5-6
如月の顔が見たかった。
尚子の顔を見て、如月は一言『大変だったな』と言ってくれた。なぜか、その一言で心のなかから力が抜けていく気がした。
如月はすでにプロットは完成したらしく、資料を横に山積みにした状態でさかんにキーボードを叩いている。こういう時は声をかけないほうがいい。尚子は如月の邪魔をしないよう、ソファに座って黙ってその後姿を見つめた。
「真由ちゃんはどうしてる?」
ふいに如月はパソコンに顔を向けたまま訊いた。パソコンに向かっている時に如月が話し掛けてくるのは珍しい。やはり如月も事件のことが気になっているのだろう。
「今、うちにいます。雫先生の件でかなり疲れてるみたいです」
「そうか……ナオも疲れてるみたいだな」
「私は大丈夫です」
そうは言ってみたものの、実際にはかなりまいっているのかもしれない。だからこそ如月の顔を見たくなったのだろう。
「無理するなよ」
「ええ……編集長には事件が片付くまで休んでいいっていわれてますから」
「そっか」
「先生――」
「何?」
「先生はどう思いますか?」
黙っていることが出来ず、尚子は如月に訊いた。
「雫のことか?」
如月の指が止まった。だが、それはほんの一瞬のことですぐにまた猛スピードで動き始める。
「はい……やっぱり雄一郎さんを殺したのも……雫先生を殺したのも川島さんなんでしょうか?」
「さあ……」
如月は首を傾げた。
「ひょっとしたら雄一郎さんが川島さんを殺そうとしたんじゃないでしょうか?」
「なんだって?」
如月は驚いたように振り返った。「なぜ、そんなふうに思うんだ?」
「もともと川島さんに雄一郎さんを殺す動機なんてありません。雫先生は川島さんがお金の無心でやってきたと言ってました。それなのに雄一郎さんを殺すはずがありません。けれど、雄一郎さんはそんな川島さんを許せなかったんじゃないでしょうか。雫先生が川島さんのためにどんな思いをしてきたか雄一郎さんも知っていたはずです。それなのに今ごろになって雫先生の前に姿を現した川島さんを殺したいと思っても仕方ないと思います」
「けど人を殺すなんて、そんな簡単に思いつくものじゃない」
「でも、雄一郎さんは癌だったんですよ」
「え?」
如月は眉をひそめた。「どうしてそんなことを――」
「実は昨日、岬さんと会ったんです」
尚子は如月に岬から聞いたことを話してきかせた。
「そう……岬がそんなことを……」
話を聞いて如月はぼんやりと宙を見据えた。
「あと一年の命。それを知っていたために自分が生きている間に始末をつけよう。雄一郎さんはそう考えたんじゃないでしょうか。雄一郎さんは雫先生のことを心から愛していました。だからこそ、そう考えたんだと思います。けれど、そのつもりで川島さんを殺そうとして、逆に殺されてしまった」
「なるほどね。それじゃ雫はなぜ殺されたんだ?」
「それは……わかりません。ひょっとしたらお金目当てで家に忍び込んできたところを雫先生に見つかったのかも……」
「ふぅん」
尚子の推理に如月は肯定も否定もしなかった。
「間違ってるでしょうか?」
「さあ……俺にはわからないよ。俺はただのホラー作家だからね。ミステリーは専門外なんだ」
「そんな……私、べつに事件を楽しんでるつもりありませんよ」
如月の言葉に皮肉が篭っているような気がして尚子は言った。
「わかってるよ。けど、全ては警察に任せたほうがいい。日本の警察はミステリー小説に出てくるほど間抜けじゃない」
「そりゃ……そうですけど」
その時、バッグのなかの携帯電話が鳴りだした。
「――はい」
――桜木です。川島誠司が見つかりました。
「捕まえたんですか?」
――……いや、捕まえたとは言えないでしょうね。
「どうしてですか? まだ犯人としての証拠がないからですか?」
――そういう意味じゃありません。死人には手錠をかけられんのです。
「死人?」
桜木の言葉に尚子は息を飲んだ。
――今日、亀有にあるアパートの一室で川島誠司が死んでいるのが見つかったんです。
「殺されたんですか?」
――いえ、自殺だと思われます。浅井さんは川島誠司の顔を知っていますよね。
「は、はい」
――申し訳ありませんが、今から確認に来ていただけないでしょうか?
