4-6
翌朝、尚子は一本の電話で目を覚ました。
珍しく部屋の電話が鳴っている。仕事関係の人や友人は皆、携帯に電話することが多いので、最近は部屋の電話が鳴るようなことは滅多になかった。
「はい――」
ぼんやりとした頭で受話器を取る。
――もしもし
受話器の奥から聞こえてくる声に、尚子は驚いて顔をあげた。
義父、真一の声だった。
「はい……」
――尚子だね。
「ええ……あ……恭子に?」
――いや、そうじゃない。尚子に話があるんだ。
「私?」
――悪いんだが、恭子には内緒でちょっと会えないだろうか。
真一の声に混じって駅のアナウンスのようなものが聞こえる。ふと目覚し時計を見ると7時53分を示している。
いったいどこから電話をしているのだろう。
「それは大丈夫だけど……今どこにいるの? 今日、仕事じゃないの?」
尚子は隣の部屋に聞こえないように声を潜めた。
――東京駅にいる。仕事は休んだんだ。
真一の言葉に尚子は驚いた。真一は建設会社に勤めているが、何よりも勤勉さを大切にする男でこれまで仕事は一日も休んだことなどない、というのを唯一の自慢としていた。
「今朝、出てきたの?」
――ああ
「どうして?」
――ちょっとおまえと話がしたくてな。
わざわざそのためだけに東京に出てきたのだろうか。
「恭子のこと?」
――それもある。
「わかった、今から行く。駅に着いたら電話するから――携帯電話の番号教えてくれる?」
尚子は真一から携帯電話の番号を聞くと電話を切った。
恭子はまだ寝てるのだろうか。
尚子は恭子に気づかれないように黒のロングスカートにブラウス姿に着替えると部屋を出た。
義父の真一とはあまり話をしたことはない。子供の頃からどこか遠い存在のような気がしていた。真一も尚子の気持ちに気づいていたのだろう。真一もまた、尚子に対して話しかけてくることも少なかった。恭子のことを可愛がり、いつも真一の膝の上には恭子がいた。そんな真一が恭子ではなく、自分に対して話があると言ったことに驚いていた。
駅に着くとすぐに教えられていた番号に電話をかけた。真一は駅ビルの喫茶店で尚子を待っていた。
尚子が店に入っていくと、真一は窓際の奥でコーヒーを飲んでいた。まるで仕事で上京したかのように、グレーのスーツで身を包んでいる。上着のボタンをかけ、その生真面目な性格が現れている。
「元気だったか?」
尚子が座ると、真一は尚子の顔を見て言った。だが、その視線は微妙に尚子の目を見ないようにしているように感じる。
「ええ……話って? 恭子ならまだ寝てると思う」
「恭子から何か聞いてないか?」
尚子の様子を伺うように真一は訊いた。
「……それって離婚するって話?」
「ああ」
「どうして?」
「さあ」
表情を変えずに真一は答えた。
「さあってことないでしょ。恭子も言ってたわよ。理由を聞いても何も答えてくれないって。私にはともかく、恭子にはちゃんと答えてあげるべきじゃないの?」
「うん……ただ、何が理由ってことでもないんだよ。長い間、一緒に暮らしている間に少しずつズレが生じてきてね。今でもお母さんの事は好きだよ。結婚した事もこれまで一緒に暮らしてきた事も後悔はしていないんだ。それでもこれからのことを考えた時、離れて暮らしたほうがいいんじゃないかって思ったんだ」
「そんなの変じゃないの?」
「そうだね。尚子や恭子にはそう見えるのかもしれないな」
「ええ」
「でもね。それが今の正直な気持ちなんだ」
「これからどうするつもりなの?」
「お父さんとお母さんはこのまま別れる事になるだろう。細かいことは今、二人で話し合ってる。お母さんにはこれからの生活が困らないよう出来る限りのことはするつもりだ。尚子にもそれなりのことを――」
「私のことなんてどうでもいいわよ。恭子は? 恭子はどうなるの?」
「それは恭子しだいだ。私についてくるか、お母さんについてくるかは恭子が決める事だ」
「そんなの無責任じゃないの?」
「恭子ももう大人だ。自分で決めたほうがいい」
「恭子は一人で東京に来るかもしれないわよ」
「恭子にとってそれが一番良いと思うならそれでもいいだろう」
「何よ、それ。結局、子供のことなんてどうでもいいと思ってるんじゃないの」
「そうじゃないよ。それに私たち二人が離婚したところで恭子が私たちの娘であることは違いないと思っているよ。もちろん尚子だって同じだ」
真一は初めてまっすぐに尚子の目を見て言った。
「え……」
その言葉に尚子は戸惑った。「……どうしたの? 急に」
「私はずっと尚子のことが気になっていたんだ。実を言うと私は若い頃から子供が苦手でね。お母さんと結婚したとき、尚子にどう接していいかわからなかったんだ。そのせいか尚子も私にはなついてはくれなかった」
「それは――」
「けどね――私はずっと尚子のことを自分の娘と思ってきた。恭子も尚子も……二人とも私とお母さんの大切な娘なんだ。私とお母さんが別れたとしても、その気持ちは変わらない。そのことだけはわかっておいて欲しいんだ」
「でも……」
(私はお母さんの子供じゃない)
真一は知っているのだろうか。知らないはずがない。
「尚子が何を気にしているかは知っているよ」
まるで尚子の心のなかを見透かしたように真一は言った。
「え……」
「でもね、お母さんも尚子もずっと一つ屋根の下で暮らしてきたんだ。血の絆よりもずっと親子らしいとは思わないか?」
「お母さんは何て言ってるの?」
「何も。言葉が必要かな? お母さんの心のなかでは尚子は自分の子供と思っているはずだよ。尚子、思い出してごらん。答えはきっと尚子の心のなかにあるはずだ」
その意外な言葉に尚子は思わず下を向いた。