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ふと顔をあげるとすっかり部屋が薄暗くなっていることに気づき、尚子は思わず腕時計に視線を向けた。
ちょうど午後6時になろうとしているところだった。
雫の原稿を読んでいるうちにすっかりその世界にのめり込んでしまっていた。慌てて書いた、というようなことを雫は言っていたが、その出来は十分良く出来ている。まだ、半分も読んではいなかったが、尚子は原稿をテーブルに置いて慌てて一階のリビングへと降りていった。
「いらっしゃい」
病院の仕事が終わったらしく雄一郎がソファに座っている。その向かいには財部がグラスを片手にくつろいでいる。早くも二人で飲み始めていたらしく、すでにテーブルの上には空になったビール瓶が置かれている。二人の前には灰皿が置かれ、灰皿にはタバコの吸殻が山になっている。雄一郎などは先日まで禁煙していたはずが、今ではすっかりと、まるでタバコをいとおしむかのようにじっくりと紫煙を吸い込み、すうっと鼻から吐き出している。
「お邪魔してます」尚子は雄一郎に軽く頭をさげた。
「なんだ、おまえも来てたのか。どこにいたんだ?」
ダブルのスーツを着こんで、財部もいつもとは雰囲気が違って見える。
「先生の書斎で原稿を読ませてもらってました」
「原稿? 来月締め切りのやつか。どこまで出来てた?」
原稿と聞いて、財部の目が輝く。
「もうほとんど完成してるみたいです。今、途中まで読んでたところです」
「そりゃ早いな。デキはどうだ?」
「バッチリです」
その時、玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。「お客さんですね」
「きっと誕生パーティーの出席者だろ」
真由が廊下を早足で玄関に歩いていくのが見える。だが、すぐに真由は慌てたような顔で再びキッチンに向かって戻っていく。
「どうしたのかしら?」
不思議に思い、尚子はそっとリビングから出ると玄関の様子をうかがった。
一人の男がぼんやりと玄関に立っている。
その姿に尚子ははっとした。
先日、この家のなかをうかがっていた男だ。この前とまったく同じように黒いズボンに黒いジャンパーを着込んでいる。
(どうしてあの男が?)
その時、慌てたように雫がキッチンから姿を現した。
「……お兄さん」
その言葉に尚子はなおも驚いた。
(お兄さん?)
「よお」
男は雫の姿を見て、軽く右手をあげた。
尚子の背後から雄一郎がゆっくりと前に進み出た。
「どうぞあがってください」
「やあ、先生」
男は靴を乱暴に脱ぐとスリッパを履いた。そして、雄一郎に案内されながら尚子や財部の脇を通ってリビングへと入っていった。尚子の脇を通る瞬間、じろりと男は尚子を睨むように顔を向けた。その姿を険しい視線で雫が眺めている。男の姿がリビングに消えると尚子はすぐに雫に声をかけた。
「先生……あの人……『お兄さん』って……」
「ええ、あれは私の兄なの」
小さな声で雫は答えた。
「お兄さんがいらしたんですか? 前に一人っ子だったって聞いたと思いますけど」
「義理の兄なの。私、二十歳の時に家を飛び出して、それっきりまったく連絡を取っていなかったから……」
「そうだったんですか」
「つい昨日になって連絡が入ったの。びっくりさせてごめんなさいね」
「いえ、そんな……」
その時、再びチャイムが鳴った。
「はい――」
すぐに真由が玄関口にあるインターホンの受話器を取る。
――谷口です
谷口博正の声が聞こえてきた。
真由がドアを開けると、手に一杯のバラの花を抱えた谷口が現れた。
「先生、誕生日おめでとうございます!」