雄一郎さんは刺殺されました」

「なら自殺じゃあないだろう」

「けれど、雄一郎さんはあえて犯人に殺されたんじゃないかと思います」

「あえて殺された? 変な言い方をするんだな。雄一郎さんが川島誠司に殺されなければいけない理由って何があるんだ?」

「川島さんじゃありません」

「川島誠司じゃない? じゃあ、誰が?」

 あえて挑発するかのように如月は聞いた。

「雫先生です」

「雫だって?」

「あの夜、雄一郎さんは川島さんと一緒に喫茶室で飲んでいました。おそらく雄一郎さんは二人で飲んでいる時、薬を使い川島さんを眠らせたんです。その後、部屋を荒らし、まるで争いがあったように見せかけ、それからドアを開けキャビネットのガラスを割り、その後、雫先生の手によって殺されたんです」

「どうして雫にそんなことが出来る? 2階で物音を聞いた後、雫は加奈子さんと一緒に上がっていった。だが、ドアは倒れた棚のせいで開けることも出来なかった」

「雄一郎さんが亡くなったのはあの時じゃありません」

「へぇ、それで?」

 まるでからかうような言い方だが、如月の目は笑ってはいなかった。

「あの音が聞こえる前、雫先生は一人で2階に行ってます。雄一郎さんを殺したのはその時です。そして、私たちが2階に行ったときには既に凶器は隠され、現場は作られていたんです。

「じゃあ、あの音は誰が?」

「あの音は自動的に鳴るようになっていたんです」

「どうやって?」

「先生が作った機械じゃありませんか? 以前、ここで見せてくれましたよね。自動的に釣り糸を巻き取る装置。あれを使って3階からロープを垂らし、そのロープを喫茶室の入り口に置かれた棚を倒したんです」

「そんなことが出来るのか?」

「出来ると思います。喫茶室のドアの前に倒れていた棚の中は空でした。その向い側には重い書籍が入った棚。おそらく、そのロープはその棚に沿わせ、空の棚に結びつけたんです。そして、先生が作った機械によって自動的にロープは巻き取られ、棚はドアの前に倒れたんです」

「そのロープはどうやって回収したんだ?」

「ロープは特殊な結び方をされていたんだと思います。『引き解け結び』という結び方をすれば、倒れた棚をさらに強く引くことで結び目は解けてロープだけが引き上げられます」

「よく気がついたな」

「以前、雫先生がロープのトリックを使おうと調べていたことを思い出したんです。雫先生はそのトリックを次の小説に使うつもりでいました。けれど、あの日、私が渡された小説にはそのトリックは使われていませんでした。きっと、現実に使うために、そのトリックを使うのを止めたんです」

「ふうん」

 如月は軽い口調で言うと――「じゃあ、一緒にいた川島誠司はどこへいったんだ?」

「薬で眠らされたといっても、おそらくそれはほんの短時間だったんだと思います。目覚めた時に雫先生によって川島さんは自分が雄一郎さんを殺したのだと伝えられる。酔っていて記憶のない川島さんはそれを信じ込み、雫先生の言葉に従いすぐに逃げ出したんです。まさか雫先生が自分を罠にかけるとは考えていなかったんでしょう」

「つまり、雫が雄一郎さんを殺し、雄一郎さんはそれに協力したってことか」

「間違っていますか?」

 二人の間に一瞬、沈黙が流れる。パソコンのディスプレイがスクリーンセーバーに切り替わり、暗い画面に桜の葉が上から下へ流れ始める。

 如月はおもむろに立ち上がると、机の引き出しのなかからタバコを取り出し、再びソファに腰をおろした。

 ゆっくりとした動作でタバコに火をつける。

 尚子はその如月の動作を黙ってじっと見つめた。

(否定してください)

 心のなかでそっと祈った。如月がその気になれば、自分の推理など簡単に打ち破ってくれるはずだ。

 その沈黙を破るかのように口を開いたのは如月だった。

「何のために雄一郎さんは死ななければいけなかったんだ?」

 如月のその言葉に、尚子は自分の推理が当たっているのだと確信させられた。

「川島誠司を殺人犯に仕立てあげ殺すためにです。雄一郎さんは癌で余命一年しかなかった。おそらく雄一郎さんは自分の命を捨てる事で川島誠司を落としいれようと考えたんでしょう」

「事件の時、川島誠司はどこへ消えた?」

 まるで尚子を試すかのように如月は訊いた。

「雫先生は眠っている川島さんの指紋をナイフにつけ、雄一郎さんが亡くなった後、雫先生は川島さんを起こして逃がしたんだと思います。酔っていた川島さんにとっては、それが自分が起こしたことかどうかわからなかったんでしょう」

