プロローグ1 召喚
例えば、小説で言う異世界召喚モノの導入と言えば?
どんなものがあるだろうか。
見知らぬ天井、見知らぬ景色から始まるだろうか。
それとも死んで神様との対話をするところから?
はたまた、凄い力を与えられたり、スキルポイントを振ったりなんかするかもしれない。
自身の今の境遇を思いやって、青年はぼんやりと考える。
「俺の場合はまぁ、一つ目か……二つ目に該当するかなぁ。……いや、神様に心当たりはないけど」
現在彼が置かれた状況を鑑みれば、ほとんど意味の無い呟き。
この物語の主人公こと天城 悠真は大岩の上に座って腕を組む。眼前には巨大な森があり、その木々が途切れた辺りに、彼は居た。
受験を終えた直後、十八歳である彼は、元剣道部らしい短い髪をぼりぼりと掻きながら、腕を頭の後ろに組んでごろんと寝ころぶ。森から流れ出る小川のせせらぎと、ふわりと吹く風が心地良かった。
「ふう……」
昼寝でもすればさぞ気持ちが良いだろう言う日和だ。ただ、彼の内心は完全に困り果てているためそうもいかない。
理由は至極明確で、自身の現状について考え巡らせる情報がほぼ皆無である事、そしてそれゆえ先行きの不安が著しく大きい事である。もちろん考えようとする努力はしているようだが、先ほどのように意味の無い思考に行き着くのが関の山であった。
「しっかし、ホントにこんな所に来るのかなぁ。だんだん不安になってきた……」
寝転がった状態で視線を横に写し、彼は岩の上に置かれた一通の手紙を見やる。
この手紙を自分に託した人物に言われるがまま、悠真はこの場所で人を待っているのであった。
「まさか騙されたとか? ……いやいやそんな人には見えなかったし。ただでも、もうちょっと、なんと言うか、言質を取っとけば良かったなぁ」
そんな風に自問自答を繰り返す。
手紙の他にはちょっとした食料や水も分けてもらっているし、出会って二日なのに餞別までもらったのだ。さらに巨大な森のそばで待つのだからと、安全策も講じてもらった。付き合いの浅い自分にこれだけしてくれたのだから、いっそ至れり尽くせりと言っても良いほどなのである。
ここまでしてもらって騙されたと疑うのはちょっと人としてどうかと、悠真も思う。ただやはり、こうして自然の中にぽつねんとしていると不安は募ってしまうのであった。
「これからどうなるんだろ……」
ぽろりと、本音が漏れる。
彼の元居た世界、元居た国である日本では中々お目にかかれないような雄大な自然の中で、彼は一人待ちぼうけるしか術がなかった。
この世界【ベロムンド】に召喚された異世界人である彼が、なぜこのような所でうだうだしているのか。それについては少し時間を遡る必要があるだろう。
それは、大よそ一日と半分くらい前の事であった。
==========
「ぐへぇっ!」
もんどりうって倒れ、そのまま一回転、二回転。
見事に転がって木にぶつかった所から、彼の異世界ライフは始まった。
しっかりと後頭部を打ち付けるあたり、彼の薄幸さがにじみ出ている。
とは言え彼の主観としては、車に轢かれたところから地続きで現在に至っている。バンパーがぶつかった衝撃や、その後フロントガラスに顔面を打ち付けた痛みを考えれば、むしろその痛みが消え去っている事を今は喜ぶべきだろう。
ちなみに、もんどりうって倒れてから地面を転がった痛みはしっかり体に残っているようだった。転がり終えたところで強打した後頭部はズキズキと痛むが、それをさすりながら彼は体を起こした。
「お、俺……生きてるよな……?」
痛む箇所を触って、素人判断ではあるが死なない程度に無事である事を確認し、立ち上がる。
「ここ、どこだ……?」
見回すと緑一色、森の中である。しかも生えている木々は、両手を広げたくらいでは幹の直径の半分にも満たないような大木ばかりだ。それが、見渡す限り立ち並んでいる。
良く見ると幹にはびっしりとコケや地衣類が張り付いていて、森が経てきた年月が感じられた。
