4-5
午後4時。
昨日のこともあり、如月のマンションを出るとそのまま自宅に戻った。
マンションのエントランスホールに足を踏み入れた時、ちょうどエレベータの扉が開き、一人の若者が出てくるところだった。尚子よりもずっと長身のその若者の顔を尚子はすれ違うときにちらりと見た。髪を金髪に染め、耳にはピアスが開けられている。
次の瞬間、尚子ははっとして振り返った。
(誰だったろう)
どこかでその若者を見たような記憶があった。尚子はぼんやりと去っていくジーンズにトレーナー姿のその長身の背中を眺めた。あの背中を以前、どこかで見たことがある。
(そうだ――)
その身体が視界から消えた瞬間、尚子は思い出した。
(福山君?)
それは恭子が高校の時に付き合っていた男の子だ。昨年、お盆休みに実家に帰っていた時に、バイクで恭子を送ってきたのを見たことがあった。
確か名前を福山博史と言ったはずだ。恭子の同級生でサッカー部のキャプテンをしていると聞いたことがある。
(なぜ、彼がこんなところに?)
答えはすぐに想像がついた。当然、恭子に会いに来たに決まっている。
エレベーターに乗りながら尚子はぼんやりと考えた。ひょっとしたら恭子が東京の大学に通いたいと言っているのは、東京に福山がいるからなのかもしれない。そして、昨夜、相談があるといっていたのも、それを話したかったからなのだろう。
その気持ちは尚子にもよくわかった。
尚子自身、高校を卒業するときに好きな同級生の進路が気になったことがある。
(どう話そうかな……)
そんなことを思いながらドアを開けた。
「ただいま」
尚子が声をかけると、部屋の襖が開いて恭子が顔を出した。
「おかえり。今日はずいぶん早かったのね」
その顔が妙に明るく見える。やはり福山に会っていたからなのかもしれない。ほんの少し部屋の中がタバコ臭い。尚子も恭子もタバコを吸う習慣はない。やはり福山が部屋に来ていたのは間違いないだろう。
「昨日のことがあったから」
「昨日? そういえば昨夜何かあったの?」
尚子は昨夜のことを恭子に話していなかったことを思い出した。すでに昨夜の事件はニュースとなって一部のテレビや新聞にも取り上げられている、とはいえ恭子も尚子がその事件に関わっているとは想像出来ないのかもしれない。
「うん……昨日、私が担当してる作家の旦那さんが亡くなったの」
「え?」
恭子は初めて聞いたというような顔をした。
「殺されたのよ。知らなかったの? ニュースにも出てると思うけど」
「ごめん……ぜんぜんテレビもつけなかったから。じゃ……大変だったんだね」
恭子は尚子を気遣うような目で見た。
「今日も警察に事情を聞かれたわ……ああ、ひょっとすると警察が訪ねてくるかもしれないけど……もし私がいないときは出なくても構わないから」
「うん、わかった」
「ねえ、恭子」
尚子はベッドの脇に座ると改めて恭子に声をかけた。
「なに?」
「福山君って恭子と付き合ってたわよね」
「え……」
恭子は表情を固くして、目をキョロキョロさせた。「ど、どうしたの急に?」
「さっき帰ってきた時、すれ違ったのよ。恭子に会いに来てたんでしょ?」
「……そう……」
観念したように俯く。「ごめんなさい」
「別に謝ることなんてないわよ。恭子が東京の大学に入りたいっていうのは福山君がいるからなの?」
「別にそれだけじゃないけど――」
恭子は顔をあげると眉をひそめた。
「誤解しないでね。別にそれを悪いことだなんて言うつもりはないから。でも、それならなおさらお父さんたちにちゃんと話すべきじゃないの? 恭子のことだから真面目に付き合ってるんでしょ」
「嫌よ」
恭子はムッとした口調になった。
「――嫌ってことないでしょ」
「どうしてあの人たちにそんなこと話さなきゃいけないのよ。あの人たちはあの人たちで好きに生きたらいいのよ」
「恭子……どうしたの?」
恭子は一瞬黙ったが、すぐにまっすぐに尚子の顔を見て口を開いた。
「お父さんたち離婚するって言ってるの」
「え? どうして?」
「知らない。聞いても答えてくれない。そんな人たちのこと気にして生きるなんて嫌よ。私は私で好きに生きるわ。お姉ちゃんみたいに、こっちでバイトすれば学費くらいなんとかなるわよ」
「あなた……それで家を飛び出してきたの?」
ただ福山が東京にいるというだけではなかったのだと尚子とは気づいた。
「もうあんな人たちと一緒に暮らしていたくないの!」
恭子はヒステリックに叫んだ。
「何、バカなこと言ってるのよ。自分の親でしょ」
その言葉に恭子はじっと尚子の顔を見た。
「……それどういう意味? なんか私だけの問題みたいな言い方するわね。お姉ちゃんには関係ないってこと?」
「それは――」
「お姉ちゃんは血が繋がってないから? だから私たち3人だけの問題だって言いたいの?」
「え……」尚子は言葉に詰まった。
「私が知らないと思ってたの? ずっと前にお母さんから聞いて知ってたわ。お姉ちゃんは自分一人が我慢してきたと思ってるみたいだけど、私だってずっと我慢してきたのよ!」
「……恭子」
ずっと恭子が知らないものだと思ってきただけに、その恭子の言葉は尚子にとって大きなショックだった。
「いつも自分だけが家族の一員じゃないような顔して! お姉ちゃんだって家族の一人でしょ!」
恭子はそう言うとぴしゃりと襖を閉めた。
尚子は言葉を失い、ぼんやりとその閉まった襖を見つめた。その向こうから恭子のすすり泣く声が微かに聞こえていた。