「なるほど……そこまで考えているなら、他の事件についてもナオなりの答えを出しているんだろ?」

 まるで試すかのように如月は言った。

「はい……雄一郎さんが自殺なんじゃないかと考えた時、他の事件もまた同じ疑問が湧いてきました。他殺だと思っていた雫先生もまた自殺。そして、自殺だと思っていた川島誠司さんこそが他殺なんじゃないかって……雫先生がいつも精神安定剤を服用していたことはご存知ですか?」

「知ってるよ。いつも雄一郎さんが調合していたやつだろ」

「そうです。薬は雫先生が使いすぎないように、雄一郎さんがその日一日の分を毎朝、雫先生に渡していました。ですが、事件の当日だけはすでに一週間分もの薬を雫先生に渡しているんです。つまり自分が死ぬ事を覚悟していたからですよね。そして雫先生もまたその一週間の間に全てを終わらせるつもりでいた」

「なるほどね。観察力があるね」

「からかわないでください」

「雫が死んだ時のことも解決済か? まあ、着眼点を変えれば全て説明出来るだろうけどね」

 如月は軽く口元に笑みを浮かべた。なぜこんな時に笑うことが出来るのか、尚子は如月という人間がますますわからなくなっていた。

「雫はどうやって死んだと思ってるんだ?」

「さっきも言ったように、雫先生は自ら死を選んだと思います」

 話しながら、尚子は雫が倒れていた姿を思い出していた。

「だが、凶器はその場からずっと離れた場所にあった。雫が自分自身で刺したとしてもナイフをどうやって遠くまで運んだんだ?」

「そうです。雫先生一人ではあの状況は作り出せません。けれど、逆を言えば誰かが手を貸せばそれが可能になります」

「誰が?」

「如月先生、あなたが」

 尚子は真っ直ぐに如月を見つめて言った。もう逃げることは出来ない。全てハッキリさせるしかないだろう。

「俺? 根拠は?」

「雫先生がこの世のなかで信頼していたのは雄一郎さんと如月先生の二人です。私は雫先生の最後の顔を見ています。あの表情からは苦しみを感じませんでした。きっと如月先生に最後を見てもらったことであんな安らかな表情が出来たんです」

「まるで根拠とはいえないな」

「根拠はもう一つあります。それが雫先生から如月先生に渡された本です」

「本?」

「そう、『盲目のアマディウス』。あの日、雫先生が如月先生に返してくれと私に渡されたものです。雫先生はあの本を使って如月先生へのメッセージを送ったんです」

「あの中に手紙でも隠されていたとでも言うのか?」

「いいえ、あの時、私はあの本を覗いてみました。でも、手紙なんてありませんでした」

「じゃあ、どうやって?」

「きっと針で文字に穴を刺したんだと思います。その文字を辿ることで、一つのメッセージになっていたんでしょう」

「なるほど」

「あの本、今、どこにあるんですか?」

「もう捨てたよ」

 本当なのかどうか、それは如月の表情から読み取ることは出来ない。だが、そんなことはどうでもいいことだ。

 大切なのは如月が自分の推理を否定しようとしないことだ。

「否定されないんですね」

 我慢出来ずに尚子は言った。だが、如月は表情を変えないまま――

「川島誠司の死を他殺だと言ったね」

「はい、川島さんは殺されたんだと思います」

「へぇ」

「川島さんは雄一郎さんを自分が殺したのだと信じ込んでいました。だから雫先生に言われるままにあのアパートに隠れていたんです。あのアパートを準備したのは雄一郎先生です。そして、アパートに隠れているところをある人に訪問され、青酸カリの入ったカプセルを飲まされ殺されたんです」

「他人から渡された薬など平気で飲むかな?」

「信頼していたんですよ。その人のことを」

「それは誰?」

 尚子はごくりと唾を飲んだ。

「……如月先生ですよね」

「あの人が俺のことなど信頼するかな?」

「私はずっと気になっていたんです。憶えてますか? パーティーの時、川島さんは先生が来たとき、さも親しげに声をかけましたよね。『先生』って呼んで。私たちにとって作家の人は『先生』と呼ばれることに何の疑問ももちません。けれど、川島さんにとって作家など『先生』と呼ぶべき対象ではなかったはずです。それは如月先生が来る前のあの人の態度からうかがえます。それなのに川島さんは如月先生に『先生』と声をかけた。如月先生が雫先生の同級生として知っていたからでしょうか? たぶん違いますよね。別の場所で別の存在として如月先生は川島さんに会っていたのではありませんか?」