少しの間、体の痛みも忘れて呆けたように木々を見上げる。
と、そんな彼の耳に、地を踏む音が届いた。
振り向いた先に居たのは、白銀の毛並みをもつ大犬、いや、狼である。
その存在の強大さ。生命力。
目の当たりにしただけで怯えすら感じるほどの存在感。
見た事も無い大きな動物の出現に、悠真は状況を飲み込めずに立ち尽くす。
一方の白銀の狼は彼を認めると牙をむき、毛を逆立てて威嚇を始めた。
獣から発せられる威圧感に押され、悠真がわずかに後ずさる。
それがいけなかったのだろうか。
呼応するように白銀の狼が跳躍する。
初速から、視界からかき消えたかと感じるほどの速度であった。
かろうじて右に行ったか左に行ったかが分かる程度である。
それほどの速度で背後に回り込み、白銀の狼は鈍色に光る爪を以て悠真に一撃を浴びせかけた。
「うっ、うわっ!」
間一髪、と言ったところだろうか。
わずかに服を裂いただけで、その鋭い爪は彼に届かなかった。
同じように一撃、二撃。背後に回り込むようにして攻撃が繰り返される。
しかし、そのどれをも悠真はかろうじて避ける事ができた。
目で捉え切れないほどの初速を出しながら、悠真の視界に入った途端、その鋭さはなりをひそめる。
当たらない攻撃。いや、当てようとしないのか。
それは分からなかったが、さすがに彼も違和感を感じ始めていた。
「はぁっ、はぁっ……ど、どうなってるんだ……」
何度目かの対峙で白銀の狼と目が合う。物言わぬ獣だが、どこか様子を探るような、慎重な息遣いが悠真には感じられる。そんな気がした。
しかし、一瞬後にそれは立ち消える。
そして悠真は思い知らされる事になる。今まで自分が無事であったのは幸運だったからではなく、相手の手心によるものであったと言う事を。
「な、なんだ!?」
「グゥルルルルゥ……ガァッ!」
唸り声を上げる狼の体からは、赤い煙、あるいは赤い光のようなものが立ち上っている。
その光の強さや量に比例するようにして、感じられる存在の強大さはいや増してゆく。
そして次の瞬間には、凄まじい速度での突進。芸の無い体当たりだったが、速度は先ほどとは比べ物にならない。そして彼我の体重差や速度から、悠真を襲った衝撃は恐るべき威力となった。
「がっ、がはっ!」
木の幹に叩き付けられ、崩れ落ちる。
体の痛みに加えて、肺の空気が絞り出されて息ができない。
そこに追い打ちをかけるように、白銀の狼は爪の一撃を見舞う。
しかし今度こそ幸運にも、その一撃は地に崩れゆく悠真の体を捉えられず、肩口の肉を少し裂くだけに留まった。
意図せず致死の一撃を回避した悠真であったが、状況は依然として致死領域から抜け出す気配は無い。
体を支える力を失い、呻くのみとなった悠真を見下ろした白銀の狼は、彼の頭を前足で抑え、首筋に噛みつかんと牙をむく。
万事休す、であった。
―――もうだめか、
―――死にたくない、
―――うそだろ、
その時の彼の思考は、痛みと諦めと死への恐怖で満ちていた。
ところが、白銀の狼が次に取った行動は身を翻しての回避行動である。
何かに気付いた顔を上げると一足でかなりの距離を跳躍し、悠真から距離を取った。
一体何度死に損なえばいいんだ。
そんな風に彼が考える間もなく、風切り音と共に矢が飛来し、狼に命中した。
いや、もしかしたら命中と言うよりは着弾、と言った方がより事実に則しているかもしれない。
紫の光を纏った矢は着弾と同時に爆風を発生させ、衝撃で狼を吹き飛ばした。うつ伏せで地面に倒れていた悠真も、その余波で吹き飛ばされる。
白銀の狼の体は爆風で宙を舞ったが、空中で態勢を立て直し見事に着地する。矢は狼の毛皮を貫くに至らなかったようで、それほどのダメージも見られない。
「グルアァァァッ!」
着地と同時、咆哮を上げる白銀の狼。体には先程と同様に赤い光の様なものが立ち昇る。
いまだ体の痛みに苛まれていた悠真は、それを見てまたあの突進かと体を強ばらせた。
「星降りの夜の射手!」
(女の……声?)
