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優しき殺人者  作者: けせらせら
3/41

1-3

 如月のところで蕎麦の出前を取ってもらって食事を済ませると、尚子はその足で杜野雫のもとへ向かった。

 杜野雫の自宅は王子の駅からすぐ傍のところにあった。

『杜野雫』というのはペンネームで本名を北畠亜希子という。6年前に精神科医の北畠雄一郎と結婚し、その雄一郎の薦めで小説を書き始めた、と聞いている。雄一郎は雫の12歳上の41歳で、とても穏やかな性格をしている。雫の執筆活動にも理解があり、その雄一郎の元で雫はのびのびと生活しているように見える。

 雫の生活は尚子にとって理想的なものに見えた。

『北畠サイコクリニック』と書かれた白い建物の脇に、一際目立つ大きな家が建っている。そこが3年前に建てた雫の家だ。

 3階建てで、地下室まで備わっている。

 1階には広いリビングとキッチン。東側にはサンルームがあり、そこにはいくつもの鉢植えが並べられている。地下には倉庫と大きな広間があり、そこにはビリヤード台が設置されている。

 さすがに金額を聞いたことはないが、1億を下ることはないだろう。いや、ひょっとしたら1億どころではないかもしれない。

(同じ作家とは思えないわね)

 ついつい如月の狭いマンションと比較してしまう。もちろんそれは雫のような人気作家だからであって、売れない新人作家などは新卒の会社員よりもずっと年収が低い。だが、如月の作品も最近では雫と肩を並べるほど売れてきているはずだ。如月もその気になればこのくらいの家を建てる事は可能ということだろうか。

 そんなことを考えながら、尚子はインターホンを押した。

――はい

 すぐにスピーカーから声が聞こえてくる。

「白亜出版の浅井です」

 すぐにドアが開き、若い家政婦の本条真由が姿を現した。フリルのついた白いブラウスに紺のフレアスカートと、シンプルな格好をしている。

「どうぞ」

 家に入ると適度に冷えた心地よい空気が身体をつつんでくれる。

「こんにちは。今日は暑いわね」

「ホント、いい天気ですね」

「いい天気すぎるわ」

「尚子さんは暑いの苦手ですか?」

「ええ……でも、寒いのも苦手。私は季節のなかで春が一番好き」

「私もです」

 真由は愛想良くにこやかに微笑んだ。この家を建てた当時は家政婦など一切雇っていなかったのだが、雫が仕事の傍ら家事をやることが大変になり、尚子が家政婦を雇うことを薦めたのだ。家政婦を雇うときには尚子も面接に立会い、そのなかで最も人当たりのよさそうな真由に決めた。まだ18歳の真由は家の事情で高校に行くことが出来ず、今は通信教育で勉強を続けている。特に美人タイプではなかったが、ほとんど化粧をしていないその笑顔はとてもかわいらしく、雫や雄一郎に可愛がられている。今時の女の子と違って肩まである綺麗な黒髪が印象的に見える。2年前からこの家に住み込みで働いており、1階の1番奥の部屋が真由の部屋になっていた。

「先生は2階にいる?」

「はい、尚子さんが来るのを待っていますよ」

 雫が家にいないことはほとんどない。滅多に出歩くことはなく、そのせいか携帯電話すら持っていないほどだ。

「雄一郎さんは病院?」

「はい」

 家は隣にある病院と繋がっており、雄一郎は休憩や食事の時は家に戻ってくる。そして、それ以外の時間、雫は2階の書斎で仕事をしている。

 尚子は軽い足取りで2階に向かった。

 家の壁紙は全て白で統一され、清潔で明るい雰囲気が漂っている。

 2階には雫の書斎と、雄一郎の書斎があり、その間にキッチンが備わった8畳程度の部屋がある。雫はそこを『喫茶室』と呼んでいる。

 尚子は階段を上がって右手に向かうと、雫の書斎のドアをノックして声をかけた。

「先生、浅井です」

「どうぞ、入って」

 中からの声に従い、尚子はドアを開けた。

 18畳ほどある広さの部屋の奥にある木目調のシステムデスクに向かう杜野雫の姿が見える。中央にはソファとシンプルな模様の大理石テーブルが置かれている。ソファは籠と背もたれ部分が籐で網目状に編まれ、その上にクッションが置かれたもので、雫のお気に入りの家具の一つだ。部屋の周りには大きな本棚が並べられ、あらゆるジャンルの専門書がびっちりと並べられている。

