2-5
「浅井!」
財部の怒鳴り声にはっと顔をあげると、財部が真横に立って睨んでいるが見えた。まるで仁王像のようだ。
「……は、はい!」
「何、寝てんだよ」
財部は尚子の頭を小突いた。
「え? 寝てました? はは……すいません」
尚子は思わず苦笑いした。昨夜は結局、恭子のお喋りに付き合わされてほとんど眠れなかった。今ごろ、恭子は尚子のベッドを占領してぐっすりと眠っていることだろう。
「笑ってごまかすなよ。ちゃんと仕事しろよ」
「わかってますよ」
尚子は目を擦りながら答えた。
「雫先生、どうしてる?」
「どうって……? 昨日、行ってみましたけど順調に進んでるみたいですよ」
「おまえは先生に恵まれてるなぁ。如月先生以外はほとんど締め切り前にきっちりあげてくれる人ばかりだからな。おまえの場合、編集者というよりもお使い番だよな。もう一人くらい担当してみるか?」
「え……そんなにいっぱい無理ですよ。それともこっちのノルマ外してくれます?」
今日もまた新人発掘のための原稿読みを続けている。
「だめに決まってるだろ」
「やっぱり」
尚子は財部に気づかれないように小さくため息をついた。今読んでいるのも陳腐で矛盾だらけなSF物だ。
「今度、雫先生のところにはいつ行くんだ?」
「明日、行こうかと思ってますけど……何か?」
「うん、来週の雫先生の誕生パーティーがあるだろ。招待状に返事出さなきゃいけないんで、おまえに持っていってもらおうかと思ってな」
「編集長も出席するんですか?」
尚子は眉をひそめた。
「なんでそんな嫌な顔するんだ?」
「いえ、そんなことありませんよ」
慌てて手を振った。
「んじゃ、これ雫先生に渡してくれ」
財部は尚子に封筒を手渡すと席に戻っていった。
「珍しいわね。雫先生が誕生パーティーだなんて」
隣で原稿を読んでいた房子が顔を尚子に向けた。
「うん。区切りの年だからって言ってた」
「区切りの年ねえ。やっぱり30になると何か気持ちって変わるものなのかな」
「さあ……私は20歳になったときも何も感じなかったですけどね」
「そうよね。20歳の時ってまだ学生だったから、別に何の変化もなかったし……やっぱ大人になったなぁって感じたのは高校卒業したときかも」
「私は……」
記憶を遡る……が「ぜんぜん、そういうのないかもしれませんね」
尚子は笑った。
高校を卒業して実家を離れた時、心のなかに生まれた感情。あれは大人になった、というものとは少し違っていた。やっと自分らしく生きていけるかもしれない。そんな枯渇した心の悲鳴だったような気がする。
「まったくぅ」
房子も笑った。「しっかりしなきゃだめよ」
「私もそろそろ大人の女にならないとなぁ」
「それじゃまずは一人前の編集者にならなきゃね」
そう言いながら房子が尚子の机の上に二つ封筒を重ねる。「とりあえず新人発掘がんばろうね」
尚子は大きくため息をついた。
* * *
午後になってから、いつものようにまず如月のマンションに行くと、珍しく如月は留守にしているようだった。
尚子はバッグの中から合鍵を取り出すと、鍵を開けて中に入った。
こういう時のために如月から部屋の鍵を渡されている。当初、合鍵を渡すと如月に言われた時はまるで自分が恋人にでもなったかのような感じが嫌でさすがに断ったのだが、「何かと便利だから」の一言で無理やり押し付けられてしまったのだ。
最初は如月が自分を好きなのではないか……などと思いを巡らせたこともあったが、どうやら如月の言葉の通りそのほうが便利だからという理由だけらしい。取材旅行に行った旅行先から突然電話がかかってきては、買い物や用事を言いつけられることがある。
まるで家政婦のように扱われることは不本意ではあったが、かといって如月に対してはまったく編集者としての仕事をしていないようなものなので文句を言う事も出来ない。
(図書館にでも行ったかな?)
