それぞれの想い
○それぞれの想い○
あれから五日が過ぎ、百合は瑾斂宗の系列の病院に居る。
あの後、動けない百合は、玉江に携帯電話を渡し本山に連絡してもらった。
そして一時間半程して本山のバートルが到着し、ロープが降りると真っ先に純慶が降下し百合に駆け寄ると、涙を流しながら百合を抱き上げた……百合はそれが嬉しかった。
薄れ行く意識の中で百合は、純慶の顔を見て安心して気が抜けたのか意識を失い、純慶は百合の名前を涙を流しながら呼び続けた。
気が付けば病院のベッドの上……色々な機械が並び、百合の体に複数のチューブやコードが繋がれている。
百合の周りには何人かの白衣の人が居て、鬼追一美が心配そうに百合に付き添っている。
百合は三日間眠り続けていた。
四日目の朝に気が付いたのだが、その日は一日中放心状態で何も考えられず、意識が有るのか無いのかさえも、自分でも分からなかった状態だった。
そして五日目の朝、やっと自分が目を覚ました事を百合は自覚した……お腹が減ったと……
「百合ちゃん、プリン食べる?買って来たんだけど……後、リンゴとか……」
「あっ、すみません……ありがとうございます」
病院の朝食では物足りず、午前の回診の後、一美と白菊が色々と食料を買い込んで来た。
白菊は、実体化しても衣装が何時もの白装束にしかなれず、それで人前に出るのは不味いだろうと、一美が買って来た初夏らしい若草色のワンピースを着て、長い白髪を赤いリボンでポニーテールにまとめている。
玉江はダークスーツ姿で、病室を掃除している。
玉江と白菊は、百合が助け出されてからも、離れる事無く姿を消して付き添っていた。
「一美殿、洗濯物はまとめておいたが」玉江が大きめのトートバッグを一美に差し出した。
「うん、洗濯物は持って帰るわ……後、何か居る物ある?」
一美はトートバッグを受け取り、百合に振向いて尋ねた。
「ううん……今は、大丈夫。おばさん、本当にありがとう。意識の無い間もずっと付いて貰ってて……」まだ点滴のチューブが付いたままの百合が一美に頭を下げる。
「なに言ってるの……家族でしょ……」
「あっ……うん、ありがとう……」一美のその一言に、百合は涙が出そうになった。
中学生の時に百合を引き取って育ててくれた鬼追夫婦に、幼い頃に両親を失い普通の家庭を知らなかった百合は、家族と言うものを教えてもらった事に感謝し、変わりたいと願っていた自分を、変えてくれた鬼追夫婦に百合は返し切れない恩を感じていた。
時が止まった様な静かな病室で、一美がリンゴを剥いている。白菊はワンピースが気に入ったらしく、小さな鏡に映る自分の姿を見ている。玉江は窓の外を黙って見ている。
百合はリクライニングを上げたベッドの上で、あの日、粉雪が消える時に見た風景が気になっていた。
「おばさん、ちょっと聞きたい事があるんだけど……」
「なあに?」一美は、リンゴを剥きながら返事をした。
「雪ちゃんの事なんだけど……」
玉江が窓の外を見ながら、ビクッと小さく体を振るわせる。
白菊は、鏡を見るのを止めて百合を見た。
一美はリンゴを剥くのを止めて、皿に剥きかけのリンゴと包丁を置いて、百合の方に向き直り座った。
「……何かしら……」何やら覚悟を決めた様な顔で、一美は百合に尋ねた。
「あの日、雪ちゃんが……死んだ……時、雪ちゃんの記憶が見えたの」
粉雪が霧となって消える時に、脳裏に映った母親との風景を百合は思い出している。
「雪ちゃんの記憶……私のお母さんと雪ちゃんが一緒に居る所……これって、もしかして」
「……そうね、その通りよ……粉雪……いえ、本当の名前は細雪と言うの」
「細雪……」聞いた事がある名前に、百合は驚いた。
それは、百合の母親に憑いていた妖狐の名前だった。
「以前にも話したけど……美代さんが死んだと聞いた時は國仁さんは東北で、私は、まだ信仁が小さかったから直ぐには動けなくて……暫くして訪ねたら、百合ちゃんは既に親関の人に引き取られたって聞いて、私達としては、それ以上は何も出来なかったの……うぅうん、百合ちゃんは普通に生活しているものだと思っていたの、だけど十年ぐらい経ったある日、美代さんに憑いていた妖狐の細雪が訪ねて来たの……助けてくれって……」
一美は百合の目を、優しい目で見ながら話している。
「あの子は、美代さんが死ぬ時まで一緒に戦っていて、最後に美代さんから〝百合をお願い〟って頼まれて、あの子百合ちゃんの事、ずっと見守っていたらしいの。だけど、何年か経うちに、百合ちゃんが親関の人達から疎まれて、段々と良くない方へと進んでいると細雪は感じていたの……でも、妖狐の細雪には何も出来ずにいて……もし、百合ちゃんの前に現れて、自分の正体がばれる事を恐れて……随分と悩んだらしいの」
百合達は、一美の話を黙って聞いている。
「結局、あの子、私達を頼る事に決めて〝百合ちゃんを助けてくれ〟って……それで事情を聞いて、國仁さんが直ぐに導厳様に相談しに行って、百合ちゃんを引き取る事にしたの……後は、百合ちゃんも知っている通りよ」
「あっ、でも、雪ちゃんは……」
百合は、鬼追家に引き取られた時には、粉雪が居なかった事に気が付いた。
「ええ、あの子ね……私達に、百合ちゃんの事を告げた後、直ぐに何処かに居なくなったのよ……きっと、百合ちゃんを守れなかった事を、気に病んでいたのかも知れないって、國仁さんが……それにあの子の気持ちも知っていたし……だから百合ちゃんには、あまり詳しくは話さなかったの」
「雪ちゃんの気持ち……」
「ええ、あの子、私達に相談しても良いのかって悩んでいたって……だって百合ちゃんに、お役目に成って欲しくなかったから……」
「そんな……」
そんな事は、粉雪は一言も百合には言わなかった。
思いも寄らなかった粉雪の気持ちに百合は戸惑った。
「百合ちゃんが修行の旅から、あの子を連れて帰って来た時にね……自分がいると、百合ちゃんがお役目になりそうだから、姿を消したんだって言ったの……でも、百合ちゃんはお役目の道を選んだ。だからあの子、今度は百合ちゃんに憑いて守りたいって……あの子……あの子ったら……みっ、美代さんが死んで縛りは解けたのに、なのに……なのに、ずっと……ずっと美代さんの遺言を……まっ、守って……あの子ったら……」
一美は、エプロンの裾で顔を覆い、しゃくり上げる様に泣き出した。
「あの子がね、言ったの……自分が美代さんに憑いていた事は、百合ちゃんには言わないでって……知られると、百合ちゃんから、美代さんの事、聞かれるから……絶対に聞かれるからって。それは自分にとって、辛い事だからって……だから……名前も、変えて……」
一美は、其処まで話し言葉を詰まらせると、肩を震わせ声を殺して泣いた。
百合は何も言えず、只、俯いたままで……目から大粒の涙が、手にぽたぽたと落ちていた。
自分をずっと守って居てくれた粉雪の事を思うと百合は、居た堪れない思いに胸が締め付けられた。
「ゆっ、ゆき、雪ちゃん……ご、ごめ、ごめん……ゆっ、雪ちゃん……ごめんね……」
百合は、ベッドの上で膝に顔を押し付けて、大きくしゃくり上げながら泣いている。
「もう、いや……もう、お役目なんて止めたい……もう、嫌だよ……」
「百合ちゃん……」一美がエプロンを下ろし、百合の肩にそっと手を置いた。
「私……ずっと守っててくれた、雪ちゃん殺して……もう、嫌よ。こんな悲しいの……」
「主!粉雪を滅したのは妾……」百合の言葉に、たまらず振向き玉江が百合に駆け寄る。
「そうじゃないよ!結局は私があの日、鬼頭の所へ行かなければ、結界の前で雪ちゃんが止めてくれた時に引き返していたら、こんな事に成らなかったじゃないの!結局は私のせいよ!」
百合は顔を上げ玉江を睨み付け、涙を流しながら叫んだ。
所詮は、たら、ればの話だが、その後悔は百合にとって、悔やんでも悔やみ切れなかった。
「玉ちゃんのせいだなんて思っていない!玉ちゃんだって私を守る為に……皆を守る為に……あの時は仕方が無かった……そんな事、そんな事分かっているよ……あのままだと雪ちゃんだって、滅火に毒されて化物になったかも知れない……分かってるよ、そんな事……」
「主……」玉江には百合の心が分かった。そして自分の心も、百合は分かってくれている。
玉江は百合の言葉に、百合を〝主〟と選んだ事が間違いで無かった事を嬉しく思った。
「だけど、そんな事割り切れないよ!仕方が無かったなんて割り切れないよ!」
「確かに、粉雪の死を仕方が無かったと割り切るには大き過ぎる代償です。しかしそれで主は命を繋れました。それは、主を守りたいと願った粉雪の本望」
「だけど!……」
「お聞き下さい……」何か言いかけた百合の言葉を手で制して玉江が続ける。
