3-4
午後7時を過ぎ、すでにリビングのテーブルにはさまざまな料理が並び、皆、それを食べながらグラス片手に盛り上がっている。
テーブルを囲んで、杜野雫、北畠雄一郎、雫の兄の川島誠司、沢登、財部、谷口、飛鳥岬、入江加奈子、そして尚子が座っている。真由は一番端の席に座って様子を遠くから眺めている。
如月は遅れてくると、さっき雫のところに電話が入ったそうだ。
「先生、弁護士ってのは儲かるんでしょうねえ」
さっきから川島誠司は水割りを手にしながら、沢登にさかんに話し掛けている。沢登は困ったような表情をして、適当にあしらおうと努めているのがよくわかる。
北畠雄一郎がちらりと腕時計を眺めてからグラスを手に立ち上がった。
「それじゃ改めてご挨拶を――」
雄一郎はそう言って皆の顔を見回した。「皆さん、今日は妻のためにお集まりいただきありがとうございます」
雄一郎が頭を下げると、皆、雑談を止め拍手をした。
川島誠司は雄一郎が話し始めると、さすがに沢登に話し掛けるのを止め、ソファに深く持たれた。その顔はだいぶ酔いが回ってきたとみえ赤く染まっている。
「妻の亜希子……いや、皆さんには杜野雫といったほうがいいですね。皆さんの力に助けられ、一人前の作家として認められるほどになりました。私としても、とても喜ばしい限りです」
「まるで雄一郎さんの誕生パーティーのようですね」
谷口が笑って冗談を言う。
「いや、失礼。妻はあまり人前で話をするのが苦手ということで私が代わりに挨拶させていただきますよ」
谷口の冗談に雄一郎は真顔で答えた。
雄一郎はさらに続けた。
「私たちが一緒になってすでに6年です。私は彼女がいたからこそ、これまでやってこれました。そして、私も彼女も皆さんがいたからこそ、さまざまな苦難を乗り越えてこられました。彼女と出会ってからの6年はまさに最良の年月だったと思います」
その目には心なしか涙が浮かんでいるように見える。
「私は文学というものにはとんと疎い人間で、彼女が書いているものがどれほどのものかは判断出来ません。ですが、その書いている彼女の姿を見るたび……そして、それを書くこととを支えてくれている皆さんの姿を見るたびに、彼女がすばらしい人なのだと感じることが出来ます。本当に私は幸せだったと思います」
「ノロケになっちゃってますよ」
飛鳥岬が笑顔でからかう。
「そうですとも。こんな素晴らしい人と一緒になれたんだから少しくらいノロケないとね」
一同、雄一郎の言葉に笑った。
雄一郎は一度、皆が静まるのを待って、再び真顔になった。
「みなさん、本当に今日はありがとうございました」
雫がそっと雄一郎に近づき、その手を握り二人で頭をさげた。
その姿に尚子は胸を打たれるような思いがした。二人のその姿がやけに眩しく感じられた。
「いいなぁ」
谷口が拍手を送りながら声をあげた。「俺もそういう結婚したいですよ」
「お相手はいないんですか?」
飛鳥岬が谷口に声をかける。
岬は紺の水玉のワンピースを着ている。髪は腰まであるロングヘアーで、その姿は女学生のように見える。岬もまた実際の年齢よりもずっと若く見える。
「ぜんぜんですよ。毎日、原稿取りに走り回ってますからねえ。岬先生みたいな人がいいかな」
「ああ、だめだめ。私には『白虎』さまがいますから」
谷口の言葉を岬はさらりとかわす。『白虎』というのは飛鳥岬の書いている小説のメインキャラの一人だ。
「うわ……そりゃひどいですよ。『白虎』は岬先生の理想の詰まった男でしょ。それと俺とを比べないでくださいよ。世の中、そんな理想にピッタリくる男なんていませんよ」
谷口はすがるような言い方をした。
