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先週末にノルマとして渡された3本の持ち込み小説に評価コメントをつけて房子に返すと、その引き換えとばかりに再び2本の小説を渡された。
尚子はため息をつきながら、家路を急いだ。
すでに10時を回っている。
エレベーターを5階で降りると一番奥の自分の部屋に向けて通路を急ぐ。ふと、その通路に人影が見えて尚子は歩調を緩めた。見るとその人影は尚子の部屋のドアにもたれかかっている。
(誰?)
尚子はそのまま歩きながら、人影を凝視した。ブルーのジーンズにベージュのジャケット、帽子を被っていて顔ははっきりと見ることが出来ない。それでも、すぐにそれが誰かのか尚子はわかった。
「恭子なの?」
尚子が声をかけると、その女性ははっとして振り返った。蛍光灯の明かりにその顔がはっきりと映し出される。
「お姉ちゃん」
と、浅井恭子は明るい笑顔を見せながら手を振った。
妹の恭子は今年の春に高校を卒業して、地元である仙台の大学に通っている。恭子と会うのは今年の正月に実家に帰った時以来だ。
「いったいどうしたの?」
「ちょっとお姉ちゃんの顔を見に来たのよ」
おどけるように恭子は言った。
「何か嘘っぽいわね」
恭子は昔から嘘をつく時、いつも妙に明るく振舞おうとする癖がある。
「嘘じゃないわよ」
「ま、いいわ」
とりあえず尚子は鍵を開けて、恭子を部屋に入れた。
「結構、いいところじゃないの。ねえ、喉渇いちゃった。何かない?」
恭子は部屋をぐるりと見回した。一昨年、部屋を引っ越してから、恭子がやってくるのは初めてのことだ。
「ご飯食べたの?」
「うん、途中、吉野家で食べてきた。お姉ちゃん、食べてないの?」
「私は会社の近くにある立ち食い蕎麦屋で食べたわよ」
「うわ……親父くさい」
冗談のつもりか恭子はそう言って顔をしかめてみせた。
「吉野家だって似たようなもんでしょ」
尚子はそう言いながら冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶を取り出して、テーブルの上におく。「コップはキッチンにあるからね」
「えー、ビールないのぉ?」
恭子は父に似て酒豪だ。
「ビール? そんなのないわよ。私がお酒飲まないの知ってるでしょ。文句言わないの」
「はぁい」
恭子はキッチンからコップを持ってくると烏龍茶を注ぎ一気に飲みほした。尚子はその恭子の姿をベッドに座って眺めた。
「ねえ、本当にどうしたのよ。何かあったの?」
「……いや……べつに……」
恭子は口篭もった。
「嘘ついてもだめよ。恭子が何もなくてわざわざ来るわけないでしょ」
そう言って恭子の顔をじっと見る。
「うーん……実はね……」
と言って恭子はしぶしぶ口を開いた。「私、大学辞めようかと思ってるの」
「え? どうして?」
「私も東京に来ようかなぁって……だめかな?」
「そんなのお父さんたちが許さないでしょ」
恭子は両親にとって何よりも大切な存在で、恭子が実家を離れるなどということを両親が許すはずがない。
「そんなの知らないわよ。だってお姉ちゃんは家を出てこうして一人で暮らしてるじゃないの」
「私は働いてるの」
「それは今でしょ。お姉ちゃんだって高校卒業してすぐに家を出て、東京の大学に行ったじゃないの。どうして私ばっかり家を出ちゃだめなの?」
「それは――」
(私とあなたとでは立場が違うの)
だが、それを口に出すわけにはいかない。「お父さんたちは恭子のことが心配なのよ。それに恭子には悪いけど、恭子がいたからこそ私は家を出られたのよ」
「そんなのずるいわよ」
恭子は口を尖らせた。
「そうね……」
頷きながらも尚子の胸中は複雑だった。
家族のなかで自分だけが血の繋がりのないことが、自分と家族を隔てている理由であることを恭子は知らない。両親の実の子である恭子と、まったく血の繋がっていない自分とではおのずと立場は変わってくる。
「だから私、お父さんたちに内緒で大学を辞めちゃおうかと思って」
「まさか家出してきたわけじゃないでしょうね」
「そんなことしないわよ。ちゃんとここに来ることは手紙に残したきたわ」
「手紙?」
はっとして部屋の電話を見た。留守番電話の緑のボタンがチカチカと光り、メッセージが残っていることを伝えている。
携帯電話の番号を尚子は実家に教えていない。
尚子はため息をついて、そのボタンを押した。
――もしもし、尚子? 恭子、そっちに行ってない? 今日、手紙残していなくなっちゃったのよ。もし、恭子がそっちに着いたら絶対連絡ちょうだい。
母の声だ。その声からいかに慌てているかが伝わってくる。
結局、同じようなメッセージが1時間置きに5件も入っていた。最後のほうのメッセージではほとんど泣き声に近い。
「手紙置いてきたって……これじゃ家出と同じじゃないの」
「でも、ここに来ることはちゃんと教えてあるわけだから……家出じゃないわよ」
「じゃあ、どうしてここの留守電にメッセージが入ってるのよ。あなたの携帯にだって当然電話はいってるでしょ」
「出たら面倒くさいじゃないの」
「まったく……早く電話しなさいよ」
「私が? お姉ちゃん、してくれるんじゃないの?」
「どうして私が恭子の家出のフォローしなきゃいけないのよ。だめよ。ちゃんと電話して話しなさい」
「いじわるぅ」
恭子は仕方なさそうにバッグから携帯電話を取り出すと、実家に電話をかけはじめた。その様子を尚子は再びベッドの上からじっと眺める。
「あ……お母さん?」
恭子が言うと、その受話器から母の怒ったような声が漏れてくる。それに恭子は軽く答えた。
「うん……ごめんごめん……うん、うん……わかってるって……だってさ――」
その様子を眺めながら尚子はゴロリとベッドの上に転がった。
今夜は眠れなくなりそうな気がした。