爆音と閃光。
悠真の一瞬の思考は、狼の回避運動にも、そしてそれを上回る速度で飛来した白く輝く矢にも追い付いていなかった。
そして音と光が収まった時には、狼の死骸が目の前に転がっていた。
======
「う、うぐぅうう……い、痛ってぇ……」
うつ伏せの状態からゆっくりと痛む体を起こす。脅威が去って、ようやく周囲を見回す余裕が戻ってきた悠真は、ここまでの一連の状況にひとつ、長い溜息をついた。
そしてふらつく頭で反芻し、状況を整理しようと試みる。
「……」
車に轢かれた記憶を起点とする。
その次には森の中に放り出され、巨大な狼が現れてそれに襲われた。
その狼に毬のように弄ばれ、あわや噛み殺されると言うところで、どこからか飛来した矢によって救われた。
それから……、
「そういや、女の声が聞こえたような……」
悠真は座ったまま、目の前の光景に目を向ける。
胴の中ほどから寸断された狼の死骸と、それを中心に広がる血だまり。そしてその光景を作り出した一本の矢が地面に突き立っている。
「この矢……」
狼の体を一撃で両断したこの矢が降り注ぐ直前、確かに女の声が聞こえたはずである。
「おーいっ!」
そう、さながらこんな風に。
「そうそう、こんな声だった……って、え?」
矢を見つめていいた視線を上げる。すると森の木々を縫って、若い女が駆け寄って来ているのが見えた。
女は悠真の近くまで来ると、狼の死骸を一瞥する。そして改めて彼に向き直り、にこりと微笑んで座り込んだままの彼に手を差し伸べた。
「キミ、大丈夫だった?」
「え、あ、は、はい!」
手を取り、立ち上がる助けをしてもらいながら、ついまじまじと彼女の顔を凝視してしまう。
それくらい美しい女性であった。
澄んだ鳶色の瞳と、木漏れ日を浴びて煌めく金髪が印象的である。
「どうしたんだいボーっとして。体で痛むところは無いかい?」
見返された美しい鳶色の瞳には力強い光が宿っている。前髪とポニーテールが風を受けてさらさらと揺れていた。
それは背後に広がる広大な森と相まって、幻想的な光景であった。
悠真はふと、これが現実でないような、そんな錯覚に捉われる。
「ちょっと、少しくらい反応しなよ」
「っと。す、すみません……い、イテテテテ」
軽く叱咤されて我を取り戻し、それでようやく、彼の意識は痛む体へと戻ってきた。
悠真は改めて、体の状態を確認する。
体当たりを食らって体の芯に残ったしこりのような痛み。木に叩き付けられた時に打った頭の、ガンガンと鳴り止まない痛み。爪にえぐられた肩口の傷の、燃えるような痛み。確認をした事で意識してしまったせいかもしれないが、正直すぐにでも座り込みたいくらいの酷い状態であった。
「すいません……ちょっと座ってもいいですか? 立ってるのが辛くて……」
「ああ、つい立ち上がらせちゃったけど、結構ダメージが残ってるみたいだね。ごめんよ」
彼女に手を貸してもらいながら、比較的平らな場所に座り、深呼吸をする。
「見た目は大丈夫そうだけど、頭打ったり、体ぶつけたりした? そう言うダメージは芯に残るから」
「そうなんですか。確かに体の背骨のあたりがジンジンする感じがします。あと、肩の傷が」
「傷?」
言うが早いか、服を脱がされる悠真。彼女は傷を見ると手際よく、腰のポーチから取り出した軟膏を塗りつけ始める。その後大きな植物の葉を重ねて傷口に当て、細長い手ぬぐいのようななもので縛りつけて固定した。
「そこまで大した傷じゃないよ。魔法を使って治してもいいけど、痛みを忘れると男の子は強くなれないからね……。これで……よしっ! 傷は残るかもしれないけど、まぁ男の勲章ってやつ?」
その女はそう言ってからからと笑った。そんな風に笑っていると、彼女の容姿は少女のようにも見えるから不思議なものである。
「ありがとうございました。助かりました」
「礼はいいさ。あのシルバーウルフはあたしが追ってたヤツだしね」
言いながら、女はストンと悠真の隣に座った。
「あの狼……シルバーウルフって言うんですか? 」
「そうさ。まぁ魔獣クラスのやつは初めてお目にかかったけどね。普通は単体じゃ危険度はそれ程でもないんだよ。群れると厄介だけどね」
「はぁ」
話を聞くだに、これはまさか、と悠真の頭にもたげるものがある。
彼の年齢は十八歳。受験で少し遠ざかっていたものの、マンガやラノベに親しんだ時期もある。彼は彼女が言った言葉から、現状を説明するある仮説を導き出そうとしていた。
(シルバーウルフと来て、魔獣と来たら、もしかしなくてもアレだよな!)
徐々に変なボルテージが上がって来ているようである。
恐らく頭を打ったせいだろう。そうに違いない。
「あの、さっきからお話を聞いてて思ったんですけど」
うずうずしながら、悠真は尋ねた。
「なに?」
「もしかしたら俺は……異世界から来たのかもしれません!」
な、なんだってー!
と言うリアクションは彼女には無かった。
むしろ驚いた風すらない。
「まぁそうだろうねぇ。何の装備も無くこの【大森林】にいる奴はそうだろうさ。前に一度聞いた事があるし」
「え、ええぇぇぇ」
「あんたみたいなのは多くはないけど、でも歴史の中で見れば数百年に一人くらいはいるみたいだよ?」
「そ、そうなんですか……」
薄いリアクションを返されて意気消沈気味の悠真に対して、女がニヤリと笑いかける。
「あんたみたいなのをこの世界じゃ【アトムの申し子】とか、古い言い方なら【精霊の誘い人】って言うのさ」
「ア、アトム?」
「あっははははは! まぁ異世界人にはピンと来ないだろうね。その辺話し始めると長いから、続きはあたしのねぐらに戻ってからしよう。ここよりはまだ落ち着けるはずだよ」
そう言って女は立ち上がり、悠真に手を差し伸べる。
「そういや自己紹介、してなかったよね? あたしはシルディア、よろしく」
悠真も差し出された手を握り、立ち上がった。不思議な事に、もう頭の痛みも肩の傷口の痛みも、それほど痛まなくなっていた。
「俺は悠真って言います。よろしく……お願いします」
しっかりと握手を交わし、二人は森の中を歩きだした。