ちょうどその時、玄関のチャイムの鳴る音が聞こえ、真由がリビングを出て行く。如月がやってきたのかもしれない。
岬はなおも話しつづけている。
「別に私は理想主義者じゃないですよ。ちゃんと現実もわきまえてるつもりだし、それに小説のなかなんだから少しくらい夢ももたなきゃ」
「そうそう、岬先生もうちの雑誌に今度書いてくれませんか?」
財部も岬に声をかけた。
その時だった。
「なぁにが先生だよ」
奥のソファにふんぞり返るような格好で酒を飲んでいた川島誠司がぼそりと呟いた。「先生、先生って……しょせんはただの物書きだろが」
「なんですって?」
キッとした目で岬が誠司を睨んだ。「物書きの何が悪いっていうの?」
飛鳥岬の気の強さは尚子も噂で聞いている。
「悪いなんて言っちゃいねえよ。具にもならねえことを書いて金儲け出来るんだからご立派な商売だって言ってるだけさ。それを先生だなんて笑っちまう。先生なんて呼べるのは政治家や医者、弁護士くらいなもんさ」
「あなたね――」
「まあまあ」
谷口が慌てて岬を押さえにかかる。
それを見ていた雄一郎がそっと近づいてきた。
「お兄さん、上に行って飲みませんか?」
「ん? 別に俺ぁ、酒が飲めるならどこでもいいぜ」
「それじゃ、行きましょう。上にも酒はありますから。今後のこともいろいろお話しなきゃいけませんし」
その言葉に誠司はしょうがなさそうに立ち上がった。その様子を雫が離れたところから心配そうに見ている。
「――んじゃ上に行くか」
割と素直に誠司は立ち上がった。その足元が酔いでふらりとなるのを雄一郎が支える。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ」
「それじゃ行きましょうか」
「ん? サシで話すのか? 弁護士先生は?」
ちらりと沢登に視線を向ける。すぐに沢登も立ち上がろうとするのを雄一郎が手で制した。
「いえ、まずは二人でゆっくり話しましょう」
「ふん。ま、いいぜ」
誠司は軽く鼻を鳴らした。
雄一郎に軽く支えられた状態で誠司はゆっくりと歩きだしリビングを出ようとした。入れ替わりに如月がリビングの戸口に現れる。やはり如月もいつもとは違い、黒いスーツ姿だった。
「なんだい先生、今ごろやってきたのか? 俺ぁ、先に一杯やってたぜ」
誠司はにやついて、馴れ馴れしくぽんと如月の肩を叩いた。如月と雫とは高校の同級生なのだから誠司も如月のことは知っているのかもしれない。
「……そうですか」
「上でちょいとこれからのことサシで話してくるよ。先生は下で飲んでなよ」
誠司は如月に向ってニヤニヤと笑った。
「さあ、行きましょう」
誠司は雄一郎に支えられて二階に上がっていった。如月はその誠司の姿を表情も変えずに見送り、それからリビングに入ってきた。
「やあ」
「珍しいですね、如月先生がこういう場所に来るなんて」
谷口が声をかける。
「ああ、たまにはね――」
そう言いながら如月は雫に近づくと、紙袋を手渡した。
「これ、たいしたもんじゃないけど」
「先生、プレゼントですか?」
「ああ」
如月は答えながら尚子の隣に座った。
「さっきの雫先生のお兄さんですって――でも、先生は高校の同級生なんだからお兄さんのこと知ってるんですね?」
さっきの川島の態度を見てもそれは明らかだ。
「まあね」
「でも、なんか失礼しちゃうわよ」
岬はまだ怒ったような顔をしている。「作家をバカにしたような言い方して」
「まあまあ。世の中の人みんながみんな本を読むわけじゃないわけだし。それより岬先生、本当にうちに本書いてくれませんか?」
さかんに財部は飛鳥岬に執筆してもらおうとしている。そんな財部を横目で見ながら尚子は如月に声をかけた。