 どの部屋も防音設備が整っており、外の音はほとんど聞こえない。

「失礼します」

 尚子が入っていくと、雫はパソコンのキーボードを叩く指を休め振り返った。

「いらっしゃい」

 雫は背中まである髪をポニーテールに結び、バーバリーのワンピースを着込んでいる。とても29歳には見えない。尚子と同年と言っても誰も疑問に思わないだろう。いや、へたすると尚子よりも年下に見えるかもしれない。

「調子はいかがですか?」

 今、杜野雫には2ヵ月後に発売する別冊版に載せる書き下ろしの小説を依頼している。

「まあまあね」

「今日は取材のお仕事はないんですか?」

 小説の映画化によって雫への取材も多くなった。先日も尚子が訪ねてきた時、映画雑誌の記者が取材に訪れていた。

「今はなるべく断らせてもらうことにしてるの。もともとそういうのは苦手だから。いっそのこと全部断れば良かったって思ってるのよ」

 よほど取材に答えることに疲れたのか、雫は表情を曇らせた。

「トリックを考えてたんですか?」

 尚子は話題を変えた。雫の机の上にはパソコン以外にもさまざまな資料が載せられている。「これってこの家の設計図ですよね」

 尚子は机の隅に置かれた設計書らしきものを指差した。

「あ……そうよ。ちょっと参考にしようと思って」

「楽しみにしてますね」

「そんな他人事みたいに言わないでよ。あなたも編集者として協力してね」

 雫は笑顔を見せた。

「もちろんですよ。私、雫先生のミステリーのファンなんですから」

「ありがとう。最近は尚子さんみたいな人は珍しいわ。まあ、小説もいろんなジャンルが増えてきてるから」

「それでも私はミステリーが一番好きですよ」

「尚子さんは他のジャンルを読まなすぎるんじゃないの? 特にホラー小説を毛嫌いしてるって、この前、財部さんがおっしゃってたわよ」

「私、怖いのって苦手なんですよ」

「尚子さんらしいわね」

 雫は小さく笑った。

「あ……そういえば雫先生って如月先生とお知りあいだったんですか?」

「如月君? そうよ、高校の同級生なの――高校一年の時に如月君が京都から引っ越してきたのよ。どうしたの急に」

 雫はあっさりと言った。

「ここに来る前に如月先生のところに寄ってきたんですよ。そしたら雫先生の話になって――私、お二人が知り合いなんてぜんぜん知らなかったですよ」

「そうね……確かに尚子さんには話したことなかったかもね」

「お二人が高校の同級生なんて、なんか不思議ですね」

「どうして?」

「如月先生ってちょっと変わっているじゃないですか。なんか雫先生と知り合いっていうのがイメージに合わなくて」

「確かに如月君は普通の人とは違うからね。でも、彼、良い人よ」

「まあ……そうですけど」

 確かに如月が悪い人間とは感じたことはない。

「そもそも私がミステリーを書き始めたのは彼の影響なんだから」

「如月先生はホラーでしょ?」

「でも、昔は毎日のようにミステリーを読み漁っていたのよ。私も彼の薦めで何冊も読んだわ。それに毎日、新聞を読んでは殺人事件の記事を切り抜いたりして、私にそれをもとに推理してみせたりするのよ」

「如月先生にもそんな次期があったんですね」

 如月の意外な一面に尚子は驚いていた。どうやら高校の頃から今のように無愛想な人間というわけではないらしい。「それじゃどうしてミステリーを書かないんでしょう?」

「きっと彼はミステリーのパターンが見えすぎちゃったんじゃないかな。それに彼、完全主義者だから、本気でミステリーを書くつもりになると中途半端には出来ないんじゃない?」

