4-3
「如月先生はどう思います?」
尚子は如月のマンションを訪れていた。
如月はソファに座る尚子に背を向け、パソコンに向かっている。
尚子は雫の様子を如月に伝えた。もちろん、相手が如月といえども雫が話してくれた、兄との関係についてはとても言うことは出来ない。
「どうって?」
「雫先生……やっぱ辛いでしょうね」
「だろうな」
「私に出来ることって何でしょう」
「何もないんじゃないか」
「……そんな言い方しなくたって――」
如月はくるりと振り返った。
「だったらどうして雫のところにいてやらないんだ? 俺のところに来てそんなこと言っていてもあいつのためになるはずないだろ」
「それは……そうですけど……でも、私だってどう接していいかわからないんです」
雫のことを考えただけで目頭が熱くなる。
「ごめん」
自分の口調の厳しさに気づき如月は謝った。「……はっきり言って俺たちにしてやれることなんて何もない。そっとしてあげたほうがいい」
「……そうですね」
「ところでおまえのところに警察は行ったか?」
「いえ……」
「すれ違ったのかもしれないな」
「先生のところには来たんですか?」
「いや、俺のところにはまだ来ていない。午前中に岬から電話があったんだけど、あいつのところに警察が昨日のことで改めて事情を訊きに行ったらしい。おそらくいずれ俺のところにも来るだろうし、おまえのところにも行くんじゃないか」
「やはり雫先生のお兄さんが犯人なんでしょうか?」
「さあ……どうかな」
如月はまるで興味がなさそうに言った。その如月の態度に尚子はどこか意外な気がした。
その時、玄関のチャイムが鳴った。「来たかな……」
「警察ですか?」
「――かもね」
そう言って如月が立ち上がる。
尚子は昨日以上にドキドキしていた。
すぐに如月は戻ってきた。予想した通り、その後ろから昨日現場を取り仕切っていた桜木が姿を現す。昨日と同じグレーのスーツ姿だ。
「えっと白亜出版の浅井尚子さんでしたね」
桜木が尚子の姿に気づいて声をかけた。
「はい――あの……それじゃ私はこれで……」
慌てて席を立とうとする尚子を桜木が制した。
「ちょうどいい。浅井さんもよろしければ一緒に昨日のことについてお話を聞かせていただけませんか?」
「……はぁ」
仕方なく尚子は再びソファに座りなおした。桜木はその正面に座り、如月は尚子の隣に腰を降ろす。
「昨夜は眠れました?」
桜木はちらりと如月と尚子の顔を見比べるように言った。
「ま、普通にね」
と如月が答える。「何かわかりましたか?」
「いえ、今のところこれといったことはまだ……昨日の今日ではとてもとても……」
桜木はそう言って頭を掻いた。
「川島さんの行方は?」
「それもまだわかりません。当然、行方は追ってますけどね。今はとにかくも昨日何があったのかを詳しく調べているところです。そこでお二人にも昨日のことで思い出したこととか気になったことを教えていただきたいんです」
桜木はポケットから手帳を取り出した。
「いいですよ……といっても昨日話した以上に何かお役に立てることがあるかどうかはわかりませんが」
「ではさっそくですが……浅井さん」
桜木に名前を呼ばれ、尚子は身体を硬くした。
「は、はい」
「昨日、あの家に行ったのは何時頃です?」
開いた手帳に目を通しながら桜木は訊いた。
「確か……3時ちょっと前だったと思います」
「誕生パーティーは6時からだとか?」
「ええ、でも何かお手伝いでも出来ればと思って早めにお伺いしたんです」
桜木の目に尚子は緊張しながら答えた。
「なるほど……それじゃずっとお手伝いを?」
「いえ……それが雫先生と真由ちゃん、それと入江さんの3人で大丈夫だからと言われて、それで先生の原稿読みをしてました」
「それはどこで?」
「先生の書斎です?」
「2階ですね。それじゃずっとそこに?」
「ええ、6時頃になってからリビングに降りて、それからはずっと下にいました」
「川島誠司さんが来たのは何時頃でしょう?」
「私がリビングに降りてまもなくだったと思います」
「もちろん浅井さんは川島さんと会うのは初めてだったんですね」
「え……それが……」
「会ったことがあるんですか?」
「会った……というよりも見かけたことがあるっていったほうがいいと思います」
「それはどこで?」
「先生の家の前で、お義兄さんが家の中を見ているところを見かけました。声をかけたら離れて行きました」
言っても良かったのだろうかと迷いながらも尚子は答えた。その様子を如月は横目で見ている。
「いつ頃ですか?」
桜木は目を輝かせ、尚子になおも訊いた。