尚子はぐるりと部屋のなかを見回した。
たまには掃除くらいしてあげようとか、と思ってはみたが部屋のなかはそれほど散らかってはいない。むしろ、自分の部屋のほうがよほど汚れているかもしれない。
(女失格だなぁ)
笑いがこみ上げてくる。
システムディスクの上には本棚が置かれ、そこにはC言語、BASIC言語、SQL言語などと書かれた厚いマニュアル本が何冊も並べられている。全てコンピュータ関係の本らしいが、尚子にはそれがどんなものなのかはまったく理解出来ない。前に一度原稿待ちをしているときに、興味を出して読もうとしたことはあったが、1頁すら理解することは出来ずに挫折した。
ふと、机の上にA4サイズの緑色のファイルが置かれているのに気づいた。
仕事の資料かもしれない。
多くの作家がそうしているように、如月も一風変わった事件や事故などの新聞記事を切り抜いてファイリングしている。本棚には10冊以上のファイルが並べられている。
何の気なしにファイルを開くと、そこには尚子が予想した通り新聞の記事の切り取りが綺麗に揃えられている。
だが、1ページ目の新聞記事を見て尚子は戸惑った。
(何、これ?)
思わずその記事を凝視した。
『23日午後8時15分ごろ、東京都北区の路上で、帰宅途中の主婦、本条八重子さん(34)が若い女にナイフで腹など数カ所を刺され、出血性ショックで間もなく死亡した。警視庁は殺人事件で王子署に捜査本部を設置、逃げた女の行方を追っている。現場近くの路上で、凶器とみられる刃渡り10~20センチのナイフが見つかった。
調べでは、ジョギング中だった近くの理容店手伝いの男性(33)が、後ろから自転車が追い抜いていった後、ガチャンと自転車同士がぶつかるような音を聞いた。音がした方向に走って行くと、路上で本条さんに馬乗りになっている女を目撃。男性が「何をしている」と声をかけたころ、女はナイフを構え、本条さんの腹、首などを刺していたという。女は止めに入った男性にもナイフで襲いかかろうとし、男性がひるんだすきに、女は自転車で逃走したという。
女は口紅やアイラインを濃く塗り、あごぐらいまでの髪にヘアバンド姿。身長は155センチぐらいで、痩せ気味。自転車は赤っぽい茶色だった。
現場はJR王子駅の西約2キロの静かな住宅街。約100メートル北には王子署上十条駐在所があり、近くに幼稚園や小学校がある』
(本条八重子……これって――)
雫のところで働いている真由の母が通り魔に殺された事件の記事だ。ファイルには他にも同じ事件について、さまざまな新聞記事が貼り付けられていた。ファイルは微妙に汚れており、つい最近のものとは思えない。まるで何年もこの事件のことを追いつづけてきたような印象を受けた。
(どうして如月先生がこの記事を?)
ただの小説のネタのためとは思えない。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、尚子は急いでそのファイルを机の上に戻した。
その時、玄関からバタンというドアの閉まる音が聞こえ、尚子は咄嗟に机から離れた。
「来てたんだね」
ドアが開いて如月が現れた。
「どこ行って来たんです? 図書館……じゃなさそうですね?」
振り返り、如月の姿を見て尚子は驚いた。
如月はいつものラフな格好ではなく、珍しく黒のスーツを着込んでいる。右手には革の手提げ鞄を持ち、まるで普通の会社員のようだ。如月が作家になったばかりの頃を思い出した。あの頃は時々、編集部にスーツ姿で原稿を持って訪ねてくることがあった。
「ちょっとね」
「就職活動ですか?」
「バカ……帰りにコンビニに寄って雑誌買ってきたよ。読む?」
如月は紙袋を尚子に手渡した。
「はぁ」
紙袋の中には他社の文芸雑誌と女性もののファッション雑誌が入っていた。小説を書くために、如月は時々女性ものの雑誌も買い込んでくることがある。
「いつ来たの?」
「ついさっきですよ」
「今日は……定期便?」
如月は机の上に置かれた卓上カレンダーを眺めた。
「ええ、たまには先生がどんなものを書いてるかちゃんとプロットを把握しておかなきゃいけませんから」
「珍しいね。やっと編集者としてやる気が出てきたかな?」
「ええ、これからは鬼編集者としてがんばろうかと思ってるんですよ。ちゃんと締め切りまであがるかどうか確認しますからね」
「きついなぁ」
如月は笑いながら尚子の脇を通ると、ふと机の上のファイルに視線を送り、そのファイルをおもむろに机の引き出しにしまいこんだ。
「それ……何かの資料なんですか?」
「いや……ちょっと」
如月は曖昧に言葉を濁すと振り返った。「じゃ、今回の本のプロットを説明しようか?」
「え……ええ……お手柔らかにお願いしますね」
尚子はそう言ってソファに腰をおろした。