5-1
5
けたたましいアラーム音に尚子ははっとして目を覚ました。
急いで身体を起こしたものの、一瞬、頭がぼやけてそれが何の音か判断出来なかった。むしろ、真由のほうがそれに早く気づいて目覚まし時計に手を伸ばした。
「ああ……ごめん」
まだ身体のなかに薬が残っているような感じがする。真由もきっと同じなのかもしれない。ぼんやりと目の焦点が合っていないような視線で尚子を見る。ほんの数時間前までは寝る事など無理のように思えたのだが、今は目をあけていることが辛い。
「大丈夫?」
どこかピントのぼけたような質問かもしれない。
「……はい」
真由は小さく頷いた。
「沢登先生のお家に行かなきゃね」
「……はい」
とは言うものの、その目はまだ眠そうにはっきりと瞼が開かない状態が続いているようだ。それは尚子も同じだった。おそらくこのままの状態でいたら二人とも再び眠ってしまうかもしれない。
「コーヒーでもいれるわ」
そう言って尚子は立ち上がった。ちらりと横目で隣の部屋を見るが、やはり恭子は帰っていないようだ。ほんの少し不安が心を過ぎったが、もう恭子も大人なのだから心配することもないだろう、と不安を無理に消し去った。
キッチンに立ち、インスタントコーヒーをいれると部屋に戻った。真由はさっきと同じ姿勢で虚ろな目をしている。
「これ、飲んで」
「ありがとうございます」
真由はカップを受け取ると砂糖もクリームも入っていない苦いコーヒーをごくりと飲んで顔をしかめた。「苦い……」
だが、その一口で真由の眠気は少し消えてきたようだ。
尚子も黙ってコーヒーを飲んだ。コーヒーの苦味がぼやけた頭の芯をしっかりしたものに変えていく。だが、眠気が消えていくと同時に、昨夜のことがあらめて思い出されてくる。
それは真由も同じだったようだ。コーヒーカップを手に持ち、真由は胸のなかからこみあがってくる悲しみに堪えるように唇を噛み締めている。
「約束は1時だったわね」
その沈黙に耐えられず尚子は真由に声をかけた。
「……はい」
「それじゃ、そろそろ仕度して出かけましょうか」
「尚子さん、仕事は?」
「今日は休むわ。メールで会社には事情を伝えてあるから。一緒に沢登先生のところに行きましょう」
「すいません」
真由は小さく頭をさげた。
着替えて部屋を出る頃には11時半になっていた。二人ともそれほど食欲はなかったが、それでも駅前でファーストフード店に入り軽く食事を済ませてから、タクシーを拾い池袋にある沢登の事務所に向かった。
住所は以前もらった名刺に書かれていた。さらに簡単な地図を昨日のうちに沢登からメモに書いてもらっている。タクシーの後部座席で真由はぼんやりと外を眺めている。真由の気持ちを考えると胸が絞め付けられるような思いがしてくる。
その時、バッグのなかで携帯電話が鳴りはじめた。
――浅井、起きたか?