「そんなふうには見えないんですけど……」

 完全主義者という言葉が如月には似つかわしくない気がした。

「でも彼の推理力や観察力は一流よ。へたな刑事よりよほど優れてると思うわ。実は私の小説のモデルは彼なのよ」

「そうだったんですか」

 そう言われてみると雫のシリーズ化されている人気小説に出てくる一風変わった探偵は如月と良く似ている気がする。雫の話を聞いていると、よほど如月のことを信頼しているように感じる。

「ところで尚子さん20日って空いてるかしら?」

 雫は突然、話を切り替えた。

「ええ、どうしたんです――あ、思い出した。雫先生の誕生日でしたね」

「そう。とうとう私も30代なの」

「見えませんよねえ」しみじみと尚子は言った。

「そう?」

 雫は嬉しそうにコロコロと声を震わせて笑った。こういう仕草をすると、より一層若く見える。「それでね、今年はちょっとしたパーティーを開こうと思っているの」

「誕生パーティーですか? 先生がパーティーなんて珍しいですね」

「ちょうど区切りの年ですからね。でも、パーティーっていってもそんな大げさなものじゃないのよ。お世話になってる人やお友達をお家に招いてちょっとお食事するだけなの。尚子さんも来てくれるかしら?」

「良いんですか?」

 尚子は目を輝かせた。

「もちろんよ。ぜひ出席してね」

 その時、尚子が入ってきたのとは違う喫茶室側のドアがノックされた。

「はい、どうぞ」雫が声をかけると、ドアが開き真由が姿を現した。

「お茶の支度が出来ました」

 ちらりと腕時計に目を向けるとちょうど3時になるところだ。

「ありがとう。今行くわ」

 雫は真由に答えると、机の引出しのなかから小さなケースを取り出した。ケースの中には緑色のカプセルが数粒入っている。いつも定期的に飲んでいる精神安定剤だということは尚子も以前に聞いて知っていた。もともと夫の雄一郎と知り合ったのも雫が患者として訪れたのがきっかけらしい。

「まだ飲んでるんですね」

「仕方ないの。これは私の持病みたいなものだから」

 そう言って雫はカプセルを一つ取り出した。

「やっぱり止められないんですか?」

「ええ……前に一度止めようと思った事もあるんだけど……そうするとなんか不安になっちゃうのよ。きっと一生止められないわね」

 雫は机の上に置かれた水差しからコップに水を注ぐと、カプセルを一粒口にいれ、渋い顔をして水で流し込んだ。

 雫は背伸びをして立ち上がった。「それじゃお茶にしましょう」

 尚子は雫のあとに続き、喫茶室に入っていった。

 喫茶室は雫の書斎と雄一郎の書斎の間にあるため両方の部屋に抜けるドアと、廊下に繋がるドアと、あわせて三つのドアがある。

 資料だらけの書斎とは一転して、喫茶室はいつも華やかな雰囲気に彩られていた。

 廊下に面した壁にはガラス戸の棚が置かれ、なかには洋酒やグラスが並べられている。中央に置かれた丸型の大理石テーブルは白とベージュの模様のなかにブルーの班がはいり、まるで結晶の花が咲いたように輝いている。部屋の隅にはシュロチクやゴールド・クレストといった観葉植物が置かれている。そして、窓際の棚には雫と雄一郎の二人が写ったポートレートが飾られている。

 その写真こそが雫にとって幸せの証のように思えた。

 ……が、この日、部屋に足を踏み入れてすぐに違和感を覚えた。

 尚子は廊下に面したドアの両脇に置かれた棚に視線を向けた。いつもとは置かれた棚が違っている。

 思わずその棚の前に足を進める。

 ドアから入った右手にある棚には、いつもならば雫の持つアンティークドールがいくつも並べられているのだが、今日はその棚には何も入っていない。そして、その向い側にはこの部屋には似つかないゴツい黒い棚のなかにいくつもの専門書がぎっしりと詰めこまれている。この喫茶室では仕事のことは忘れたいといって、こういう書籍は一切置かなかったはずだ。