「如月先生、どうしてこんな遅くなったんです? もう7時半ですよ」
「俺だっていろいろ都合があるんだよ」
そう言いながら如月はソファに腰をおろした。
「デートだったんじゃないの?」
岬がからかうように声をかけた。
「バカ。違うよ」
「あれ? お二人は知り合いなんですか?」
如月と岬の二人のやりとりに尚子は訊いてみた。
「一応ね」岬が意味深に笑う。
「やっと皆さん揃いましたね」
雫が一同を見回す。「それじゃ今日の本当のパーティーをはじめましょうか」
「本当のパーティー? 何? 雫先生の誕生パーティーだけじゃないの?」
谷口が雫の顔を驚いて見上げた。
「ええ、もちろん私の誕生パーティーも含んでいるんですけど、もっと大切な事があるんですよ」
「なんですかいったい? もったいぶらないで教えてくださいよ」
「じつは――」
と、雫はみんなの顔を見回してからゆっくりとした口調で言った。「私、真由ちゃんを養女に迎えようと考えているんです」
皆、その話に驚きの声をあげた。そのなかでもっとも一番驚きの表情を見せたのは、当の本人である真由だった。
「先生! 何言ってるんですか? 私……困ります」
「あら? どういうことなの?」
岬が雫と真由の顔を見比べる。
「真由ちゃん、ごめんね。急にこんな話をみんなの前でしてしまって。でも、私、本当に真由ちゃんを養女に迎えたいの。今日、改めてお願いするわ。真由ちゃん、私の娘になってくれないかしら」
雫はまっすぐに真由の顔を見て言った。その言葉に真由は困惑したような表情になった。
「そんなこと言われても――」
「それじゃ真由ちゃんの答え次第でこれは親子誕生のパーティーに変わるわけですね」
岬が目を輝かせて言った。
「おいおい、そんなことこんな場所で決めさせることないだろ」
困った顔で俯く真由を見かねて如月が口を挟んだ。
「そうね。でも、本当に私が本気だってことはわかっていてね。正式な養女になるかどうかは別として、私はいつでも真由ちゃんのことを娘と思っているから」
「ありがとうございます」
真由はまだ困った表情をしていたが、それでも雫の言葉に軽く目を潤ませた。
「みなさんもそのつもりで接してくださいね」
「それじゃ、今日は二人にとっての一つの記念日ってことですね」
そう言ってから如月は少し離れたところで立っている真由に顔を向けた。「本条さん、もっとこっちにおいでよ」
「え? でも、私はここで……」
真由は驚いたように答えた。
「いいじゃないか。今、雫先生が言ったように今日は二人の記念日になるんだ」
「そうよ、今日は真由ちゃんもお客様よ」
雫が真由に近づきそっと肩に手を触れると、真由は戸惑いながら立ち上がった。
「さ、こっちにおいでよ」
如月はそう言って真由を自分と尚子の間に座らせると空いたグラスを持たせジュースを注いだ。普段の如月からは想像出来ない行動に尚子は驚き、そして可笑しくなった。
「なんか如月先生って今日、変ですね」
「何が?」
「だって、やることなすこと先生らしくない気がする。私が訪ねて行っても滅多に飲み物なんて出してくれたことないじゃないですか」
「そうか?」
如月は平然な顔をして目の前に置かれたピザに手を伸ばした。「おまえの場合、俺が出す前に自分で冷蔵庫開けてるじゃないか」
「そりゃ、そうですけど……」
間に座っている真由がそのやりとりを見て、口を押さえて笑っている。横から如月と真由が並んでいる姿を見ていると、どこか似合っているように思える。
(一回りも違うのになぁ)
ふと、先日、如月のところで見たファイルのことを思い出した。如月はいったいなぜあんな記事を集めていたのだろう。