財部からだった。
「はい、メールは?」
――読んだ。大変だったな。
「今、真由ちゃんと一緒に沢登先生の事務所に向かっているところです」
――そうか。
財部は神妙な声で言った。
――おまえは事件が片付くまで彼女と一緒にいてやるといい。仕事のことは心配するな。俺たちが一時的に対応するからな。それと雫先生から預かってた原稿あったよな。時間のあるときで構わないから、時期を見て持ってこい。こんなことになってしまって予定通りに載せるわけにはいかないが、いずれ先生の遺作として発表することがあるだろう。
「わかりました。ありがとうございます」
財部の心遣いが嬉しかった。
電話を切ると、真由が心配そうな顔で尚子を見つめている。
「仕事……大丈夫だったんですか?」
「大丈夫よ。財部さんがしばらく仕事を休んでもいいって言ってくれたの。真由ちゃんと一緒にいなさいって」
「すいません」
小さく頭を下げる。
「いいのよ。気にしないで」
尚子は真由の手を握った。
途中、渋滞につかまり、沢登の事務所に着く頃にはちょうど午後1時近くになっていた。
沢登の事務所は池袋駅前にある5階建てのオフィスビルの3階にある。2階に歯科医、4階、5階には小さな輸入会社が入っているようだ。
エレベーターを降りると、目の前に『沢登弁護事務所』とドアに書かれているのが見えた。
尚子は真由を連れ、ドアを開けた。
受付の女性が顔をあげて立ち上がる。赤いフレームのついた眼鏡をかけ、まだ20代後半のようだが知性的な印象を受ける。
「あの――」
「浅井尚子さん? それじゃ、あなたが本条真由さんね」
女性は尚子の隣に立つ真由に視線を向けた。
「は、はい」
「話は聞いています。ちょっとお待ちください」
女性はそう言うと奥に向かって声をかけた。「先生! お客さんがお見えになりましたよー」
「はい」
奥から沢登直人の声が聞こえ、間もなく沢登が姿を現した。「昨夜は大変でしたね。どうぞこちらへ」
沢登は二人を奥の応接室へと招くと、二人を革張りのソファに座らせ、その前のガラステーブルの上に書類の束を置いた。
「眠れましたか?」
沢登はそう言って気遣うように二人の顔を交互に見た。
「少しだけ。それよりも昨夜、おっしゃってた話というのは何でしょうか?」
尚子は真由の代わりに沢登に訊いた。
「先生の遺言のことですよ」
「遺言?」
「実は先日、雫先生から依頼され遺言状を作成しました」
昨夜、沢登が桜木に怒鳴っていたことを思い出す。
「先日……というのは……」
「昨日も桜木刑事に言いましたが、先生は川島誠司さんから殺されるのではないかと怖れていたようです」
「それならなぜ警察に言わなかったんですか?」
「私もそれは言いました。けれど、先生は警察に頼るつもりはなかったようです。正直言って私もまさか本当にあんなことになるとは考えていなかったもので……」
沢登の言うのももっともかもしれない。
「それで遺言状というのは?」
「こちらになります」
沢登は封筒のなかから一通の用紙を取り出した。「簡単に内容を説明させていただきますと、雫先生の屋敷、財産の全てを本条真由さんに譲るというものです」
「ええ?!」
真由が驚いて声をあげた。
「驚かれるのも無理ありませんね。ただ、先生はご自分に何か事故があった時、本条さんの行く末のことが何よりも心配だったようです。雄一郎さんの死によってその遺産も先生は引き継ぐことになるので、それらを含めると病院、屋敷などの資産価値は10億は下回らないでしょう。それらは全て本条さんに遺産として渡される事になります」
「そんな……だめです。私、そんなの受け取れません」
真由は困惑した表情で言った。その姿を見て沢登は小さくため息をついた。
「ちょっと話をするのが早すぎましたかね……けれど、先生は本当にあなたのことを心配していたんです。先生の気持ちを考えた時、受け取ってあげるべきじゃないでしょうか」
「先生や雄一郎さんに他に親族の方はいらっしゃらないんですか?」
途惑う真由を見かねて、尚子が口を出した。「先生は遺言状があるとしても雄一郎さんの場合は――」
「実は雄一郎さんも遺言状を作ってあるんですよ。こちらには自分の遺産全てを雫先生に譲ると書いてあります」
沢登は書類の束からもう一通出して見せた。
「これ……先生の遺言状と日付が違うんですね」
見ると雫が遺言書を作る一週間前の日付になっている。
「ええ……雄一郎さんが遺言状を作ったのは川島誠司の件とは別です。もしもの時を考えた時、ふと遺言状を作っておきたいと考えられたようです。ただ、この時は雫先生には内緒にと言われました」
「お兄さんがお二人の前に姿を現した事とはまったく無関係ということですか」
「ええ……お兄さんがいつお二人に連絡を取ってきたのかは私も正確には聞いてはいませんが、少なくともあの時はそのような話は何もありませんでした」
「そうですか……」
「本条さん」
沢登は真由に顔を向けた。「今、答えを出す必要はありません。ただ、先生の気持ちをぜひ汲んであげてください」