1-1
優しき殺人者
1
空が高く見える。
10月に入ると、ほんの少し秋らしさが増してくる。
ここ数日は肌寒く感じることも多くなった。
だが、今日は一転して本格的な秋の訪れはまだ先とでもいうように強い日差しが照りつけている。今日のような天気はどちらかというとまだ残暑といったほうがあっている気がする。
「暑いぃ」
浅井尚子はうなだれながら思わず声を出した。
口に出したところで暑さが消えるわけではないことはわかっている。むしろそれを口にすることで暑さが増すような気がしてくるが、それでも口に出さずにはいられない。
松戸駅から尚子が向かっている胡録台のマンションまでは歩いてほんの20分たらずの距離だが、そこまではダラダラとゆるやかな坂道が続いている。右手に住宅街が広がり、左手には神社を囲む杉林があり、この時間、日陰になっているようなところもない。
いつもならバスかタクシーを利用するのだが、駅に降りた時、その高く見える青空とそよそよと吹く風に誘われ、ふと「歩いてみよう」などと考えたことがそもそもの間違いだった。
青空の下を歩くことに不快感はなかったが、この坂のことまで頭にいれていなかった。脹脛がパンと張っている感じがする。きっと明日の朝には筋肉痛になっていることだろう。
その横を空車のタクシーが通り過ぎていく。
手を上げたくなるのを尚子はぐっと堪えてタクシーの過ぎ去っていくのを見つめる。目的のマンションまではあとほんの少しの距離。すでにマンションの一部は坂の向こう側に見えている。
こんな距離でタクシーを拾った領収書を会社に出したら、何を言われるかわかったものじゃない。ただでさえ不況を理由にタクシーの利用は制限され、どんなに仕事が残っていても終電前には帰るよう指示されている。おかげで仕事のピークを迎える時期は泊まりを覚悟するか、家に仕事の山を持ち帰らなければならない。
尚子はベージュのジャケットとADMJのトートバッグを左手に抱え、微妙な前傾姿勢を保ちながら足を前へ進めた。
(日傘でもあればなぁ……)
と思ったところで日傘など持ってもいない。駅前のスーパーに行けば売っているかもしれないが、後戻りする時間を考えればマンションまで行くことが出来るだろう。
もともと肌は白く、少しでも日に焼けるとすぐに赤くなってしまう。それでも暑さには耐え切れずにブラウスの袖を捲くる。右手にハンカチを広げ、少しでも顔が日に当たらないように気を使いながら歩いていった。こう暑いと肩まであるストレートの髪もバッサリと切りたくなってくる。汗でほんの少し白いワイシャツの背中の部分が濡れているのが自分でもわかる。
前方から自転車に乗った女子高生がペダルも漕がずに坂を下ってくる。その髪がふわりと風に流れている。その姿に学生の頃のことを思い出した。
あらためて都会の秋の訪れは遅いのだということを尚子は感じた。尚子の実家の仙台ではお盆が過ぎるとすぐに肌寒い毎日が続くようになる。そのせいか子供の頃はいつも夏が過ぎた頃に風邪をひいて熱を出したものだ。
尚子はふと立ち止まるとまっすぐに目的地のマンションを見上げた。
(そもそも、どーしてこんなとこに住んでるのよぉ。もっと都心に住むとか、駅の周辺に住めばいいものを)
いつのまにか尚子の怒りはそのマンションの5階に住む如月凛音に向けられていた。
尚子が白亜出版に入社してすでに2年が過ぎる。もともとは作家志望で大学を卒業してからはフリーターをやりながら小説を書いていた。何度か白亜出版に原稿を持ち込んでいたが、ある日、編集長の財部の『君は作家よりも編集者に向いているんじゃないか』という一言で、編集者として就職することになってしまった。ちょうどバイト生活にも疲れてきていた時期だった。今になって思えば、あれは何度も原稿を持ち込んでくる尚子を断るための手段だったのかもしれない。今は尚子も編集者として5人の作家を担当している。
その一人が如月凛音だった。26歳の尚子よりも3歳年上の29歳で一昨年、白亜出版が主催の新人賞を受賞し、今はホラー小説を中心に書いている。もともと如月は都内のソフトウェア会社で働いていたシステムエンジニアで、ほんの気分転換に書いた小説がたまたま受賞したのだそうだ。作家になりたくて何本もの小説を持ち込んだ尚子にとっては羨ましい限りの話だ。
尚子が担当している雑誌『M』はミステリー系中心の雑誌で、如月の書くようなホラー作品は珍しかった。
やがて、尚子はやっと長い坂を登り終えマンションの前に立った。
尚子は一度マンションの前を通り過ぎ、隣にあるコンビニでジュースや菓子類を買いこんでから、あらためてマンションのなかへと入っていった。