なぜか微かな不安が胸を過ぎる。
「私、飲み物持ってきますね」
テーブルを見回し、雫がキッチンへと姿を消す。
「あのお兄さんってどういう人なんですか?」
雫の姿がリビングから見えなくなってから、尚子はそっと如月に訊いた。
「さあ……」如月は心のない返事をした。
「さあって……知ってるんでしょ?」
「俺だってそう詳しく知ってるわけじゃないよ」
「なんか怖い感じの人ですよね。真由ちゃんが前に言ってた男の人ってあの人のことなんでしょ?」
真由は小さく頷いた。
「先生のお兄さんだなんて知りませんでした」
「ひょっとして真由ちゃんも今日知ったの?」
「ええ……だからさっき来たときはびっくりしちゃって」
「先生が二十歳の時って言ってましたよね。――ってことは十年も会ってなかったわけでしょ」
「何? なんかの小説のネタ?」
谷口が尚子のほうへ顔を向けた。
「違いますよ。雫先生のお兄さんの話をしてたんです」
「ああ……さっきの人の話か」
谷口は興味なさそうに呟いた。「それよりさ。浅井さんってもともと作家志望なんでしょ?」
「どうして知ってるんですか?」
「財部さんから聞いたんだ。何度も財部さんのところに持ち込んだそうじゃないですか。もしよかったら今度うちに持ってきませんか? 出来が良ければうちから出版してもいいですよ」
「ホントですかぁ?」
「おいおい、期待持たせるようなこと言っちゃ駄目だよ。こいつは俺が今、編集者として鍛えてるところなんだから」
財部が横から口を挟む。
「余計なこと言わないでくださいよ。せっかく谷口さんが読んでくれるって言ってるんですからいいじゃないですか」
もちろん谷口の言葉はただの冗談に決まっている。今の自分にプロの作家として活動できるほどの力がないことは自分でもわかっている。「そういえば真由ちゃんも雫先生に言われて書いてるって言ってたわよね」
「え……はい」
突然、話題が自分のほうに振られたことに真由は目を丸くした。
「へえ、そりゃすごい。雫先生の指導を受けてるんですか? 今度読ませてくれないかな」
すぐに谷口がその話題に食いついた。誰彼構わず執筆依頼しようとするところは財部とよく似ている。いや、これがむしろ本当の編集者としての姿なのかもしれない。
「そんな……」
真由はまるでアルコールでも飲んでいるかのように顔を赤くした。その仕草は女の尚子から見てもとてもかわいらしく見えた。
そんな真由を如月は横で笑ってみている。その姿はまるで父親のようだ。
「冗談で言ってるんじゃないんだよ。才能があれば、若くても十分やっていけるんだから」
「あら、何の話?」
雫がワインを手に戻ってきた。
「真由ちゃんの話ですよ。先生の指導のもと、作家修行をしているそうじゃないですか」
「ううん。指導なんて全然よ。真由ちゃんには私よりも才能があるわ」
ソファに腰を降ろしながら雫は言った。
「ほぉ。そりゃすごい! こりゃぜひとも今から唾つけとかなきゃいけないな」
谷口の言葉に真由は居心地が悪そうに壁にかけられた時計に視線に目を向け、立ち上がろうとした。
「もう8時ですね。ケーキの用意をしないと……旦那さんたちの様子見てきます」
その真由の動きを制して岬が立ち上がった。
「それじゃ、私が見てきてあげるわよ」
「え、そんな――」
「いいからいいから。今日は真由ちゃんも主賓の一人でしょ」
軽く笑って岬が軽い足取りでリビングをあとにした。
「おい、浅井――」
岬がいなくなると財部が声をかけてきた。「おまえからも岬先生にお願いしろよ」
「財部さん、こんな席でそんな営業しなくったって」
「おまえな、そんなこと言ってたら編集者なんて勤まらないんだよ。常に良い本を世に出すことを考えなきゃいけないんだぞ」