「なるほど。良い観察力だ」

 ぽつりと如月は微笑み、短くなったタバコを灰皿に押し付けた。

「先生……」

「ナオの想像してる通りだよ」

 如月は大きく息を吐き出してから言った。「俺は雫から相談を受けて、弁護士のふりをしてあの男に近づいた。ああいう男はそういう権威に弱いからね」

 尚子は如月がスーツ姿で帰ってきた時のことを思い出した。あの日、如月は川島誠司に弁護士として会っていたのだろう。

「薬は雫先生と雄一郎さんが準備したんですね?」

「そうだよ。あいつは雄一郎さんを殺した罪で警察が自分を追っていると知って毎日びくついていたよ。意外と気の小さな男でね、薬は精神安定剤と言って渡したんだ。密室にでもすれば完全に自殺と思わせることは出来たのかもしれないけど、へたなトリックを使えばむしろ警察は真相を見つけ出そうとする。遺書さえあれば、警察はあいつを犯人と断定すると考えていた」

「雫先生が死んだ後、その川島さんのことをマスコミに漏らしたのも先生ですね」

「うん。警察はバカじゃない。とくに桜木というあの刑事はね。彼がじっくり捜査を進めれば真実にも気づくかもしれない。それでは二人が死んだ意味が無くなる」

「だからマスコミを使って警察を煽り、解決を急がせた」

「そういうことだ。警察は答えがない場合、その答えを見つけて徹底的に捜査を続ける。だが、彼らが納得する答えさせ示してやれば納得してその答えに飛びつくものだ」

 如月は突然立ち上がると、キッチンに行き、冷蔵庫から1.5リットルサイズの烏龍茶のペットボトルとコップを二つ持ってきた。

 二つのコップに烏龍茶を注ぐ。

「なぜですか? なぜ雫先生や如月先生がこんなことを? 私にはそれがわからないんです」

「事件の中心に誰がいるのかを考えればわかることさ。あの時のパーティーと同じさ。主賓はもう一人いる」

 如月はぐっとコップに注いだ烏龍茶を飲み干した。

「それって――真由ちゃんですね?」

「ああ」

「今回の事件で、最も疑われるはずの存在。それが雫先生の遺言状で遺産を受け取ることになっていた真由ちゃんだった。だから……あのパーティーの時も、真由ちゃんだけは一度も雄一郎さんたちの様子を見に行くことはなかった。本当ならば真っ先に行くべき立場のはずなのに。如月先生も雫先生も真由ちゃんを主賓という立場にしてしまうことで、真由ちゃんをあの場から動かさないようにしてアリバイを作った。そして、容疑者の枠から外れるように仕向けたんですね」

「そうだ」

「それじゃ雫先生が死んだときも……誰か真由ちゃんのアリバイを作る人間が必要だった。そのために私にあの家に泊まるように言ったんですね」

 如月は黙って頷いた。「なぜ? 真由ちゃんのためになぜ雫先生は命を投げ出したんですか?」

「彼女を心から大切に思っていたからさ」

「それだけ? それだけのために自分の命を捨てたんですか? 何か他に理由があったんじゃありませんか?」

「そう……雫にとって罪滅ぼしの意味もあったかもな」

「罪滅ぼし?」

「桜木さんも言っていたのを憶えているか? 十年前、真由ちゃんの母親を殺した通り魔の容疑者に雫の名前が挙がっていたって」

「それじゃ……あれは……」

「そう、あれは雫がやったことだ」

 如月の言葉に、尚子は息が止まりそうになった。鼓動が激しく高鳴っている。

「な……なぜ?」

 搾り出すように尚子は声を出した。

「雫と初めて会ったのは高校一年の時……俺はその頃から人付き合いが苦手だったから、雫とも最初はあまり話もしなくてね。まともに話をするようになったのは高校を卒業するころだった。雫は俺に自分のことをいろいろ話してくれた。両親のこと、そして兄貴のこと……。俺は雫が兄の川島誠司との関係を聞いて雫を逃がそうとした。そして、東京で腕の良い医者を見つけて、その人のところへ逃げ込ませた」

「それが雄一郎さん……」

「そうだ。雄一郎さんは事情を聞いて快く治療を引き受けてくれた。だが、雫は俺や雄一郎さんが思っている以上に精神的に追い詰められていた。ノイローゼになって兄貴の幻覚を見る。そして、その幻覚に毎晩のように怯えていた。ある晩、ちょっと目を離した隙に、雫は街に出て偶然通りすがった一人の女性を刺し殺してしまったんだ」