「お役目を辞されるのも良いでしょう。それは粉雪も願っていた事です。されど、主はお役目を辞され、何をなされる御積りです。只、粉雪を失った悲しみを背負ったまま、泣いて暮らすとでも仰るのですか」
「それは……そんなの今直ぐには思い付かないよ……」
お役目を辞めて、只の十六歳の少女に戻り、普通の生活をしても、粉雪を失った悲しみは消えないだろう。しかし、これ以上の悲しみを味わう事も無いと思っていた。
「悲しみを背負ったまま、前に進まず迷われると言うのか……そんな事では何事も成し得ませぬ……」
「……何が、言いたいの……」百合は玉江の答えを聞くのが怖かった。
「主はあの日、妾の気持ちが分かると仰った……ならば、分かっているはずです!鬼頭との決着が付いていません!」
「!……」
百合は心の奥底で、粉雪を失った悲しみで押さえ付け消そうとしている思いを、玉江に言い当てられ驚いた。
もうお役目を辞めたいと思って見ても、鬼頭との決着を付けたい自分が居る。
「お役目を辞されるのは、鬼頭との決着が付いてからでは遅いのでしょうか」
「……だけど、それじゃ今度は玉ちゃんだって……玉ちゃんだって死ぬかも知れないんだよ」
「以前にも申しました。死ねと言われれば死にます……それこそ本望」
「嫌だよ!そんな事!そんな事言わないでよ!そんな事、言いたくないよ!」
自由に動かない体を激しく震わせながら、百合が叫ぶと、
「ならば、今、此処で呪詛を解け!我の縛りを解け!」
玉江は炎を上げ霊体に戻り、百合へと食って架かる。
「さすれば、我は直ちに鬼頭めを探し出し、その首、食い千切ってやる!」
「玉ちゃん……」百合は玉江の迫力に押されて、言葉に詰まった。
二人は黙って見詰め合っている。
顔を歪め歯を食い縛り、百合を睨み付けている玉江の悔しさが、百合に痛いほどに伝わってくる。
「仇討ち等と申しても粉雪は喜びますまい……されど妾は口惜しい。鬼頭をこのまま捨て置けませぬ……目の前に成さねばならぬ事があるのに、主は逃げられるのですか……」
「そんな……」
「玉江ちゃん……」
玉江の言葉に何か言いかけた百合の肩に一美が手を置き、玉江に声を掛けた。
「もうそれぐらいで……百合ちゃん、休まないと……」
百合の体を気遣い一美が言うと、玉江は黙ったまま窓の方へと戻った。
百合は黙って俯いている。
一美がベッドのリクライニングを下ろし、百合に掛け布団を掛ける。
百合は、横を向いて皆に背を向けた。
静かな病室に、重い沈黙の時間が続いていた。
---◇---
その夜、百合はベッドの上で眠れない夜を過ごしていた。
一美は、夕方に洗濯物等を持っては帰って行った。
『鬼斬丸……折れちゃった……お母さんの形見……雪ちゃん……私が殺した……お母さんに憑いていた妖狐……そのお陰で、私は命を繋いだ……』
大切なものを亡くした喪失感と、助けて貰った感謝の気持ち。そして無力な自分への惨めで悔しい気持ちが百合に重く圧し掛かっている。
百合にとって今回の出来事は、自分が如何に小さな無力な存在かを思い知らされた。
自分は、周りの多くの人に助けてもらっているのに、何も出来ない自分が情け無い。
引き取ってくれた鬼追夫婦。導厳に純慶。玉江に白菊。そして粉雪。彼らに助けて貰って今の自分がある事を知り、それに自分はどう答えれば良いのか分からず百合は焦っている。
お役目を止めたいと思っても、それは自分が選んだ道。
國仁に怒鳴られ殴られても自分が押し通した道。
何故、そんなにもお役目になる事に拘ったのだろうと考えた時、導厳に言われた〝己を知る〟と言う言葉を思い出した。
百合は自分が知りたかった。何が出来、何をすべきなのか。自分の道を。
その為に選んだお役目の道を、粉雪を失った悲しみに打ち拉がれ止めるのか。
所詮は其処までの自分だったのか……嫌だ、そんな事は嫌だ。
自分はまだ何も見付けていない。こんな所では止められない。
玉江が言った言葉……〝逃げるのか〟それは百合の心に深く突き刺さっていた。
「逃げたくない……逃げたくないけど……」
百合には、粉雪を失った悲しみとは別に、もう一つ逃げたい思いがあった。
「玉ちゃん……居る?」
「此処に……」
百合が、ベッドの横の壁を見詰めながら玉江を呼ぶと、玉江は仄かに光る霊体の姿で、百合の背後に跪き現れた。
「私、お役目を止めたくない……逃げたくない……」
「主……」玉江は、百合の言葉にゆっくりと顔を上げる。
「でも……でもね、怖いの、私……私自身が怖いの……」
「……」
「私、鬼頭を殺そうとした……戦っている時、少しも躊躇わず、あいつを殺そうとした……ううん、殺したかった……もしあの時、鬼斬丸が折れなかったら……」
其処まで言うと百合は、掛け布団を跳ね上げ、上半身を起こし、玉江へと振向いた。
「そう思うと怖いの!あの時、怒りに支配されて、押さえられなかった自分が怖いの!」
「……」玉江は百合を見詰め、黙って聞いている。
「雪ちゃんが死んで良く分かったの。化物だって命がある……そんな化物を私は沢山殺して来た……お役目を続けていけば、これからも殺さないといけない……私、そんなの耐えられない……怖いよ……怖いのよ、玉ちゃん……」百合は、怯える目で玉江を見詰めた。
「主が、滅して来られたのは、人に害なす化物……躊躇していれば、更に多くの犠牲が出たやも知れません」
「だけど……」
「主、お役目の道を進まれるのであれば、それは耐えねば成らない業……覚悟するしかありません」
「覚悟って……そんな自信、無いよ……私……」
「結局、お役目とは汚れ役やも知れませんな。坊主が殺生をする訳には成りませぬゆえ……」
「そんな……」
「主……妾では、役不足でありましょうや」
不安が混じる寂しそうな笑みを浮かべながら、百合を見詰め玉江が静かに尋ねた。
「えっ、どう言う事……」
「主のお気持ちは良く分かります。百を超える人の命を奪い、抹席され、額に咎の十字を刻まれた妾には良く分かります」
「玉ちゃん……」
怒りに我を忘れて愛する人達を殺した玉江の苦しみを思うと、百合は続く言葉が無かった。
「されど一人では耐えられなくとも、妾と共に乗り越える事は出来ませぬか……命のやり取りと成る役目が、過酷である事は承知しております。相当な覚悟が必要でしょう……その覚悟、挫けそうな時、妾では力に成れませぬか……粉雪の一件も然り。共に乗り越えられませぬか」
「た、玉ちゃん……」玉江の思いに、百合の目に涙が溢れる。
お役目を続ければ、これからも多くの命を奪う事になる。命を奪う事への恐怖を一人で背負い込むのは、百合には重過ぎた。
だけど、玉江が居る。こんなにも百合の気持ちを、心を知っていてくれる玉江が居る。
百合は、自分の前に跪く玉江の姿を見て、自分の心に重く伸し掛かっていた不安が、少し軽くなった気がした。
「ありがとう、玉ちゃん……」
「孰れ、死が二人を別つ時まで、共に戦える事を妾は嬉しく思います。微力ながらこの玉江、主の力に成りとうございます……」
「玉ちゃん……」
百合が涙を流しながら、玉江に手を差し出すと、玉江も手を差し出す。
二人の手が重なり、長い間お互いを見詰め合っていた。
○療養○
「神崎さん、回診です」
次の日の朝、病室の扉をノックして、三十代半ばの女医と若い女の看護士が入って来た。
「どう?具合は?」女医が、カルテを眺めながら聞くと、
「あっ、はい……もう、何とも無いと思います」百合が、ベッドの縁へと座り直して答えた。
「そう……胸開いて」
女医は聴診器の準備をし、百合はパジャマの前を開く……そして、公開するには忍びない低脂肪乳をAAAカップのブラと共に曝す。冷たい、聴診器の感触が少しくすぐったい。
「良い見たいね、じゃ、今日、血液採取して……うん、心電図と脳波も……うん、そうして」
女医が、看護士に検査の指示をしている。
ちょっとイメージがきつそうな黒渕の眼鏡を掛け、長い髪の毛をアップに纏めている女医は、神坂静香と言い、彼女も鬼の血筋の者だが、発現はしていない。それと、不必要な情報ではあるが、彼女は美人の上、百合が嫉妬する事を諦めるぐらいの巨乳だ。
「明日、もう一度、心電図と脳波を取って……良ければ午後には退院ね」
そう言って微笑む神坂医師の胸を『あの胸の三分の一でも良いなぁ……』と、思いながら、ぼーと羨ましそうに百合が眺めていると、
「……どうしたの?」百合の視線を感じた神坂医師と目が合い、
「あっ、いえ……ありがとうございます」百合は顔を赤くして、慌てて目を逸らした。
「昨日も言ったけど、神崎さん。無茶し過ぎよ……役目を頑張るのは良いけど、自分の力の限界も考えてね」
「はい……」医師に言われ、自分が未熟である事を改めて思い知り、百合は力なく頷いた。
「特に貴方にはオーバースペックの白狐が憑いているのだから……」
「オーバースペック?」