「そう、その通り」
谷口が笑って言う。「うちなんて雫先生の連載が終わってしまって、今、どうするか悩んでるんですから」
「え? 雫先生、次回作の予定は?」
「ちょっと休みたいって言われちゃって」
谷口は愚痴るような言い方をした。「しばらくは新人の短編で繋ぐしかないですよ」
「ごめんなさいね」
雫は谷口に向かってニッコリと微笑んだ。
「やっぱ有望な新人を見つけるのが生き残る鍵ですからねえ」
財部が正面で静かに飲んでいる沢登に目をつける。「弁護士っていうのもいろいろ裏話が多そうですね」
「え?」
突然、声をかけられ沢登は面食らったような顔をした。
「職業小説って言うんですけどね。プロの作家のなかには多いんですよ。元医者、元検事って肩書きで、その特殊な裏事情をもとにした小説っていうのが。沢登先生もどうですか? 弁護士ならではの裏話というのがあるでしょう」
「ええ、まあ――」
「一度、書いてみるつもりありませんか?」
「いやあ、私なんて文才はありませんから」
沢登は額の部分を赤くして、ポケットからハンカチを出して汗を拭った。
その時、岬が戻ってきた。
「雫ちゃん、だめだよあの二人。お兄さんなんてグデングデンに酔っ払っちゃって、もうわけわかんなくなってる感じ。あれは絶対、酒に飲まれるタイプだね」
岬の言葉を聞いて、雫が表情を硬くした。
「大丈夫かしら」
「放っておけばいいよ。雄一郎さんなら大丈夫だろうし」
「うん……でも昔、兄は酔っ払うと暴れる癖があったんです」
「え……んじゃ心配ね……もう一回見てこようか?」
「じゃ、私が――」
真由が再び立ち上がる。
「いいわ……私、一度、雄一郎さんの様子を見てくるから」
雫はそう言うと立ち上がり、真由を制してスタスタとリビングを出て行った。
「じゃ、それまで座ってなよ」
如月が立ち上がりかけた真由の手を握り、再びソファに座りなおさせる。
「そんな若い女の子の手、触ったりしちゃセクハラになりますよ」
そんな如月の行動をちらりと見て岬が声をかけた。
「セクハラ? セクハラの基準なんて個人個人の感情で違うじゃないか。そんなこと考えていたら人付き合いなんて出来やしない」
如月が言い返す。如月の口から『人付き合い』などという言葉が出てきたことに尚子は可笑しくなった。
「へー、如月先生ってそういう考え方するタイプなんですね。てっきり私はもっと革新的な考え方する人だと思ってましたよ」
「革新的? そういうの革新的っていうの? そもそも手を触るってことは男と女というよりも人と人との間のコミュニケーションだよ。あの人はいいけど、この人はだめ……なんていうのは個人的な感情の表れだ。はっきり言ってあまりに『セクハラ』という言葉を安易に使いすぎてるんじゃない?」
「でも、如月先生は真由ちゃんを隣に座らせているけど、真由ちゃんがそれを良く思ってなかったとしてもそれはセクハラじゃないっていうんですか?」
岬は食って掛かるような言い方をした。岬はもともとこの手の議論が好きで、よくテレビ番組にも出演しては同じような議論を繰り広げている。
「それじゃ逆にここにいるのが真由ちゃんじゃなかったら? 女の子じゃなければ、俺の隣にいることが嫌でもセクハラにならないんだろ? 今の時代に、男だとか女だとか言っていることのほうが保守的じゃないか」
「違います。現実問題として今でも世の中には男女差別なんてものは山ほどです。この世の中どこもかしこも男社会なんです。如月先生は男だからそれに気づかないんですよ」
岬は熱く語った。だが、その岬に反して如月の表情は涼しい。