「それが真由ちゃんのお母さんだったんですね」

「そうだ」

「警察には言わなかったんですか?」

「警察に言ってどうなるんだ?」

「だって人を殺しているんですよ……それに心神喪失ってことならば、罪にはならないかもしれないじゃないですか」

「罪にならないというなら、なおさら何のために自首する必要がある?」

「そんな――それは被害者が先生の身内の人じゃないからそんなことが言えるんですよ。もし、真由ちゃんの立場になれば――」

「それで彼女の悲しみが消えるわけじゃない」

 如月は尚子にまっすぐに視線を向けて言った。

「そんな理由って――」

「確かに彼女は母親を殺された。彼女は犯人を憎む権利がある。だが、雫が心神喪失ということで罪にならなければ、彼女はその憎しみのぶんだけ更に苦しむことになる。それならいっそ自首などしないほうがいい」

「雫先生は何て……?」

「もちろん事実を知って雫は愕然とした。自首すると言った。だが、俺はそれを止めた。ちゃんと病気を治してこそ罪を償うことを考えるようにあいつを説得した」

「真由ちゃんを雇った時、彼女の素性を先生は知ってたんですか?」

 如月は首を振った。

「彼女が家政婦として応募してきたのは偶然だよ。もちろん、その前から彼女のことは調べていたから、いずれ何とかして彼女の手助けをしたいとは考えていたけどね。雫は真由ちゃんが応募してきたことでかなり驚いたみたいだった。けど、傍に置くことで何かしてあげられるんじゃないかって考えて、彼女を雇うことに決めたんだ」

「罪の意識から真由ちゃんを可愛がっていたんですね」

「それは違う」

 如月はきっぱりと否定した。「確かに真由ちゃんに対して罪の意識はあった。けど、可愛がっていたのはそれだけが理由じゃない。雫は本当に真由ちゃんを自分の子供のように感じていたんだ。雫は薬なしじゃ生きられない。だが、薬を飲んでいては子供を作ることは出来ない。雫は本気で自分の全てを真由ちゃんに譲りたいと考えてた……そんなときに川島誠司が再び現れた」

 如月は喉の渇きを潤そうとするように、一口烏龍茶を飲んで再び話し始めた。

「ナオも知ってるように、ちょうどその頃、雄一郎さんの癌が見つかってね。二人は今後どうすべきかを考えていた時期だった。だが、川島誠司が現れたことで雫はなおさらパニックになった。雫は真剣に悩み、そして答えを出した。それが今回の事件だ。もちろん最初は雄一郎さんも俺も反対した。だが、雫の気持ちは変わらなかった。俺は弁護士と偽ってあいつに近づいた。あとはナオが想像したとおりさ」

「全ては真由ちゃんのために……?」

「さあ……結局、誰のためだったのかな」

「間違ってると思います。真由ちゃんのことを本気で考えていたのなら、生きてあげるべきだったと思います。川島さんから雫先生を護る方法はあったはずです」

「……そうかもしれないな。だが、雫にとってはあれしか答えがなかったんだ。雄一郎さんがこの世からいなくなったあと、川島との関係を断ち切る自信がなかったんだろう」

「どうして?」

「雫は川島誠司を愛していたからな」

「愛していた? そんな……」

「意外だったか? だが、それが事実なんだ。川島はロクな奴じゃなかった。それでも、高校生の頃は陸上部のエースで、順調にいけば陸上選手として一流になれたかもしれない。そんなあいつを雫は愛した。しかし、ある時、事故で選手生命を失った。雫はそれが自分のせいだと思い込んだ」

「何があったんですか?」

「ある日、川島が雫と口論して家を飛び出した。バイクに乗って出て行こうとする川島を雫が止めようとした。バイクの前に飛び出した雫を避けようとして川島はハンドル操作を誤ったんだ。そう大きなケガじゃなかったが、それでも川島の選手生命を奪うことになった。それ以来、川島は学校を辞め、雫に対しても暴力をふるうようになった。もちろん、雫が悪いわけじゃない。だが、それから雫の精神状態はおかしくなった。俺が雫を逃がし、雄一郎さんと知り合うまでそれは続いた。あの頃のことは、雫にとっても思い出したくないことだろう。川島誠司と再び出会った雫にとって、あの頃のことを思い出すに十分だったはずだ。しかも雄一郎さんの死が間近に迫っていることを知った雫にとって、川島との再会は許せないものだったに違いない」