「あの白狐を憑けるには、今の貴方の能力じゃ力不足だって事」
「えっ?……ええ……」自分でも分かっている事を改めて言われて、百合は少し落ち込んだ。
「本当に分かってる?……一度、ちゃんと説明した方が良さそうね」
落ち込む百合を見て、医師は優しく微笑みながらベッドの横の椅子に足を組んで座った。
百合は、医師の組んだ細く長い足に一瞬目を奪われたが、目を強く瞑り自分はノーマルだと言い聞かせ、医師に惹かれる自分を抑制した。
「……どうか、した?」百合の不自然な行動に、医師は不審そうに百合の顔を覗き込む。
「……いえ……別に……」百合は思わず顔を赤くして、俯いた……私の馬鹿……と。
「鬼の血を持つ者は、基本的には普通の人とは変わらないけど、体質に特徴があるの。だから瑾斂宗の系列病院には、私の様な専門の医者が居て、貴方達の治療に当たっているの」
「はい……」
「鬼の血筋の特徴として、普通の人達から比べたら長寿だと言う点があるわね。その分、成長も老化も遅いでしょ。個人差はあるけど……貴方も初潮は十五・六歳の時じゃなかった?」
「ええ……」去年、修行の旅先で初潮を迎えた事を、百合は思い出した。
「鬼の血筋の者は、その第二性徴期が始まる前後から気の力が現れ出すの。そして、あやかしを憑ける事が出来る様になる。今年で十七歳に成る貴方は、まだ成長の途中なのよ」
成長が始まったばかりと聞いて、百合は胸に対して儚い希望を抱いた。
「普通……お役目に成るには十八ぐらいで、親とか師匠に付いて修練を積んで、二十前後であやかしを憑けるんだけど……貴方は早すぎるわ。まぁ、貴方の師匠、鬼追一門の鬼追國仁が太鼓判押してる実力なら大丈夫だとは思うけど」
「はあ……」
「それにね、あやかしが憑くと言う事は、何も貴方の能力が上がる事じゃ無いのよ……あやかしの能力を借りるだけ……だから、その能力に必用なエネルギーは貴方持ちになるのよ」
「それは……聞いています」
「あやかしが憑くと、身体能力が上がったり、気を特殊な物へと変化させられたりするけど、元となるエネルギーは本人持ちだって事……理解している?」
「たぶん……」百合は、理解してるのかと聞かれ自信無げに返事をする。
自分が聞いて理解していると思っていても、専門の医師が説明する事では重みが違う。
「一般に、取殺されると言う言葉があるけど、普通の人に憑者が憑くとそうなってしまう……例えば、軽自動車に、F1のエンジンを積んでも、エンジンのパワーに負けて、車体が直ぐに崩壊してしまう。つまり死んでしまうって事。貴方の場合、例えるなら、そうね、貴方に憑いている白狐がロケットエンジンで、妖狐がジェットエンジンって所かしら……貴方は、小型トラックってレベルかしらね、何とか積み込める程度の」
「小型トラックですか……」
イメージは分かるが、小型トラックがロケットエンジンを積んでいる所を想像して、そのシュールな姿に、百合は少し戸惑っている。
「それにロケットエンジン積んで、全開で突っ走れば、あっという間にばらばらよね」
「確かに……そうですね……」ばらばらになった自分を想像し、百合は青ざめた。
「だから、白狐を憑けるなんて、貴方自身のスペックが大型トラック位にならないと、本来は危険な事なのよ」
「大型トラックですか……」百合の脳裏に、大型トラックのシュールな映像が浮かんだ。
「そして、気を付けないといけないのは、怪我をした時とかの痛みも、あやかしが憑いていると消えるでしょ……だけどこれはとても危険な事なの……」
「危険な事?」
「そうよ、痛みとは警報なのよ、体の痛んだ所が警報を発しているのに、それを無視して酷使すると……分かるでしょ……それと身体能力が通常よりも上がると言う事は、限界レベルで筋肉や骨格を酷使しているの。例え、鬼の血を引き継いでいるからと言っても、人間には変わりないわ。怪我とかの治りが普通の人より早いけど、筋肉も骨格も普通の人と同じなのよ。憑者を憑けて、リミッターが外れて通常の何倍もの運動をして、それが痛みとか疲れとかの警報を発しないと言う事は、"限界"を超えているのに分らないと言う危ない事なの」
「…………」
「それと、貴方達の気は〝魂の力〟で作られるの。気は修練次第では幾らでも作れるけど、当然限界は有るわ。なのに、気を使い果たしても尚、限界を超えて気を使えば、魂が削られて死に至るのよ……今回の貴方も可也危なかったのよ。どんな状況だったかは知らないけど、あれ以上気を使ったりして居たら……こんな程度では済まなかったわ。だから鬼の血を持つ者の宿命とは言え、気を付けないとね」
「…………」
百合はあの時、まだ戦う積もりで鬼斬丸に気を込めていた事を思い出し『危なかったんだ』と実感していた。
「あやかしを憑けると言う事が、とても危険な事だと言う事を、十分に理解してね」
「……はい……」
医師は話し終わると、百合に微笑みかけ部屋を出て行った。
そして百合は、改めて自分はまだまだ未熟だと思い知り落ち込んでしまった。
医師が出て行った後、それに合わせるかの様に、玉江と白菊が姿を現した。
「主、暫く暇する事を許して頂きたく参りました」
「えっ?いとまって……」 玉江の言葉を聞いて、百合は〝暇〟の意味が分からなかった。
「八幡へ……白菊の里に行って参りたく思いまして」
「えっ、八幡に……二人で?」
「白菊も、早く結果を知りたいでしょうし……」
玉江が優しく微笑む様に白菊を見ると、白菊は顔を曇らせ俯いている。
「そうか……私、まだ動けないものね……」
連れて帰ってやると言ったものの、今は動けない自分が、少し情けなかった。
「あっ、いえ……あの、人である主は、どの道、我らの里にはたどり着けませんから……」
「えっ?そうなんだ」言われて見れば当然かと百合は思った。
神の使いである白狐達の里に、人が入れる訳が無い。
「主、済まぬ。勝手するが許してくれ……」白菊が、思い詰めた顔で百合に頭を下げる。
「良いわよ、白ちゃん……白ちゃんだって早く帰りたいものね」
百合は、不安そうな白菊を元気付ける様に明るく答えた。
そして百合は気付いていた。玉江も勤めて明るく振舞っている事を。
それは八幡の里での裁きを不安に思う白菊の為だけではなく、粉雪を失った百合に対し、そして短い間ではあったが、共に戦った戦友を失った玉江自身の為に。
「では、主。御採択が下るまで、四・五日掛かると思いますが、これで勝手させていただきます」玉江が、百合の前で深々と頭を下げる。
「うん、気を付けてね……白ちゃんも元気でね……色々と助けてくれて、ありがとうね」
百合は、白菊が八幡の里へ必ず帰れると願いを込めて笑顔で別れを告げた。
「…………」しかし不安な白菊は只黙って俯いている。
不安そうに顔を曇らせる白菊を見て百合は、ある決心をした。
「白ちゃん、心配しなくても良いよ……もし、どうしても駄目な時は、私の所においでよ」
「……良いのか?……」
「ええ、貴方さえ良ければ、何時でも歓迎するわ……」
「……すまぬ……」白菊は百合の笑顔を見て、安心した様に少し微笑んだ。
百合は正直な所躊躇っていた。
白菊を受け入れる事は、役目に巻き込む事になる。
白菊が、無事に八幡の里に帰って幸せに暮らす事を望む百合にとって、それは選びたく無い道だった。
しかし、不安に押し潰されそうな白菊を見て、八幡の里も自分も白菊を拒否して、行き場所の無くした白菊が、又一人で孤独に怯える様な事だけは絶対に嫌だった。
「主、そのお言葉、お預かりしてもよろしいでしょうか?」
「えっ?」
「白菊を預かると言う事……」玉江が確認する様に百合に尋ねると、
「えっ、ええ、良いわよ玉ちゃん」百合は快く承諾した。
それを聞いて玉江は、
「承知しました。それでは、失礼します」安心した様に微笑み頭を下げた。
---◇---
次の日、前日の血液検査も良好で、脳波にも心臓も異常無しと言う事で、百合は退院する事になり、暫くは養生の為に鬼追家に厄介になる事になった。
中学生の時、二年半程を過ごしたこの村が、百合には故郷の様に思えて大好きだった。
緑がいっぱいで……いや、緑しか無いど田舎。
村の時間はゆっくりと流れていて、山や川も清浄で心が安らぐ。
百合が独立して出て行ってからも、まだ未成年の為、色々と鬼追家には世話になっている事も有り、一美は百合の部屋を、そのままにしてくれている。
まだ虚脱感が残り、体調が完全では無い上、粉雪の事や鬼頭の事で精神的にも参っている百合は、部屋の窓から外の緑を眺めながら、此処に帰って来て正解だと思った。
「百合姉、帰ってるって!」と言って、いきなり襖が開き少年が入って来た。
「あのね……レディーの部屋に入る時はノックぐらいしなさいよ」
「あっ、ごめん……」百合の言葉に少年は慌てて一歩下がり部屋の外に出る。