「それは認めるよ。ただ、それを議論する時には『差別』と『区別』をちゃんと分けてほしいもんだな。全てにおいて『差別』だという人がいるけど、そんな主張を聞いていると、あまりにも自己中心的な主張にしか聞こえない」
「私はそんなものをごっちゃにしていませんよ」
「君がそうだと言ってるわけじゃないよ。ただ、よくそういう主張をする女性には、そういう主張をするだけで世の中が自分のために動いてくれると勘違いしている人がいるってことだよ。本当の男女平等の世界を作るためには、男性も女性もいろいろ失わなきゃいけないことがあるはずなんだ。俺はそんな無機質な世界を望んでいないけどね」
「男女平等が無機質な世界ですか?」
「そもそも男と女の2種類だけで議論するのも無機質な議論じゃないか。男の考え方、女の考え方。世の中に二つの考え方だけがあるわけじゃない。十人十色。皆、それぞれ違う考え方を持ってるんだ。その考え方があるからこそ、この世の中は成り立っているんじゃないか」
「それは議論のすり替えですよ」
「違うよ。君には君の考えがあるし、俺には俺の考え方がある。君にとって手を握られるのがセクハラというなら、それもいいだろう。けど、それは俺と君の間で成り立つルールだろ? 君と恋人の間なら別のルールがある。それだけ曖昧なものだってことだよ。君だって青山君に手を握られてセクハラと騒ぎはしないだろう?」
青山信一郎というのは最近、売れ始めた映画評論家だ。如月の突然出たその名前に、皆、驚いた。
「な……なんで青山さんのことを――」
岬はさっきまでの表情ががらりと変わり、頬を真っ赤に染めた。動揺してるのがはっきりとわかる。
「ひょっとして岬さんって青山さんと付き合ってるんですか?」
尚子も驚いて如月の顔を見た。如月はその口に軽く笑みを浮かべて、岬の表情の変化を楽しんでいる。
「べ、別に付き合ってるっていうわけじゃないわ。なんで急に彼の名前なんて出すんですか。如月さん、卑怯でしょ!」
岬は怒ったように言った。
「君のそういう顔を見てみたかったからさ」
如月は岬の抗議にも、平然と笑っている。「君もやっぱり女なんだなぁ」
「うるさいわね!」
岬は顔を真っ赤にして言った。
「如月君、岬さんのこと、そんな苛めちゃだめですよ」
いつの間に戻ってきたのか、雫が大きなケーキを抱えている。
「あ、先生、すいません」
慌てて真由が立ち上がり、その手からケーキを受け取るとテーブルの上に置いた。そして、すぐにケーキの上に小さな蝋燭を並べ始める。
「なんかこうして雫先生が料理からケーキまで準備されていると、まるで他の人の誕生日みたいだな」
財部がその様子を眺めながら笑った。
「雄一郎さんたちは?」と尚子が訊く。
「上で飲んでるほうがいいみたい」
「大丈夫でした?」
「ええ……今は機嫌良く飲んでたからきっと大丈夫だと思う」
雫は微笑みながら真由が蝋燭を立て終わるのを待った。すぐに真由はケーキの上に蝋燭をたておわった。その真由の動作を見ていた如月が部屋の入り口に立ち部屋の電気を消す。ケーキの上の蝋燭がぼんやりとそこに立つ雫を照らし出す。
「30本かぁ」
そう言って雫は小さな炎が揺れる蝋燭を見つめてほっと小さくため息をついた。
「さあ、先生。一息に」
谷口の言葉に応えるように、雫はにっこりと笑うと口をすぼめてふぅっと蝋燭を吹き消していく。30本あった蝋燭の炎は一息目で16本減り、二息目で10本が減り……そして、最後に全ての炎が消えた。
パチパチと一斉に拍手が起こり、再び如月が部屋の明かりを灯した。
その時だった。
ガッシャーン! というガラスの割れる音が2階で響き渡る。
「なんだ?」
皆、一瞬、上を見上げた。
「私……見てきます」
