4-10
真由が戻ってくると、二人でリビングのソファに座ってたわいのないことを話した。
二人ともあえて事件のことには触れようとはしなかった。
11時を過ぎ、シャワーを浴びて3階の寝室に上がっていく頃には尚子もすっかり酔いは冷めていた。
雫の寝室を覗いてみると、雫はぐっすりと眠っているようだった。
寝室には雫のベッドと雄一郎のベッドが並んで置かれ、少し離れた位置にソファが二つ置かれている。
二人は雫を起こさないように明かりもつけず、そっと部屋に大き目の毛布を持ち込み、それぞれソファの上に寝転がった。これまでも極稀に原稿が遅れるような時に、雫の書斎のソファで仮眠を取るようなことはあったが、こうした形で泊まるのは今夜が初めてだった。
「すいません」
と真由は小さな声で尚子に声をかけた。「本当は客間のほうでゆっくり休んでいただいたほうがいいんでしょうけど」
「大丈夫よ。それに私だってこうして女三人で寝るほうが楽しいわ……って言っても先生はもうぐっすり眠っちゃってるみたいだけど」
尚子はそう言って小さく笑ってみせた。
「やっぱり旦那さんがお亡くなりになって先生も寂しいんだと思います。昼間、尚子さんが泊まりにきてくれるって先生すごく喜んでいたんですよ」
「そう言ってもらうと嬉しいわ」
尚子は上半身を起こしてそっと雫のほうをうかがった。静かな寝息が聞こえてくる。
「あの……」
と真由が小さく声をかけた。
「何?」
「この前の話ですけど――」
「この前? あ……仕事のこと?」
「はい」
「あれはしばらく待ってくれない? 今、先生もこんな状態だし――」
今、真由が仕事を辞めたがっているなどと話したら、雫がどんなに落ち込むかわからない。
「いえ、違うんです」真由は慌てて言った。
「どういうこと?」
「しばらくはこのまま働かせていただこうって決めました。先生のために何が出来るかわからないけど、私がここにいることで少しでも先生の気が紛れるなら……」
「そう……良かった」
尚子はほっとした。真由が傍にいれば、雫も心が落ち着くかもしれない。「ありがとう」
「いえ――」
尚子は真由の顔を見た。
「あ……真由ちゃんの瞳ってほんの少し青く見えるわね」
窓から差し込むほのかな月の光を受け、真由の瞳が薄っすらと青く輝いて見えることに尚子は気づいた。
「ええ……母もそうだったんです。遺伝みたいなんですけど、母のほうが私よりももっと濃い青でしたよ。私の場合、明るい時はあまりよくわからなくて、暗いところのほうがはっきりとわかるみたいです」
「そういう瞳をしてる人って意外と多いのかな。如月先生も同じよ。先生のほうがもう少しはっきりしてるけど」
「ええ、そうですね。前にお会いした時に私も気がつきました」
真由は顔を輝かせた。
「如月先生ってこれまでもここに何度か来てるの?」
「はい、時々。優しい人ですよね」
真由はそう言って顔を俯かせた。その仕草はまるで如月に恋をしているように見える。
「如月先生のこと好きなの?」
「はい……あ、でも男の人としてっていうんじゃなくて……なんか如月先生といると安心するんです。なんかお母さんを思い出して」
「お母さん? お父さんじゃなくて?」
「変ですよね」
真由は小さく笑った。
その時だった。
0時ちょうどを知らせる時計の音が部屋のなかに12回響き渡った。尚子も真由も黙ってその音が鳴り止むのを待った。
やがて、その音が止まった瞬間、ぴたりと雫の寝息が止まり、雫が突然起き上がった。
「あ……起こしちゃいました?」
尚子が声をかけると、雫は人差し指を口に当てゆっくりと歩み寄ってきた。
「静かにして」
その声がやけに険しく感じる。
「どうかしました?」