如何にも、ひ弱そうな少年を睨み付ながら、
「だいたい、あんたはねぇ……」と、百合は少年へと詰め寄る。
「あっ!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
百合の不機嫌を察して、少年は慌てて手で頭を包む様に防御してしゃがみ込んだ。
「もう、何もしないわよ……あんた、もう中学三年生でしょ!もっとしっかりしなさいよ!」
「へへへへっ」
百合が、殴らないと分かると、少年は照れ笑いで誤魔化しながら立ち上がった。
この少年は鬼追夫妻の息子で、名前を信仁と言い、百合より二つ年下の中学三年生だ。
これが中々の男前で、クラスの女子には人気があるだろうなと、百合は思っていた。
百合が鬼追家に世話になり始めたのは、中学一年生の時で、信人は小学校五年生だった。
物心付いた頃から、餌だけを貰う野良犬みたいな環境で暮らして居た百合から見ると、信仁が根性無しの甘えたに見えてしょうがない。
いたずら盛りの小学五年生、放任主義の一美に変わり、そんな信仁に百合は、少々きつい体罰を度々与えていた……百合に言わせれると、苛めでは無く、あくまでも躾だそうだ。
信仁も、それを分かっているのか、百合には良く懐いて、國仁から百合よりも数十倍きつい躾を受けた時、優しく慰めてくれる百合を姉の様に慕っていた。
「あら?身長、伸びたんじゃない?」
「へへ、もう三年生だからね、百六十cmだよ」
百合は信仁の顔を不審そうに見る。
確かに自分より背は高くなったのは分かるが、百六十cmと言うのは怪しいと思い、
「……百五十九……いや、八ね……」と、値踏みする。
「!えっ!……何で、分かったの!」信仁は自分の身長を言い当てられて驚いている。
「やっぱりか!そんなの見れば分かるよ」百合は信仁の額へ思いっ切り、デコピンをかます。
「いて!そんな……」
「はっ!まだまだだね!」
信仁は額を押さえて、怨めしそうに百合を見ている。
「信仁、百合ちゃん疲れてるんだから、邪魔しちゃ駄目よ……」
一美が一階から声を掛けている。
「大丈夫だよ、百合姉、熊より強いもん……ぶっ!……」
一階の方に振向いた信仁の背後から、百合は信仁の頬を思いっきり抓って引っ張った。
「その口が、災いとなる事を教えてやろう……」
「ふぇ、ふぇえみまへえん……」信仁は、頬の痛みに涙を流しながら謝った。
「十六の乙女に向かって、なんて事を言うのよ……」と、百合は信仁を睨み付け、
「おばさん、大丈夫でぇす」と、一美を心配させない様にと声を掛けた。
「そう、ほどほどにね……」
「はあい……」二人は一美へと返事を合唱した。
「まったく……何よ、熊より強いって?」
「だって、百合姉、熊に勝ったじゃないか……」
「えっ?……あっ、ああ……あんた達に騙されて、山にきのこ取りに行った時の事?」
「あの時、百合姉、熊に勝ったじゃん」
「あ、あれは、たまたま出会った熊からあんた達を守ろうとして、熊を睨み付けたら、向こうが逃げて行って……」其処まで話すと百合は、あの時の事は、今思えば粉雪が助けてくれたのかも知れないと感じた。
そして、あの時も……中学生の時、不良達に犯されそうに成った時、肩を押さえていた不良の力が急に抜けた事も。
「そうだよ、睨み付けるだけで熊を追っ払ったって近所でも有名になって……あれ、百合姉?」黙り込む百合の顔を信仁が、何事かと覗き込む。
「あっ……あ、それよりあの時、私がこの村に来たばっかりで、山のルールを知らないからって、騙すみたいな事して……秋頃には山の奥に入ったら駄目って言われているのに、私を保護者代わりにして……後で、散々怒られたでしょうが……」百合が腕を組み、信仁を睨む。
「……それ以上に、その後の、百合姉のお仕置きフルコースの方が怖かったけど……」
相当きついお仕置きだったのか、信仁は睨み付ける百合から顔を背けて、ぼそりと恨み言を呟いた……きのこ取りに誘ったのは、友達に姉の様な百合の事を自慢したかっただけで、決して騙す積りは無かったと言いたかったが、信仁は恥かしくて言えなかった。
「あんたね……あれ?それより、学校どうしたの?」
「夏休みだよ」
「あっ、そうか……」百合は夏休みと聞いて、少し懐かしい気がした。
「なら、勉強しなきゃね……受験生でしょ?」
「うん……まあ、そうだけど……」信仁は言葉を濁し、頭をかいている。
「何よ?」
「俺も、百合姉みたいに……高校行かずに、お役目に……」
「えっ?……あっ、馬鹿!何言ってんのよ!あんたなんか絶対無理よ!」
信仁の意外な言葉に、百合は戸惑いながらも、信仁を怒鳴り付けた。
「何でだよ!俺だって、修練積んで強くなっているよ!」
「馬鹿!私だって、二回も死に掛けたのよ!だから……だから……」
其処まで言うと、百合は自分の事を思い出した。
そう、自分も高校には行かず、お役目に成ると國仁に言った時の事を。
あの時、怒鳴り殴った國仁の気持ちが、今の百合には痛いほど分かってしまった。
「百合姉……」黙り込んでしまった百合を、信仁は不思議そうに覗き込んでいる。
「……親の気持、子知らず、か……」と、百合はあの時の國仁の気持ちを知り、申し訳無い気持ちと、自分の事を真剣に心配してくれていた國仁に、感謝の気持ちが込み上げて来た。
世の中そんなものだ。若さ故の無知。世間知らずで、周囲に心配をかける。
結局自分が、その立場にならないと分からないものだなと、百合は思った。
「ふん!あんたの考えなんて、直ぐに分かるわよ……ただ、勉強が嫌いなだけでしょ!」
「!」本音を言い当てられて信仁は、目を大きく開いて驚いている……分かりやすい奴だ。
「言っくけどね、私は成績が学年で一番だったのよ。真ん中あたりを、ふらふら浮いたり沈んだりしている、あんたとは違うわよ」一学年一クラスではあったが、一番と言うのは本当だ。
「じゃぁ、一番になったら……」成績の事を言われ、不機嫌な顔で睨み付ける信仁に、
「ほう……大きく出たね……やってみなよ、一番になったら、私が一緒におじさんに頼んでやっても良いよ」馬鹿にした様な目で、百合は腕を組んで信仁を見る。
「本当だな!」
「ええ、嘘は言わないわよ……新田の裕史君に勝って見なさいよ」
信仁の同級生の裕史君は学校でも有名な秀才だ……新田とは住んでいる地域の俗称である。
「うっ……」それが不可能である事を身を持って知っている信仁は、言葉に詰まった。
「ほら、ほら、勉強、勉強……宿題もあるんでしょ。私、少し眠るから……」
そう言って百合が、信仁の背中を押して部屋から出そうとした時、
「鬼百合の馬鹿……」と信仁が、ぼそりっと呟いた。
「何ですって!」
それを百合は聞き逃さず、怒鳴ると同時に信仁の頭を殴ろうと拳を振り出したが、信仁は百合の拳よりも早く身を躱し、一気に階段を駆け下りて逃げて行った。
「……あの子……私の拳を躱した……」百合は正直驚いた。
何時もなら、百合の方が格段に早かったのに、百合は信仁が言っていた修練積んでいるとの言葉を思い出し、信仁なりに頑張っているんだと思った。
信仁が出て行った後、百合は机の上に置いてある、刀袋から鬼斬丸を取り出した。
取り出した鬼斬丸を抜くと、刀身を十cm程残して折れている。
残りの刀身を鞘を傾け取り出す……すると急に悲しみが込み上げて来た。
「私が、未熟なせいで、上手く鬼斬丸を使いこなせなくて……ごめんなさい。お母さんが残してくれた雪ちゃんも、鬼斬丸も亡くしちゃった……ごめんね、雪ちゃん……ごめんね、鬼斬丸……ごめんね、お母さん……私、分かっているよ、皆に守られて、助けられて、今日までこれた事……私、一人じゃないんだって……分かっているよ。頑張るから、強くなるから、きっと強くなるから……見守っていてね……」
百合は鬼斬丸を見ながら、止まらない涙で机を濡らしていた。
---◇---
次の日、まだ太陽が顔を出さない早朝、百合は庭に出て軽くストレッチをしている。
今日は午後から本山へ、鬼頭との一件を報告にいくのだが、それまでの時間に一週間ろくに動かしていなかった鈍った体を、百合は解きほぐしていた。
「何時までも落ち込んでいたら、お母さんも雪ちゃんも喜ぶはず無いもの……」
百合は、そう前向きに考え、天から両親と粉雪に、何時か成長した自分を見て貰うんだと、そして又〝大きくなったね〟って、言ってもらうんだと強く心に決めていた。
「もう泣かないよ……もう迷ったりもしない」
そして百合はその言葉を、今は此処に居ない玉江へと送った。
百合が屈伸運動をしていると、玄関を出て前の道を走り抜けて行く信仁の姿が見えた。
「あれ?こんなに早く……山の方に走って行く……あいつもトレーニングしているのか……ふうぅん、頑張っているんだ」と、百合は少し感心した。