加奈子が立ち上がると、すぐに雫も立ち上がった。
「私も行くわ」
そう言って、二人はリビングを出て行った。
「いったいどうしたんでしょうね」
「グラスでも落としただけじゃないか……」
尚子が呟くと財部が言った。
「でも、それだけであんな大きい音は出ませんよ。もっと何か――」
その瞬間――
「雄一郎さん! 開けて!」
雫の声と、ドアをノックする音が聞こえてくる。
その声のなかにただならぬ緊張感があった。
皆、一斉に立ち上がった。
如月がそのすぐに部屋を出て、尚子たちも慌ててその姿を追いかける。
階段を駆け上がりながら、嫌な予感がふつふつと湧き上がってくる。
2階にあがるとすぐに喫茶室の前でドアを叩く雫の姿が見えた。その傍で加奈子が不安そうな表情で立っている。
「どうした?」
如月が声をかけると、雫が視線を向けた。
「返事が無いの。ドアに鍵がかけられてるみたい。私、鍵を取ってくるわ」
雫はそう答えて、すぐに駆け足で寝室のある3階へとあがっていく。
入れ替わるように如月が部屋の前に立ち、ドアノブを握る。その表情が怪訝なものに変った。
「鍵がかかってるわけじゃないな」
そう言って如月はぐっと腕に力をこめた。そして、体をドアに押し当てる。何度も肩からドアに体を当てる。
すると少しずつそのドアに隙間が出来、ドアが奥へと開いていく。
一度、如月がその動きを止め、中の様子をうかがった。
その表情がさらに固くなる。
「先生、どうしたんですか?」
だが、如月は答えなかった。そして、再びドアに体をぶつけはじめる。
「鍵、持ってきたわ」
わずかに息を切らせ、慌てたように雫が戻ってきた。
「必要ない。ドアの向こうに何かが引っかかってるだけだ」
そう言って強く体をぶつけた時、やっと入っていけるだけの隙間が開いた。
尚子のいる場所からも部屋のなかの様子がうかがうことが出来た。
部屋の奥に倒れている男の姿が見える。
「雄一郎さん!」
雫は如月の身体を押し退けると中に飛び込んでいった。如月はさらにドアを押し込んでさらに大きく開くと、すぐに如月もその後を追って部屋へと入っていく。
開いたドアの隙間から中の様子が見える。
部屋の手前に一つの棚が倒れ、ドアが完全に開くのを邪魔しているようだ。元の状態を保っているのはドアの左手にあるあの黒い本棚だけだ。部屋の大理石テーブルは倒れ、書類や本が床に散ばっている。そして、壁に置かれたキャビネットの分厚いガラスが割れ、そのガラスの上に雄一郎の身体が倒れているのが見える。うつ伏せになり、その身体の下からは夥しい血が流れ出て床を濡らしている。
「雄一郎さん!」
雫がその雄一郎の身体を抱きかかえている。その胸が真っ赤に染まっているのが離れたところからでもはっきりとわかる。
最後に階段を上がってきた沢登がその部屋の光景に思わず口を押えて目を背けた。
「雄一郎さん!」
雫が雄一郎の身体を揺する。
だが、雄一郎がその呼びかけに反応することはなかった。雫が雄一郎の身体を揺するたびに、その身体が力なく動くだけだ。
「いやぁ……」
岬の声が背後に聞こえた。振り返ると岬がその場に力なく蹲る。その顔は蒼白で目から涙が溢れている。
如月がゆっくりと部屋に入り、倒れた雄一郎に近づいていった。血に染まったガラスの破片が如月の足に踏まれてパキリと割れる音がした。
その姿を尚子はぼんやりと見つめた。
部屋の奥に雫と雄一郎の二人が写ったポートレートが置かれているのが見えた。これまで幸せのシンボルのように見えたそのポートレートの存在が逆に寂しく見えた。
「財部さん、岬さんを下に連れて行ってあげてください。それと、ナオ! 警察を呼べ!」
その如月の声に尚子はハッとして我に返った。