「少し部屋を整理しようと思って」

 不思議そうに棚を眺める尚子の背後から雫が言った。

「模様替えですか?」

「ええ、ちょっと気分を変えてみようかと思って。さあ、こっちに」

 尚子は雫に促され、中央に置かれたテーブルへと近づいていった。

 テーブルの上にはシルバーのティーセットと三つのカップが置かれている。カップは雫のものと、尚子のもの。そして、もう一つが真由のものだ。雫は真由のことをことのほか可愛がり、真由のことを決してただの家政婦として扱おうとはしなかった。食事やお茶の時はいつも決まって自分の隣に真由を座らせる。真由の母は真由が小学生の時に通り魔に刺され亡くなり、それ以来、父と二人で暮らしてきたのだそうだ。その父も2年前に病死している。ここで働き始めたのもそういう事情があったためだ。雫もまた若い頃に両親を事故で失ったらしい。真由を可愛がるのは、真由に若い頃の自分を重ね合わせているからかもしれない。

 尚子はその椅子のひとつに腰を下ろした。すぐに真由が目の前のカップに紅茶を注ぎ、ハーブの良い香りが辺りに漂い始めた。

「真由ちゃん、勉強は進んでる?」

 雫は紅茶の香りを嗅ぎながら真由に声をかけた。

「ええ……」

 真由はふと視線を落とした。

「どうかしたの?」

 その様子に尚子は訊いた。

「先生が大検を受けるように言ってくれてるんです。でも――」

「大検? 真由ちゃん、大学に行くの?」

 真由は首を振った。

「そんなこと出来ません。そんな余裕もないし」

「お金のことだったら私が面倒みるわよ。そんなこと真由ちゃんが心配することじゃないのよ」

 雫が声をかけた。「真由ちゃんはもう私の家族なんだから」

「それは駄目です。今、ここに置いていただいていただいているだけでもありがたいんですから」

「そんなことないわよ。これから世の中で生きていくためには若いうちにいろいろ勉強しておいたほうがいいのよ」

 諭すように雫が言う。「ねえ、尚子さんもそう思うでしょ?」

「そうですねぇ……」

 確かに雫の言うことはもっとものことだ。社会のなかで働いていても一流大学を出ているかどうかでは大きく仕事も左右されるし、大学を出ているかどうかではさらに大きく運命は分かれるだろう。ただ、真由の気持ちもわからなくはない。親戚でもない雫に学費まで出してもらうのは気が引けるのだろう。

 尚子自身、大学へ通う学費は全てバイトで作り、ほとんど家からの仕送りには頼らなかった。

「真由ちゃんは勉強したいの?」

「そりゃ勉強はしたいです。でも、先生にこれ以上迷惑かけるわけにもいきません。それに――」

「何?」

「あ……いえ……」

 真由は俯いて言葉を濁した。

「この子は私よりも文才があると思うの」

 まるで実の親が子供を誉めるかのように、雫は脇から口を挟んだ。「真由ちゃんが作家になれば、きっと私よりも良い本が書けると思うのよ。今度、尚子さんも真由ちゃんの作品読んでくれる?」

「先生、やめてくださいよ。あれは先生がどうしてもっていうから書いてみただけで、あ人に読んでもらえるようなものじゃありませんよ」

 真由は顔を赤らめた。

「どうして? そりゃ、まだ文章は稚拙なとこもあるかもしれないけど、それはこれから勉強していけばいいのよ。尚子さん、私ね、作家の世界でも歌舞伎みたいに世襲制があってもいいんじゃないかと思うの。そうしたら私、真由ちゃんに『杜野雫』の名前を継いで欲しいわ」

「継ぐって言っても、先生まだ29歳ですよ。真由ちゃんが作家になるとしたら、先生のライバルですよ。それとも『もう引退する』なんて言い出すんじゃないでしょうね。それは許されませんよ」

「そう……ね。でも人生なんてあっという間だから」

 妙に寂しげに雫はつぶやいた。その表情に尚子はドキリとした。まさか本気で引退なんてことを考えているのだろうか。

「何言ってるんですか。先生は今からいーーっぱい作品を書いてくれなきゃ困りますよ。和製アガサ・クリスティなんですからね」

 その場を盛り上げるように尚子はわざと声をあげた。


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