「えっと……先々週の木曜日だったと思います」
「その時、どんな様子でした?」
「どんな様子って言われても……なんか家の中を覗こうとしていて……」
「危ない感じがしました?」
「ちょっと……」
「そうですか。ところで浅井さんは雄一郎氏とも親しかったんでしょうか?」
「雫先生のところにはよく出入りしてましたので、時々、お話することはありました」
「雄一郎氏はどんな人でした?」
「――といいますと?」
「気が短いほうだったですかね?」
「いえ、どちらかというと温和な人だったと思います」
「彼に関しては岬のほうが知ってるんじゃない?」
如月が口を挟む。
「岬? ああ、木村妙子さんですね」
じつは尚子は飛鳥岬の本名が木村妙子という名前だということを、昨日の事件の時に初めて知った。
「どうして岬さんが?」
如月の言葉に尚子が驚いた。
「木村さんは雄一郎さんの元婚約者ですからね」
桜木が答える。
「本当ですか?」
尚子は思わず声をあげた。だが、如月はそんな尚子を軽く笑った。
「早いですね。もう調べたんですか?」
「調べたわけじゃありませんよ。彼女のほうから話してくれたんです。如月さんは知ってらしたんですね」
「私と雄一郎さんももともとの知り合いですから」
「らしいですね。やはり雫さん関係で知り合われたんですか?」
「ええ」
尚子には二人が何を話しているのかわからなかった。
「ちょ……ちょっと待ってください。お二人は何を話してるんですか?」
たまりかねて尚子は割って入った。
「何って?」
「そもそも岬さんと雄一郎さんが婚約してたって本当なんですか?」
「本当だよ」
さらりと如月は答えた。「もう十年も前の話だよ。ナオは知らなかったんだっけ?」
「知りませんよ」
「ただの昔話みたいなもんだからなぁ」
「ただの昔話?」
桜木が聞き返した。
「ええ、昔話ですよ。まさか婚約破棄された恨みで今になって岬が雄一郎さんを殺したなんて思ってるわけじゃないでしょ?」
「さあ……我々は先入観なしで捜査することにしていますから。そのためにも過去にあったことも調べておきたいんですよ。雫さんと雄一郎さんはどのようにして知り合われたんですか?」
「岬のところで聞いてきたんじゃないんですか?」
桜木はにやりと笑った。
「一応はね……ただ、事実というのは常に藪の中。人によって事実というものは違っていますから」
「彼女と雄一郎さんが知りあったのは医者とクライアントとしての関係です。もともと雄一郎さんは腕の良い精神科医でしたからね。確か彼女が19歳の時です。地元の病院よりも離れたところのほうがいいと思ったので私が東京の病院を調べて、彼女を連れて行ったんです。その後、彼女は家を出て東京で暮らし始め、その治療のなかで雄一郎さんと愛し合うようになり結婚した。それだけですよ。どうです? 岬の言ってることと何か違っていますか?」
「なるほど。岬さんの言ってることと合ってますね」
「それで今のところ刑事さんの考えはどうなんです? 誰が雄一郎さんを殺したと思っているんです?」
「困りましたね」
桜木は苦笑いして頭を掻いた。「さっきも言ったようにまだ何もわかっちゃいないんですからね」
「つまりあの場にいた全員が容疑者ってことですか?」
「まあ、そう構えないでください。べつに皆さんのことを容疑者なんて思ってるわけじゃないんですから。ただ……可能性の問題ですよ」
「可能性?」
「あなたたちの話をまとめると、8時に雫さんが2階に上がっていった時にはまだ雄一郎氏は生きていることになる。そして、それはそのほんの少し前に様子を見に行った岬さんの話でもわかっています。その直後、10分もしないうちに大きな物音がして、雫さんと入江さんが2階に上がっていった時には川村誠司の姿は消え、雄一郎氏は殺されていた。つまりあなたち全員に犯行は不可能に見える」
「見える……とは?」
「パーティーの席上一階にいたのは8人。これは微妙な人数でしょ。二人や三人ならば、一人がいないだけでもすぐにわかる。だが、8人ならどうでしょうね? 一人がその場にいないからといってすぐに気づきますか?」
「誰かがこっそりと2階に上がり雄一郎さんを殺したと?」
「さあ……そういうことも考えられませんか?」
「その時、川島誠司さんはどうなるんです?」
「そう、それが問題ですね。ですが、考えられないことではないでしょう? どうです? 必ずあの場に8人全員がいたと言えますか?」
桜木はじっと二人の顔を見た。
あの時、すぐ隣にいた真由と如月が席を離れなかったことだけは確かだ。だが、他の人たちは?