「私がですか?」
――我々じゃ川島誠司の顔はわからないんですよ。
「それじゃどうして死んでいるのが川島誠司だとわかったんです?」
――実は今日、川島誠司から警察に手紙が届いたんです。
「手紙? どんな?」
――えっと……それについても後で説明します。
「わ、わかりました」
尚子は桜木から場所を聞くと急いでメモに書き電話を切った。
「川島誠司が見つかったのか?」
如月が表情を強張らせて訊いた。
「ええ……私、今から行ってきます……あ……先生も行ってくれますか?」
尚子は恐る恐る聞いてみた。編集者として如月の仕事の邪魔をしてはいけないことは理解していたが、一人で行くのはさすがに心細かった。
「わかった」
意外にも如月はそう言うと立ち上がった。
尚子は如月とともに部屋を出ると、すぐにタクシーを捕まえ、桜木に言われた亀有のアパートへ向かった。
アパートは中川大橋の手前を狭い路地に入ったところにあった。築20年以上は過ぎているだろうと思うほど外壁は汚れている。パトカーがアパートの前に2台止められ、野次馬がそのまわりを遠巻きに取り囲んでいる。
尚子たちはタクシーを降りると、アパートのなかへと入っていった。階段を上がってすぐの部屋のドアが開かれ、その前に警察官が一人、通せんぼをするように立っている。警察官は階段を上がってきた尚子と如月に気づきジロリと睨んだ。
「あの……桜木刑事に言われてきたんですが――」
そう言うと、その声を聞いてなかから桜木が姿を現した。
「わざわざありがとうございます。あ、如月さんも来て頂いたんですね。助かります。すいませんね。どうぞ中に入ってください」
路地からは野次馬の奇異の視線が注がれている。尚子はその視線から逃れるように部屋のなかへと入っていった。
二人は桜木から手渡された白い手袋をはめた。
1DKの小さな部屋。
部屋にはほとんど荷物らしいものはなく、小さなテレビが部屋の隅に置かれているだけで、生活感はまったく感じられない。
その部屋の真ん中に青いシートが被せられている。
「では、さっそくですが――」
桜木はそう言って青いシートの脇にしゃがみこむと、シートの端を少しめくった。
恐る恐る覗き込むと、そこに川島誠司の歪んだ顔があった。その顔に尚子は思わず顔を背けた。
「どうですか?」
「間違いありません」
答えたのは如月だった。「雫の兄の川島誠司です」
その声は冷たかった。如月は顔になんの表情もみせずにじっとシートの下に横たわる川島誠司の姿を見つめている。
「そうですか」
桜木はシートを再び死体の上にかけて立ち上がった。
「あの……川島さんの手紙というのは?」
尚子は電話で言われていた手紙のことが気になっていた。
「これです」
桜木はスーツの内ポケットのなかから白い角封筒を取り出した。「今日、これが本庁のほうに届きました」
桜木はなかから手紙を取り出して、尚子たちに見せた。
中にはあまり綺麗とはいえない字で、北畠雄一郎、そして雫を殺したのが自分だということが簡単に書かれ、最後に『川島誠司』と署名がされている。
ほんの数行だけの手紙だった。
封筒の裏にはここのアパートの住所が書かれている。
「このアパートは?」
「高松秀雄という男の名前で事件の二日前に契約されています」
「高松? 誰ですか?」
「わかりません。ひょっとしたら川島誠司が偽名を使って契約したのかもしれません」
「何のために? はじめから事件を計画していたってことですか?」
「さあ……さっき不動産屋にも聞いてみましたが、帽子を深くかぶってサングラス姿。本人かどうかはっきりわからないというんです。なんともはっきりしません」
苦々しい口調で桜木は言った。
「この手紙。これは本当に川島誠司さんの字なんですか?」
「おそらく」
「なぜそんなことが言えるんです?」
「先日、雫さんが殺された時、部屋のなかから川島誠司からの手紙が見つかっています。その手紙の筆跡とこの手紙の筆跡はほぼ同じだと思われます。詳しい筆跡鑑定はこれからですけどね」
尚子の質問に桜木は答えた。
「雫先生の部屋から見つかった手紙っていうのはどんなものなんですか?」
「それはですね――」
川島は再びスーツの内ポケットに手を突っ込み、もう一通同じような白い角封筒を取り出して尚子に手渡した。
確かに同じような汚い字で、雫に金を要求するような文面が書かれている。如月もその手紙を覗き込んだ。
「まったく……どうしようもない男ですね」
と、如月はぼそりと言った。
「死因は?」
「青酸カリによるものです。死亡時刻は水曜の朝。瓶は流しの下に置かれていました。それと雄一郎氏や雫さんの血痕のついたジャンパーも天井裏に押し込められていましたよ。先生、どう思われます?」
桜木は如月の顔を見て訊いた。
「さあ……雫を殺した後、逃げる事は出来ないと考え、部屋に戻ってその手紙を書いてから自殺したんじゃないですか?」
「そうですね。ジャンパーのポケットには雫さんの家の合鍵まで入っていました。合鍵を使って忍び込もうとして雫さんに見つかり殺したのかもしれません」
「手紙が届くまで二日もかかったんですか?」
尚子が口を挟む。
「いえ、実際に署にこれが届いたのは昨日だったのですが、こちらの手違いで今日になって捜査本部に届いたんです」
「他殺の可能性はないんですか?」
「それがはっきりとは言えないんですけどね……部屋には鍵がかかっていたわけでもなければ、窓も開けっ放しでした」
「桜木さんは川島さんが雄一郎さんや雫先生を殺したと考えているんですか?」
「決め付けてるつもりはありません。ただ、どう考えてもそれしか答えはないんですよ。他に考えられることはありますか?」
「いえ……」
確かに川島誠司が二人を殺し、そして、自殺というのは一番自然な流れのように思える。
「終わりましたね」
ぽつりと如月が呟いた。