ストレッチをしながら、百合は鬼頭の話を思い出していた。
瑾斂宗がやっている事が、結果として滅火を発生させていると言う事と、それによって起こった化物達との大戦で、見捨てられて鬼頭の両親が死んだと言う事。
百合は、その事を確かめたかったが、誰に聞けば良いのか思い悩んでいた。
「確かめたい……だけど、どうやって……誰に話せば良いの?」
導厳や純慶を信頼しているのに、裏切り者の鬼頭の言った事を、気に成るからと言って、聞くには忍びなかった。
導厳や純慶の事を疑いたくは無いが、鬼頭の言った事が全て嘘だとは思えない百合は、そのジレンマに苛々していた。
百合はストレッチの後、軽く五キロ程ジョギングして家に帰った。
家に帰ると、脂っこい香ばしい良い匂がしている。
一美の作るベーコンエッグの匂いだ……コーヒーの香りもする……
「百合ちゃん、帰ったの?朝ごはん出来てるわよぉ」
「はぁい、直ぐ行きます」
一美のベーコンエッグは、カリカリの焼き過ぎぐらいの薄切りベーコンに、半熟の目玉焼きが二つ乗っている……百合の好物だ。
好きなんだが、一人暮らしだと面倒臭いもので、たまに作っても一美の様には上手く出来ない……だから、久しぶりの一美のベーコンエッグに百合は幸せを感じている。
「どう?体の方は?」
「うん、軽く走って見たけど、もう大丈夫みたいです」
「そう、無理しちゃ駄目よ」一美が焼き上がった厚切りトーストを皿に載せて百合に手渡す。
「ええ、徐々に慣らして行きます」はにかんだ笑顔を浮かべ、百合はトーストに噛り付いた。
「私も経験有るけど、魂が削れた時は、ちゃんと養生しないと回復が遅れちゃうわよ」
「うん……あ、おばさん。おばさんも前回の大戦に参加していたんですよね」
「ええ、信仁を生んで鬼の力が無くなっちゃったけど、私も参戦してたわ……女性は子供を生むと、八割以上の人が力が消えてしまから」
そう話す一美の姿を見て百合は意を決し、鬼頭の言った事を聞く事にした。
「あの、おばさん……」
「なぁに?」
百合は、鬼頭の言っていた滅火の発生に関する事だけを一美に話した……本山に見捨てられた両親の復讐、なんて話は、大戦に参戦していた一美には、とてもじゃ無いが出来なかった。
「だから、私、それが本当かどうか知りたくて……」
「……そうね、その話は昔から有るわね……」
微笑みながら静かに答える一美の言葉に、百合は驚いた……やはり本当だったのかと。
「でも、それを知ってどうするつもりなの?」微笑みながら問いかける一美に、
「……正直、分かりません……」百合は、困った様に首を振って答えた。
確かに、知った所で百合にはどうしたら良いのか分からなかった。
「それが、正直な所でしょうね……だけど、確かめないと、気持ちが落ち着かない……って、事かしら?」
一美の話し振りに、多くのお役目達は、この事を知っているのだと百合は思った。
「……多分、そうですね……でも、やっぱり事実なんですか?」
「分からないの、はっきり言って。確かに、気をコントロールした事による弊害で、滅火が発生したかも知れない状況は確認されているけど、そうでは無いと言える理由も有るの。だから本山で研究している人達にも、滅火の発生するメカニズムみたいな物は解明されていないの」
「まだ、はっきりしていないと……」
「そうなの、だからこそ、色々な事を言う人がいるわ……本山では、気をコントロールする事に関しても意見が分かれたりするみたいで……何処を優先的に行うかとか、変えるべきか、変えずに置くべきか、する事が無駄なのかどうか……本山の僧侶達の意見も色々なのよ……今は座主様が皆を纏めているけど、アンチが居るのも事実よ……だけどね、私達の役目にはあまり関係無いと思うのよ」
「何故ですか?」
「私達の役目は、そうね……言って見れば、目の前にある悪しき物を排除する事、その発生の謂れは関係無いと思うのよ」
「だけど……」
「そうね、多くの仲間が命がけで戦っているのに……関係無いは、ちょっと言い過ぎかも知れないけど……言うべきじゃ無い、かな……気をコントロールした事による弊害で、滅火が発生する可能性があるから止めろなんて……それを言うと、気をコントロールする事全てを否定する事になるのよ……例えて言うなら、山を崩したり、海を埋めたりして大きな工事をするわね、でもそれを自然破壊だと言う人も居れば、快適な生活が出来る物だと歓迎する人も居る」
「…………」百合は、一美の話を真剣に聞き入っている。
「山奥の集落では、トンネル一つで、救急車が早く着いて救える命もある……海では、コンクリートの防波堤を作る事で村全体を守る事が出来る、水不足の地域でダムは必要よね……でも、そんな事とは無関係な、命の心配をする必要の無い、都会の人達にとっては自然破壊に見えるし、お金の無駄使いにも思える……都会の人達にとって雨が降ってもただ鬱陶しいだけ、だけど田舎では命の心配をしなければならない所が沢山あるのよ……気の操作だって同じ事なの。だから、仮に気のコントロールが滅火の発生に繋がるとしても、気をコントロールしなければならない時があるの……それは、それでも悪い事だと言えるかしら」
ある人達にとっては善、しかしある人達にとっては悪。確かにそれは、百合にとっては判断し難い事だった。
「だから本山は、もし滅火が発生したら、封印して、監視して行く……今、出来るのはそれが精一杯だと思うの」
「それが本山の仕事……」
「そうね……だから私は、良いか悪いかなんて、判断出来ない……それに私達の仕事は気の流れを調査したり、人々に害をなす化物を退治する事。だから、役目を果たす為には割り切らなきゃね……」
「割り切る……」
「ええ、生き物にとって絶対悪である滅火。その発生に本山の行為が関わっているとして、それが善だとか悪だとか言うより、滅火の被害を最小限に留める事が、お役目がしなければならない事じゃないのかな?」
「……そうですね……」
「滅火に関わる大戦で、百合ちゃんは両親を亡くした……それとは、少し違うだろうけど、私だって、大切な親友を亡くしたのよ……俊幸さんに美代姉さん……それは悲しい事だけど、だからと言って本山のしている事を否定する気は無いわ……後は、百合ちゃんの……百合ちゃん自信が感じた様に判断すれば良いわ……」
「私の判断……」
「ええ、一つの事を考えもせずに鵜呑みにしては駄目。色々な事を見て、沢山の事を知って……多くの人の話を聞いて、どれが正しいのかを考えるの……私の話だって、間違っていると言う人だって居ると思うの……」
百合に取って、母親代わりの一美の話を疑う気など全く無かったが、鬼頭の言っていた事もまったくの出鱈目では無い事を知った。
「本山では、今、色々な資料を系統立てて集めて調べたり、各国の団体とも協議したり意見交換したりして、滅火を消滅させる方法を模索しているのよ」
「滅火を消滅させる……」
「そう、だから私は本山を信じたいの……うぅうん、少なくとも、導厳様達は信じるわ」
「おばさん……」
一美の微笑む顔を見て、百合も導厳達を信じたいと言う気持ちには変わりないが、何処か何かに拘っている自分が居る事に釈然としなかった。
○監査方○
「すみませぇえん……神崎ですけど……」
百合は鬼頭との一件を報告する為に、本山の事務局にやって来た。
「ようぉ、神崎」
カウンター越しに声を掛けた百合の背後から亜廣が声を掛けて来た。
「あっ、どうも、あの……」
まるで天敵に出会ったかの如く、百合はあからさまに嫌な顔をして亜廣を見た。
「導厳様だろ、聞いているよ、今お呼びするから、下で待っていなさい」
亜廣は百合の嫌悪の表情に気付かないのか、微笑を浮かべながら百合に応対した。
百合はそんな亜廣に『あれ?』と違和感を覚えた。
「あっ、あの純慶様も……」少し戸惑う様に百合が付け加えると、
「うん、分かってるよ」と、笑顔で亜廣は電話の内線を呼び出した。
人が変わった様な亜廣の様子に、百合は戸惑いながら事務局を出て、二階の会議室で待っていると、信じられない事に、亜廣が扉をノックしてから入って来た。
「神崎、導厳様方は間もなく来られるそうだから、済まないが、もう暫く待っていてくれ」
『うっそおぉ!何?どうしたの?全然人が違う!あんた、本物?』と、百合は驚いた。
「何だ、どうかしたか?」亜廣は、目を見開いて驚いている百合の顔を不審そうに見ている。
「あっ、いえ……すみません、ありがとうございます」
百合は、頭の上に?マークを幾つも並べながら、小首をかしげ礼を言った。
「あれから、又、死に掛けたんだってな……まったく、無茶をする……」
亜廣の笑顔が厳しい顔に変わった。
「はぁ……」何が言いたいんだこいつ、と言う雰囲気で百合は亜廣を見ている。
「女の子なんだし、もう少し、体を大事にしろよ……」