「おそらく全員あの場にいたと思います。20人や30人なら把握出来ないでしょうが、8人くらいならなんとなくでも把握出来てるもんです。それに、そんな可能性だけで言えば、皆、容疑者になってしまいますよ。もし私たちのなかに犯人がいたとしたらその動機は?」
「動機ですか……動機などは無さそうにして意外にあるものですよ」
「それじゃ私も容疑者の一人なわけですか? 困りましたね。もし私がやったのだとしたらどうやって雄一郎さんを殺したんでしょう?」
「いえ、何も先生が殺したとは言っていませんよ。もちろん他の皆さんについても同じですよ。あんなふうに刺殺されていれば、犯人には必ず返り血がつくはずだ」
「警察が来たときには私と雫には雄一郎さんの血がついていましたけどね。それに返り血を浴びないようにする方法などいくらでもありますよ」
「確かにね。けど、あなたたちが犯人だとすればそれはその場にいた全員が共謀しなければ不可能です……犯人は川村誠司しかいない……ただ、それをはっきりするためにもその状況を把握しなきゃいけないんですよ。凶器も捜さなきゃいけません」
「まだ見つかっていないんですか?」
「ええ、まだです。傷口から見て鋭利な刃物で刺されたものと考えていますが……現場にはそれらしいものは見つかりませんでした。まさかあなたたちが隠したわけじゃないでしょう?」
冗談なのか本気なのか桜木はそう言って如月と尚子の顔を見た。
「まさか」
「じゃあ、やはり犯人が持ち出したと考えるべきなんでしょうね」
「さあ……家のなかは捜したんでしょう?」
「もちろん。家の外だってちゃんと捜しました……けど、見つかりません」
その姿は取り調べというよりも、まるで如月に桜木が相談しているように見える。「ところであの部屋ですが、なんか変な感じがしませんでしたか?」
「変な感じ? さあ……」
「浅井さんは?」
桜木が尚子のほうへ視線を向ける。
「わかりません。どういうことですか?」
「あの現場のこと覚えてますか? あの部屋、いろんなものが散らばってましたよね」
「争った後だからでしょう?」
「ええ。そう見えます。でも、なんかおかしいんですよ。確かにいろんなものが倒れ、散らばっていた。でも、そうでないものもあった」
「そうでないもの?」
「窓側にポートレートが置かれていました。その周りのグラスやガラス細工などは物の見事に落ちていたのにポートレートだけはそのまま残されていたんです。まるで誰かが意識的に残したように。あのポートレートはお二人の幸せの証。それを傷つけないようにしたかのように見える。もしそうだとしたら、ずいぶん優しい犯人だと思いませんか?」
桜木はそう言って如月たちの顔を見た。
「ただの偶然でしょう」
と如月が答える。
「偶然ですか?」
「それを知るためには、やはり川村さんを見つけるのが先でしょうね」
「川村さんですか。如月さんも川村さんが犯人だと思ってるわけですか?」
「その可能性が一番高いのでは?」
「可能性でいえば……ですね」
「どういう意味です?」
「昨夜、雫先生に確認したところ川村さんの靴は無くなっていました」
「それが?」
「如月さんは窓から逃げたとおっしゃってましたが、窓から逃げたとすれば、その後、わざわざ玄関に回って靴を履いていったことになります。殺人を犯して逃げようとする男がそんなことしますかね?」
「それならどうやって玄関から出たというんです?」
「それはわかりません。まあ、そうだとしたらまた別の問題も出るんですがね」