「今、何か音が聞こえなかった?」
雫は声を潜めて訊いた。
「音?」
尚子は真由と顔を見合わせた。真由も何も聞こえなかったらしく、雫の言葉に不思議そうな顔をしている。
「下の部屋で音が聞こえたの」
「そんな――」
「私、見てくるわ」
雫はクローゼットを開けると、パジャマ姿の上にカーディガンを羽織り、小さな懐中電灯を持って部屋を出ようとした。
「ま、待ってください」
真由が慌てて引き止める。「私が行きます。先生はここにいてください」
だが、雫は引かなかった。
「だめよ。真由ちゃんに何かあったらどうするつもり?」
「だって――」
「それじゃ、私が行って来ますよ」
尚子はソファを降りると言った。だが、それも雫は首を振った。
「だめ。尚子さんはここで真由ちゃんと一緒にいてちょうだい」
「でも――」
「お願いだから、そうして欲しいの」
きっぱりと雫は言い放った。その言葉に雫の強い意志が込められているように感じられ、尚子も何も言えなくなった。雫はスリッパを履くと静かにドアを開け、「すぐ戻ってくるから」と言って暗闇の中、部屋を出て行った。
「玄関の鍵は閉めた?」
尚子が訊くと真由は大きく頷いた。
「いつも夕方と寝る前に鍵の確認はしています。ちゃんと鍵はかけました」
「それじゃ大丈夫よ。きっと先生、何か他の音を勘違いしたんだわ」
そう言ってソファに腰掛けた。だが、言葉とは裏腹に不安が心のなかに湧きあがってくる。
5分経っても雫は戻ってこない。真由の表情に次第に不安の色が浮かび上がってくる。
「先生、大丈夫でしょうか?」
「私、ちょっと様子見に行ってくる」
尚子は思い切って立ち上がった。
「じゃ、私も行きます」
真由も立ち上がる。尚子は真由の手を握ると寝室を出た。
そっと手を伸ばして廊下の明かりをつける。だが、そこに雫の姿は見えなかった。二人は慎重に人の気配を探りながら階段を降りていった。
書斎のドアはピッタリと閉められている。
そのまま、一階まで降りていった。
「先生……」
小さく呼んでみても反応がない。
ごくりと唾を飲み込むと、思い切って声を張り上げた。
「先生!」
だが、どこからも返事はない。
(どうしてしまったんだろう)
不安がどんどん大きくなっていく。先日の雄一郎の姿が頭をよぎる。
キッチンにもリビングにも雫の姿はない。まさか地下に降りていったんだろうか。
「あ!」
真由が小さく声を出した。
「どうしたの?」
「玄関の鍵が……」
その言葉に尚子は玄関にそっと近づいた。確かに玄関の鍵が開いている。
(誰か入ってきた? それとも雫先生が?)
そっとドアを開けて、外を覗いてみる。
暗い庭をじっと眺める。
その時、雲が流れ、月の光が庭を照らし出した。
その明かりの下に照らされたものを見て、尚子は息を飲んだ。
雫が門柱にもたれかかるように倒れている。
その雫の身体の下を生き物のように赤い血が流れている。
「せ……先生……」
声がかすれた。
「先生!」
真由が駆け寄った。その膝が血にぬれる。「先生! 先生!」
身体を揺らす。
「う……」
雫が小さく呻き声を発した。
(まだ生きてる)
尚子も雫のもとに膝をつくと、その身体を抱き起こした。ぬるりとした血の感触が手の中に広がった。
「先生、しっかりしてください」
「う……真由ちゃん……」
虚ろな視線で雫は真由の顔を見た。その瞬間、その表情にやわらかな笑顔が浮かんだように見えた。
「先生……どうして……どうして……」
真由はその雫の右手を握り締めた。
「ご……ごめん……ね」
雫の身体から力が失われていく。雫の瞳から輝きが失われていく。
「いや……せんせぇ……」
真由の涙に濡れた声が渇いた夜に吸い込まれていった。