「はい……ありがとうございます……」女の子と来たかと、百合は白けた。
「命は一つしか無いんだ、大事に使えよ……」
「はい……」確かにそれは実感したよ、と頷く。
「大事に使えば、一生、使えるんだからな……」
「……」百合は一瞬、亜廣の言っている意味が分からず、目を細めて亜廣の顔を覗き込む。
そして、直ぐに『えっ?あっ!もしかして……今のおち?……笑う所?』と気付いた。
「あっ、やっぱり駄目か?……面白くなかったか?」
少し間をおいて、すべった事を知った亜廣は、顔を赤くして照れながら頭をかいている。
「ぷっ……」百合は、その亜廣の滑稽な姿に思わず噴出した。
「何だよ、タイミングが遅いよ」亜廣は百合が笑った事で、更に恥ずかしそうにしている。
「……すみません……でも、ちょっと意外で……」百合は笑いを堪えながら謝った。
「何がだ?」
「だって、亜廣さんがそんな冗談言うなんて、ちょっと意外で……」
「あっ、そうかな……はははは」
その、笑っている亜廣につられて百合も声を出して笑ってしまった。
「じゃ、私は仕事があるんで……」と、亜廣は微笑みながら合掌した。
「どうも、ありがとうございました」百合も笑顔で頭を下げた。
亜廣が出て行った後百合は、知れば亜廣も楽しい人なんだと思った。
亜廣はこの数週間、百合達の仕事の現実を多く見て回った。
化物との戦いで大怪我をしたお役目や、化物に食い殺され、肉片と成ったお役目、その悲惨な現状から、お役目達の過酷な仕事を知った。
お互いを知る事がコミュニケーションの基本で、お互いを知れば、そう悪い奴じゃない事が分かって来る。
百合はそう考えていると、ある事に気が付いた。
「……あれ?亜廣さんも一応、男よね……坊主だけど……」と、会議室で男性と二人っきりだったのに平気だった自分に気付き、
「ノーマルの道に近付いている……」と、男性嫌悪症が回復傾向にある事に喜んだ。
会議室で百合が、パイプ椅子に座って待っていると、暫くして、階段を登ってくる大勢の気配に気が付いた。
「百合、入るぞ……」百合が大勢の気配を不思議に思っている所に、導厳が入って来た。
「あっ、どう……も……えっ?」百合は椅子から立ち上がると、導厳に続く人達に驚いた。
導厳に続いて、純慶、魁延、衛智と、その他、百合の知らない大勢の僧侶が入って来た。
『何事が始まるの?……』と、百合は戸惑っていると、
「百合ちゃん、もう何とも無いの?」純慶が優しく声をかけて来た。
「はい、ありがとうございます……もう大丈夫です」
百合は純慶の美しい笑顔を見て、頬を染めながら礼を言った……まだ、回復は遠い。
百合と純慶が話している間に、衛智が机に座りノートパソコンを開いて準備している。
そして、初めて見る法衣姿の魁延が、若い僧侶達に指示をして机を並べ変えている。
「百合、こっちに座りなさい」
「あっ、はい……」机が並び変えられ、手招きする導厳に呼ばれ、百合は椅子に向かった。
コの字に並べられた机に囲まれた中央に百合は座る。
正面に導厳と初めて見る導厳より少し年上に見える小柄な僧侶が座る。
左の机には魁延と若い僧侶の一人が座りノートパソコンを開いている。
そして右の机に純慶とノートパソコンを持った衛智が座った。
「突然の事で驚いているかも知れないが、心配しないで欲しい……私は監査役の翔瀞と申す。先週起きた事に付いて君に話を聞きたいのだよ」
小柄で優しそうな顔の翔瀞と名乗る僧侶が、微笑みながら百合に説明をした。
「監査役……」初めて聞く役職に、百合の顔に緊張が走った。
「あっ、別に堅苦しい物では無いので、余り気を張らず、楽にして良いよ……」
大柄な導厳の隣に座り、小柄な体型が更に小さく感じる翔瀞が、百合の緊張した様子を察し、優しく声を掛けた。
「百合、気兼ねせずとも良いぞ、翔瀞はワシにとっては兄の様な方じゃからな」
導厳はそう言って、体格差のある翔瀞の肩を乱暴に抱いた。
「これ……導厳、よさんか……」翔瀞は笑いながら、導厳の手を迷惑そうに払い除けた。
百合は、そんな二人を見て『仲が良いんだ……』と思った。
「さてと……では、話してもらおうかな……」翔瀞が微笑みながら百合に声を掛けた。
「えぇえと……何から話したら良いのでしょうか?」
聞かれた所で色々とあり過ぎて、百合は何処から話せば良いのか分からなかった。
「うぅむ、そうだな……魁延の報告によると、君は上北山村の一件が終わって、荷物が旅館に置いてあるからと言って、一緒に帰る事を断ったね……」
翔瀞は分厚い書類の束を捲り、目を通しながら百合に尋ねた。
「はい……」
「それからどうした?」書類から顔を上げた翔瀞の目は、冷たい光を発していた。
「えっ?はぁ……旅館に帰りました……」百合は、その目に少し戸惑いながら答えた。
「何処にも寄らずに?」
「はい」
「うむ、では其処から話を聞こうか……」
「はい……」百合は、容疑者が取調べを受けている様な雰囲気に違和感を覚えた。
百合は、旅館で聞いた玉江の話は飛ばして、露天風呂から出て、鬼頭から電話があった所からから話し出した。
「……なるほど、それで君は、それを確かめに行こうと下北山村に向かったんだね……」
話の途中で翔瀞が、冷たい目で百合を見ながら、話に割り込み尋ねて来た。
「はい」
「しかし、君が疑問だと言った事は、言葉の取り違いで、どの様にも意味が取れると思うのだが……何故君は鬼頭が怪しいと判断したのかね?」
「えっ?それは……」何となく思った事に、何故と聞かれて百合は答えに困り戸惑っている。
「どうしたね?」百合の戸惑う様子を、翔瀞は不審そうに目を光らせる。
「いえ……何となくです……だからこそ、確かめたくて……」
「明確な理由は無い、と……続けて……」翔瀞は何かメモを取り、百合に再び視線を向ける。
「はい……」百合はそんな翔瀞を見ていると、段々と腹が立って来た。
それから、百合は下北山村に向かい、涼彦に会った事を話した。
「下北山村は広いのに、そんな直ぐに、涼彦と言う天狗に出会えたのかい?」
「相手は天狗です……超感覚の持ち主ですよ、見付けるのは簡単だと思います」
再び話しに割り込んで来た翔瀞に『またか……』と、百合は更に不機嫌に成る。
「では、君達は鬼頭が何をしているのかを探るのに、堂々と姿も隠さずに行ったと?」
「ええ、隠れても無駄ですから、それに探るだなんて、只、話を聞きに行くつもりで……」
「夜中の一時過ぎに?ただ話を聞くために?」
「何なんですか!さっきから!私を、何か疑っていらしゃるんですか!」
翔瀞の揚げ足を取る様な細かい質問に、百合は訳の分からない苛々を爆発させた。
「百合!落ち着け!」立ち上がって叫ぶ百合を、導厳が手を差し出し制止する。
「疑っている訳では無いのだよ……ただ詳しく話を知りたいだけなんだよ、すまないが、協力して欲しい……まあぁ、座りなさい……」翔瀞は微笑みながら、百合に優しく言った。
しかし、微笑む翔瀞の目は、冷たい光を放ったままだった。
「涼彦とは、随分長く話していた様だけど……何を話していたのかね?」
「話していたのは、私に憑いている白狐の玉江さんです……涼彦さん、悩んでいたみたいで」
「悩んでいた?」
「えぇ、鬼頭が最近変わったって」
「変わったとは?」
「詳しくは……ただ出会った頃は、涼彦さんも良くして貰っていて、楽しかったって……でも最近、鬼頭が何を考えて居るのか分からないって……」
「変わったのはいつ頃から?」
「分かりません……聞かなかったから……」
「確かめる為に、話を聞きに行った割りに……確信には触れていないんだね」
「そんな!涼彦さんにだって、言いたく無い事ぐらい有ります!無理に聞き出すなんて、そんな気は有りません!」百合は、細かい指摘をする翔瀞に腹が立ち、再び立ち上がり叫ぶ。
思わず叫んでしまった百合を、導厳が辛そうな表情で見ている。
純慶も黙ったまま俯いている。二人の雰囲気に百合は、漠然とした不安を感じた。
「続けてくれるかな」微笑んでいた翔瀞の顔が、急に厳しい顔になり、百合を睨む。
百合は、周囲の雰囲気に不安を抱きながら、ゆっくりと座りなおし話を続けた。
それから涼彦に、結界の石積みの部屋に案内された事、其処に滅火があった事、其処に鬼頭がやって来て、滅火を開放しようとした事を話した。
続けて、導厳や純慶の前で話しても良い物かと少し話す事を躊躇ったが、鬼頭は両親が死んだのは本山のせいだと思っている事、そして、両親が死んで惨めな思いをした事に対して、本山に復讐する気である事を、言葉を選びながら慎重に話した。
それから涼彦が滅火の封印を解こうとした事、それを粉雪が止めようとした事、そして、涼彦を止める為に涼彦と粉雪を滅した事を話していると、百合の目には涙が溢れ、話す言葉が途切れ途切れになり、最後は手で顔を覆い百合は泣き出してしまった。