「別の問題?」
「事件が起きる前、岬さんが2階に行かれたでしょ。岬先生が言うには、その時はあの部屋の窓は開いていなかったんだそうです。つまり川村さんが窓から逃げた……ということにならないとすると、何のためにあの窓は開いていたのか……どう思われますか?」
「さあ、俺にはわかりませんね。やはり、あの夜、あの部屋で起きたことを知っているのは川村さんでしょう」
「確かに。そこで先生にお聞きしたいんですがね」
じろりと上目遣いに桜木は如月を見た。「杜野雫さんは本当に川村誠司さんの居場所を知らないんでしょうか?」
「彼女は知らないと言ってるんでしょう?」
「そうです」
「つまり彼女が嘘をついているんじゃないかと思っているんですね?」
「義理とはいえ幼い頃から一緒に育った兄妹なんでしょ?」
「兄妹だからといって心が通じているとは限らないんじゃないですか? それに彼女は十年前にお兄さんのところを飛び出したわけですから」
「お兄さんとの間に何があったんでしょう?」
「さあ……詳しいことは私も知りません。ただ、ずいぶん精神的に追い詰められていたみたいですよ。川村誠司は高校を中退してすぐに暴力団の構成員のようなことやってましたからね。両親が亡くなってからは、かなり辛い思いもしたようですよ」
尚子は雫の言葉を思い出した。
――兄妹から男と女の生活に……
その尚子の表情を桜木は見逃さなかった。
「何かご存知ですか?」
すかさず尚子に視線を向ける。
「……い、いえ……何も」
「そうですか……」
まだ桜木は尚子の表情を探っている。
「ついでに言うとね――」
如月が口を開く。「彼女の家出を手伝ったのは私ですよ」
「先生が?」
「彼女があまりに精神的に追い詰められているのを見かねて家を出ることを勧めたんです」
尚子は驚いて如月の顔を見た。如月は雫と兄の関係を知っているのだろうか。
「お兄さんはそのことを知っていたんでしょうか?」
「さあ、ひょっとしたら気づいていたかもしれませんね。ただ……そのことを知っていればかなり私のことも憎んでいるかも」
「なるほど。では、先生も気をつけたほうが良いかもしれませんね」
「そういえば桜木さん――」
と如月が桜木の顔を見た。「昨日、真由ちゃんのことを知ってるような素振りでしたけど……」
「ああ、本条さんですね。ご存知かどうかは知りませんが、彼女の母親は10年前に通り魔に刺殺されましてね。その時、私もその事件の捜査に加わっていたんです。彼女は覚えていないでしょうけどね。まさか彼女があそこで働いているとは思いませんでしたよ」
「まさか……ってどういう意味です?」
桜木の言葉に尚子が訊いた。
「あ……いや……」
しまった、という顔をして桜木は口ごもった。
「何かあるんです?」
桜木の態度にますます尚子は気になった。
「実は……あの事件には私も捜査員として加わってましてね。その捜査上、確か……杜野雫さんにも事情を訊いたことがあるんです」
「ええ?! 先生が事件に関わっていたんですか?」
あまりのことに尚子は声をあげた。
「いやいや、誤解しないでください。あの近所で起きた事件なので、それで事情を訊いただけですよ」
と、桜木は慌てて繕った。「結局、事件は物証も見つからず、私は犯人を見つけることが出来ないままに捜査を離れることになりました。今も一部の捜査員が捜査を続けてますが……私にとってもああいう未解決の事件があると心に重くひっかかるもんです」