 如月の話は尚子にとって衝撃的なものだった。初めて川島誠司を見た時、川島が左足を引きずっていたことを思い出した。

「先生はいつから雫先生の計画に関わっていたんですか?」

「最初からだよ」

 あっさりと如月は答えた。だが――

「それは嘘です」

 尚子はすぐに否定した。それだけは自信があった。

「どうして?」

「先生はあの装置を私の目につくところに置いていました。あの装置は雄一郎さんに頼まれて作ったものですよね。あれが事件に使われると知っていれば、誰の目にも触れないようにしていたはずです。それに雄一郎さんが亡くなった時の先生は、本気で驚いていました」

「まいったな」

 如月は小さく微笑んだ。「ナオにそこまでの観察眼があるとはな」

「ふざけないでください」

「ふざけてないよ。本当にそう思ってるんだ。確かにナオの言うとおりだ。雄一郎さんが死ぬまで、俺は雫の計画を知らなかった。だが、ある意味、計画には加わっていたんだ」

「どういうことですか?」

「最初は川島誠司を説得し、二度と姿を現さないように釘を刺すつもりだと聞かされていたんだ。もちろんそれをすべて信じていたわけじゃない。あの日、雫が何かをするつもりなんじゃないかと嫌な予感はしていたんだ。俺が行かなければそれを防ぐことが出来るんじゃないかとも考えた」

「だから、あの日、先生は遅れてきたんですね?」

「俺には雫を止めるだけの勇気がなかった。そして、あの日、死んだのは雄一郎さんだった。計画が狂ったのかとも思ったが、すぐにそれこそが雫の本当の計画なんだと悟ったよ。あの事件現場を目にすれば、その真の意味を俺が気づくと雫は考えたんだろう。ナオが雫から託された本を持ってきた時、それを確信したよ」

「やっぱりあの本にメッセージがあったんですね」

「ああ、点字のように文字のところに針で穴が刺してあった。それをつなげあわせることでメッセージになっていた。メッセージのなかに時間と場所が指定されいてた。あの夜、俺がその時間ちょうどに家に到着すると、すぐに雫が玄関を開けて外に出てきた。そして、すぐにあのナイフで自らの胸を刺した。あとは雫の願いをかなえてやることが俺に唯一出来ることだと思ったよ。封筒のなかには川島誠司が隠れているアパートの場所が書かれていた。それがどういう意味かはすぐにわかった」

「雫先生を止めることは出来なかったんですか? 如月先生なら何とかしてあげられなかったんですか?」

「違う。俺だからこそ止められなかった」

「どういう意味ですか?」

「川島誠司がケガをした事故のことだ。雫と川島が喧嘩したのは、川島が他の女と交際していると雫が勘違いしたからなんだ。その原因を作ったのが俺だ。雫が川島のことを愛してることを俺は嫉妬していた。だから、雫に匿名で嘘のメールを送ったんだ。そのせいで二人は喧嘩して川島は選手生命を奪われることになった」

「雫先生はそのことを知っていたんですか?」

「そのことについて話したことはない。だが、きっと知っていたんだろう。だからこそ俺に自分自身を殺す手伝いをさせたんだ。俺が拒否出来ないことを知っていたからこそだ。雫が携帯電話を持たなくなったのもそれからだ」

 そう言った如月の声に寂しさが滲んでいるように感じた。如月はどんな思いで雫が死を選ぶことを手伝ったのだろう。

 この事件のなか、誰よりも傷ついているのが如月ではないかと思えてくる。

 まさか雫はこうなることを見越して、如月が一人で苦しむことがないようにあえてあの写真を自分が目にするように仕組んだのではないだろうか。

 沈黙が続いた。

 尚子は大きく深呼吸してから口を開いた。

「これからどうするつもりですか?」

「どうもしないよ」

「自首は?」

「――まさか」如月は笑った。

「先生がやったことは立派な犯罪ですよ」

「わかっているさ。自殺幇助に……そして、殺人。けどね、今、ナオが話したのは単なる想像の産物だよ。もう物証は何もない。本も始末した。全てどうにでも言い訳は出来る。もし、ナオが警察に今の話をしたところで、俺はそれを否定するよ」

 口元は笑っているが、その瞳には強い光が見える。

「真由ちゃんのために?」

「いや、俺自身のためさ」

 その言葉に如月の意志の強さが感じられた。雫のため、そして真由のために如月は真実を葬り去ろうとしているのだ。

「でも、真実は――」

「真実が正しいものだとは限らない。ナオが警察に話したいというのであれば俺は止めるつもりはない。けどね、その結果何があるっていうんだ? そもそも法律とはなんだ? 法は正義ではない。ただのルールだ。弱い存在を守ることの出来ないルールなど俺は信頼しないし、従おうとも思わない」

 如月の言葉に尚子は言い返すことが出来なかった。


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