もう泣かないと決めたのに、粉雪の事を思い出すと、百合は我慢出来なかった。
「翔瀞様……少しよろしいですか……」純慶が百合を見て、立ち上がり翔瀞に尋ねる。
「あぁ……」翔瀞は表情を変えずに、冷たく返事をした。
純慶は百合の傍に来ると、百合の肩を抱いて、
「大丈夫……辛いのなら、今日はもう良いのよ」と、泣いている百合に優しく声を掛けと、
「純慶、そう言う訳にも行かんのだかな……」と、翔瀞が冷たく純慶の言葉に釘を刺す。
「でも、翔瀞様、この子は病み上がりなのですよ!それに、とても辛い思いをしているのですよ!少しは、慮ってやっても……」純慶が翔瀞の言葉に激しく抗議していると、
「大丈夫です。純慶様……もう大丈夫です……」
百合は顔を覆っていた手を、肩を抱いてくれている純慶の手にそっと添え、純慶を見た。
「百合ちゃん……」涙を溜めて無理に微笑む百合の顔を、純慶は心配そうに見詰めている。
百合は純慶の手を、安心させる様に笑顔で頷きながら強く握った。
そんな百合を見て純慶は静かに頷き、心配そうに百合を見ながら席に戻り座った。
「では、続けてくれるね」
「……はい」百合は涙を袖で拭い、翔瀞を真っ直ぐに見る。
百合は、その後、結界の石積みの部屋を出て、鬼頭を追って行き、滅火を封じた剣を見た事、怒りに支配された自分が、鬼頭と戦い殺そうとしたけど、逃げられた事を話した。
翔瀞は、パソコンを打っている若い僧侶と暫く何かを話してから百合に向き合った。
「では、聞くが、何故、涼彦は君達を滅火の所まで案内したのだろう?」
「……分かりません……」
「何故、分からないのかね?」
「何故って……涼彦さんは話してくれなかった……いえ、話そうとしてくれたのかも知れませんが、その前に鬼頭が来て、言えなかったのかも知れません」
「それでは、君達は何故、鬼頭が近付く事が分からなかったのかね?」
「それこそ、分かりません……超感覚を持っている粉雪さんも涼彦さんも気付かなかったんですから……私なんか、分かるはずありません」
「……本当に、鬼頭は後から来たのかね?」
「えっ?」百合は、翔瀞の質問の意味が分からず聞き返した。
「鬼頭と其処で、待ち合わせをしていたのでは無いのかね?」
「それって……どう言う意味……」百合は、翔瀞の質問の意味が理解出来ない。
「はっきり言おう……君達二人は、両親を失った事に逆恨みをし、結託し復讐を企て、滅火を開放しようとした。君は上北山村で見付けた滅火の結界を解こうとしたが、証念様に邪魔をされた上、滅火が埋まっていたので諦め、アリバイ作りの為に本山に通報した後、下北山村の方で鬼頭が見付けた滅火の方へと向った」
「な、なんなの……」百合は初め、翔瀞が何を言っているのか理解出来なかったが、どうやら自分は裏切り者と疑われている事を知って驚いた。
「君達は滅火の力を剣に取り込む事に成功したが、互いにその強力な力を独占したくなり、仲間割れをし、二匹のあやかしを失った」翔瀞が、冷たく突き刺さる様な目で百合を睨みながら言うと、
「なんだと!」百合は、反射的に叫び立ち上がって、
「黙れ!雪ちゃんの名を汚すなぁ!」翔瀞に向かい反射的に飛び掛った。
が、翔瀞に掴み掛る寸前、立ち上がった導厳に空中で両肩を前から突き出す様に押され、反動で後ろに倒れ転がった。
「だめぇ!百合ちゃん!」
再び、翔瀞に飛び掛ろうと、立ち上がりかけた時、純慶が横から飛び付き百合を止めた。
純慶は、涙を流しながら百合に抱き付き、百合と一緒に崩れる様に床に倒れ込んだ。
「何なのよ!私が鬼頭と結託したって?私が裏切ったって言いたいの?だったら……だったら、雪ちゃの死は何なのよ!」
床に倒れ、右手で翔瀞を捕まえ様と差し出し、百合は涙を流しながら叫ぶ。純慶は、翔瀞へ進もうとする百合を必死に抱き付き押さえながら、涙の流れる目を硬く閉じている。
「私が裏切ったと言うのなら、雪ちゃんは何の為に死んだのよ!雪ちゃんは何だったのよ!雪ちゃんに謝れ!雪ちゃんに謝れ!雪ちゃんに謝れぇ!」
百合は悔しかった。あの時、自分の軽率な行動が原因で、百合達を救う為に犠牲に成った粉雪を、裏切りの果ての仲間割れで死んだと言われ、粉雪の気持ちを踏み躙られた思いに、百合は胸が張り裂けんばかりの怒りに身を震わせた。
「雪ちゃんは、雪ちゃんは、皆を助けるために犠牲になったのよ!滅火から、皆を助ける為に、自分から進んで犠牲になったのよ!なのに、なのに……雪ちゃんに謝れ!謝れ!謝れ!謝れ!雪ちゃんに謝れえぇぇぇ!」
最後まで、ずっと自分を守っていてくれた粉雪、深い後悔と無念の思いに苦しんでいる玉江……二人の心を思うと、百合は翔瀞の言葉が許せなかった。
「翔瀞様!言い過ぎです!それでは、命がけで滅火を守った、百合が可哀そうです!」
純慶が百合を必死で押さえながら翔瀞を見て、血を吐く様な叫びを上げる。
「……兄者……わしからも言う……百合はそんな奴ではないぞ……」
導厳は腕を組んで座り、真っ直ぐに百合を見ながら静かに言った。
「翔瀞様……私は、ほんの一時しか神崎君を知りませんが、神崎君がその様な事をするとは到底思えません」魁延も百合を見ながら静かに言った。
「……ふぅ、まったく、損な役割じゃな……録音はもう良い」翔瀞が若い僧侶に指示をする。
そして翔瀞が立ち上がり、部屋の出口へと向いかけると、
「待て!帰るな!雪ちゃんに謝れ!」百合は更に、翔瀞を掴もうと手を伸ばし叫ぶ。
「百合ちゃん……」純慶が百合を抑える為に更に強く抱きしめる。
翔瀞が百合の叫びに立ち止まり、少し間を置いて百合に振向くと、
「すまん……」と言って、百合に深く頭を下げた。
「えっ?」予期しない翔瀞の態度に百合は戸惑った。
「人とは、追い込めば、本音が出るもの……神崎、君が自己保身の為の言訳をしたら、更に疑う事になったやも知れんが……そうか、死んだ友人の名誉の方が大切か……すまぬ、試す様な事をして……」翔瀞の目から冷たい光は消え、慈愛深い目で百合を見ている。
「…………」百合は、翔瀞の変わり様に戸惑い言葉が出ない。
「上の連中にも色々と言う者が居ってな……そ奴等を納得させる説明が必要なんじゃ……許せ、嫌な思いをさせたな……」翔瀞が微笑みながら、再び百合に深く頭を下げた。
「…………」百合は、そんな翔瀞を不思議そうに見ている。
「わしとて、少しは心が見える……ふっ、真っ直ぐな君の心がな……」
「翔瀞……様……」微笑む翔瀞の顔を見て、百合はやっと翔瀞の真意を理解し始めた。
「神崎……恥かしい話し、我々とて一枚岩では無いのだよ……だがな、導厳や純慶を信じ、これからも、励め……」翔瀞は、座っている導厳の肩に手を置き、導厳を見ると、
「兄者……」導厳も翔瀞の方を見た。
「後は頼む……わしは、これで上を納得させる……」
そう言って、翔瀞とノートパソコンを持った若い僧侶は部屋を出て行った。
○背負う物○
「では、私もこれで……」魁延が立ち上がり、導厳に向って合掌し一礼する。
「魁延……良いのか?監査役立会人の御主が、百合を庇う様な事を言って……」
導厳が皮肉交じりに笑みを浮かべ、横目で魁延を見ながら言うと、
「……全ては、御仏の御心のままに」再び魁延は合掌して一礼をした。
魁延は、百合を見て一瞬微笑み、そして若い僧侶達を連れて静かに部屋を出て行った。
「ふん、たぬきが……」
「導厳様、魁延さんは……」
「良い、言うな……あ奴にはあ奴の考えがある……」
導厳はそう言って、口元に笑みを浮かべたが、百合にはその意味が良く分からなかった。
同宗の中でも色々な派閥争いが、表には出ない水面下で、火花を散らしている事を百合は知らない。
ふと百合は、まだ純慶が自分を抱きしめている事に気が付いた。
『ああ……純慶様、良い香り……伽羅の香り?柔らかくって、暖かくて……』と、百合の本能が陶酔しかけた時、『だあぁぁぁぁ!だめえぇぇぇぇ!』と、理性が目を覚ました。
「純慶様!済みません……もう、大丈夫です……」百合は、近過ぎる純慶の顔に頬を染める。
「百合ちゃん、ごめんなさいね」純慶は、申し訳なさそうな表情で謝り、百合から離れた。
純慶は立ち上がると、席の方に向かって行き、百合も立ち上がり椅子に座った。
導厳は、百合の前で目を閉じて厳しい表情で座っている。
「導厳様、私、疑われているのですか?」百合が不安そうに導厳に尋ねると、
「うむ、済まぬ……そう言う者も居ってな。身内の恥を晒した挙句、嫌な思いをさせて、済まなんだ……」と、導厳が机に手を着き深く頭を下げた。
百合は、導厳が悪い訳では無いのにと、頭を下げる導厳を見て少し申し訳無く思った。
「この事は、もう気にするな。兄者が上手くやって下さる……」
「でも、疑われるなんて……私、そんな事……」思いもよらない事に百合は戸惑っている。
「……百合、どんな時にも、客観的に物事を見ると言う事は必要な事なんじゃ。本山に居るのは、日頃からお前を知っている我らだけでは無い。そう言った者達も納得ささねばならん」
其処まで言うと導厳は、少し百合の方に身を乗り出し、
「これは、他言無用の事だが……実はな、鬼頭だけでは無いのだよ」と、囁く様に言った。
「えっ?」
「今回……この騒動の中、造反者が鬼頭を含め、三名出た。だから、上は過剰に神経質になっておるんじゃ……」
「その人達も、同じ理由なのですか?」百合は、他にも造反者が居る事を知って驚いている。
「分からん……二人に接触したと思われる、お役目の者二名は死体で発見された」
「そんな……」
「人里を離れた、比較的小規模な滅火だった為、大きな被害にならずに済んだが……行方不明の二人は、恐らく鬼頭と同じく滅火の力を手に入れたに違いない……だが、まだ確認された訳では無いので他言は無用ぞ」
「……はい……」百合は導厳の話に、不安を隠せず、ぎこちなく頷いた。
造反者と接触して一人生き残っている百合が疑われるのは仕方が無いかと思ったが、全く身に覚えの無い疑いがかかっている事に、百合は言い知れぬ不安を感じた。
「済まなかったな。もう、帰ってよいぞ……ゆっくり休むがよい」
「……はい……」返事をしながら百合はある決心をした。
どうしても気に成っている鬼頭の言葉、それを確かめたいと。
「あの導厳様、よろしいでしょうか……おばさんにも聞いたんですが……」
「何じゃ?申してみぃ」
百合は、鬼頭に言われた事を再度伝え、それに付いて、一美に聞いた事も話した。
「うむ、そうじゃのう……確かに、滅火に付いて、はっきりと解明されてはいないんじゃ……のう、衛智」
「あっ、はい……」ノートパソコンを操作していた衛智が顔を上げ、
「そうですね、気の操作が、滅火の発生に繋がるとも思われますし、まったく関係無いとも思われます……決定付ける証拠が無い為に結論付けられないのです」と、百合を見て話した。
「そうね……だから、一美が言った事も間違いでは無いと思うのよ……仮に滅火の発生に関っていたとしても、気の操作をしなければならない時もあるの……」
「でも、神崎君の報告で、私達も発想の転換が出来そうです」
「どう言う事じゃ?」
「滅火を取り込める事です。鬼頭の剣にどれほどの量が納まったかは不明ですが、物理的に滅火を取り込める可能性があると言う事です」衛智は、新しい可能性に目を輝かせている。
「なるほど……」
「今、我々は滅火を消滅させる事を目的に研究していますが……なかなか上手く行きません」
「どうしてですか?」
「発生原因が特定出来ないからですよ……だから、どう対処して良いのか分からず、色々と試して見ましたけど……だけど、取り込む事が出来るなら、不安定な場所から移動させて、一元的な管理が出来る……うん、これが可能となれば随分と滅火の管理も変わりますよ!」
衛智が目を輝かせて力説しているのを聞いて、百合は自分の体験が思いもよらない所で役立ちそうな事が少し嬉しかった。
「衛智、もうよいぞ、下がっても……」
「あっ、はい……失礼します」
導厳に言われ衛智は、いそいそとノートパソコンと資料を片付けて部屋を出て行き、部屋には、百合と導厳と純慶の三人が残った。
「さて、百合……何を迷っておる?」
導厳は、衛智が出て行った事を確認すると、百合に向き直り、静かに問い掛けて来た。
「えっ?」急に声を掛けられ、慌てて百合は導厳の方を向いた。
「お前の心には迷いが見える……」
「…………」百合は導厳に本心を見抜かれ、驚いた顔で導厳を見た。
本当に聞きたかったの滅火の事なんかじゃ無い。鬼頭の言った見捨てられたと言う事。
導厳達を信じたい、いや信じているが、百合は鬼頭の言葉がどうしても気になっていた。
そんな心の乱れを、尋問に答える時の姿や、今の百合の態度から、導厳は感づいている。
「百合ちゃん、何か思い悩んでいる事があれば、話して……」純慶が優しく話し掛けると、
「でも……」純慶達を疑う様な事を聞く事に、百合には抵抗があった。
「我らには言い難い事か?」
「……はい……」百合は、正直に返事した。
「ならば、尚更……我らに対して、迷いを持ち続けて、役目が続けられるのか?」
「それは……」百合は、導厳に悩みの根源を突かれた気がした。
「あの……鬼頭が言った事なんですが……」百合は、覚悟を決めて導厳達に話し出した。
「……それで、鬼頭の両親が……本山に見捨てられて……だから死んだって……」
「…………」
導厳と純慶は静かに目を閉じ、黙ったままで動かない。
「そうじゃのう……それは、わしが背負わねばならない……業……」
「導厳様……」深く考える様に重く呟く導厳を、純慶は悲しそうな顔で見ている。
「見捨てた……そうかもしれぬ……先の大戦では多くの者が死んだ。それは、わしが救えなんだ者……見捨てたと言われても致し方無し……」
「そんな……」純慶が導厳に思わず声を掛ける。
「鬼頭の両親が死んだ時は、一番戦いが激しかった頃……八部隊の編成で、わしは目付けの一人として一部隊の陣頭指揮を執っておった……多くの滅火が同時に襲われ、占拠され開放され様としている滅火を、奪還する為に我々は展開した……何とか、一つ一つ確実に事を進めて行く中、形勢が危うくなる部隊もあった。だが、我らには、増援を送り込む余裕なぞ無く、全滅した部隊もあった……わしは、手堅く確実に、事を進める為に、心を閉ざし、一つ一つを確実に奪還して行く事のみを考えた……そして……結果、多くの犠牲を出した……」
「でも、滅火は守りました……」
「純慶……」
二人は、十四年前の悲劇を思い出し、悲痛な表情を浮かべ見つめ合っている。
「鬼頭の両親も、その時全滅した部隊に居た……百合の両親もな……わしは見捨てたのだ、大儀の為に……滅火を守ると言う大儀の為に」
「導厳様、でもそれは……」
「言うな!百合!……仕方が無い事だとでも言いたいか。人の生き死にを仕方が無い事と片付けられるか……わしはな、仏の教えを守り、人々を救う為に仏の言葉を探求して来たつもりじゃった……だか、わしは多くの者を見捨て!死に至らしめて来た!正に非道を歩んで来たんじゃ!はははは、お笑いじゃ!何が救いだ!何が教えか!何が道じゃ!……此処に居るは只の人殺しじゃ!救い様の無い外道じゃ!」
導厳は両手の拳を握り締め、歯を食い縛り、涙を流しながら苦悶の表情を浮かべている。
信仰と現実との壁。幾多の修行を乗り越えて来た導厳でも、まだそれは越えられない壁。
「導厳様!違います!物事を正しく見る事が出来なければ、正しい目覚めはありません!迷いを捨てなければ、正しく平等な判断は出来ません!導厳様は断腸の思いで迷いを捨て、正しく物事を見られたのです!結果、滅火は守られたでは有りませんか……」
「純慶、それは違うぞ……人の命は何物にも変えられん。わしはそれを救えなかった……そう、滅火を守る事と引き換えに、多くの者を見捨ててしまったのじゃ……」
見捨てた……そう、それは結果としての事実。百合には導厳の気持ちが素直に分かった。
助けたくても、助けられなかった無念……それは、百合も味わった無念……あの時、何故、粉雪が犠牲になったのか、百合は身を持って痛い程知っている。
「だけど、大事なのは、その命で何が出来るのか……では無いのですか?導厳様は私に仰っいましたよね、お前は何処から来て、何処へ行くのかと……己が何をすべきなのかと、何が出来るのかと……私はまだ答えを見付けていませんが、彼らは無駄に捨てた命では無いはずです!死んで行ったお役目の人達は、己の命で、この世を守ったんじゃ無いんですか!だから……だから、そんな事、言わないで下さいよ……死んで、行った人達が、可愛そうですよ……」
百合は粉雪の事を思い出し、大戦で死んで行ったお役目達と重ねていた。
粉雪がどんな思いで死んで行ったのか、お役目達がどんな思いで死んで行ったのか、それを考えると百合は涙が止まらなかった。
「負うた子に教えられ……か……百合、すまぬ……」導厳が深く項垂れる。
「導厳様……百合ちゃんも、いろんな事を経験しましたよ……」
「わしは、この事を背負って行く。多くの者の命を犠牲にした事を、一生背負って行く覚悟じゃ……今回も又、多くの者の命が犠牲となるやも知れんが、それも背負う覚悟も出来ている。百合よ、だから迷わずに付いて来てくれるか?」導厳が涙で赤くなった目で百合を見ている。
「……はい」百合は導厳の心を知って、覚悟を決め返事をした。
そう、それは百合も同じだ。百合は今まで滅して来た化物の命、助けてくれた粉雪の命、それらを一生背負って行く覚悟を決めた。