疑惑
○疑惑○
「♪We Will♪We Will♪Rock You!♪」
重く沈んだ空気の中、力強い着信音が鳴り響き、百合は慌ててテーブルに置いてある携帯を手に取り、皆が何事かと注目する中、満員電車の中の如く気まずい思いで電話に出た。
「も、もしもし……神崎です」口元を手で覆い、妙に気を使い百合は小声で話している。
「やぁ……百合ちゃん?……鬼頭だけど」『百合ちゃん?……百合ちゃんだと……』
鬼頭の言葉は、初っ鼻から百合の神経を逆撫でた。
「はい」『人がシリアスになっている時に、こいつは……空気読めよ!あっ、携帯か』
「聞いたよ……大変だったんだね……大丈夫?」
「あっ、どうも……大丈夫です」『何なのこいつ……』
「あっ、良かった……じゃぁ、そっちはもう終わったんだ」
「えぇ明日、帰る予定です」百合は怒りを悟られない様に、猫被りな声で話している。
「えぇ!もう、帰っちゃうのぉ……俺の方まだ、二・三日かかるんだよねぇ」『知るか!』
「へぇ……そうですか、頑張って下さいね」『さぼんなよ……』
「ねぇ、そんな事言わないで、食事でもしようよ……」『何考えてんだよ……えっ、食事!』
「……もう一日ゆっくりしてさぁ」『これはチャンスかも……男性嫌悪症の克服に……』
「はぁ……食事ですか……」『あの、軽い鬼頭さんを、利用するチャンスだ!へへへへ……』
「……そうですねぇ……」百合は、悪代官の如く薄笑みを浮かべた。
「新宮の方まで行けば、良いお店があると思うんだけど」『それじゃぁ……お寿司で!』
「えぇでもぉ、私一人じゃないしぃ……ご迷惑じゃ……」『此処は少し出し惜しみを……』
「良いよ、良いよ、皆で食べた方が、楽しいんだろ」『おごりなんだろうな……』
「でもぉ……一人増えちゃったしぃ……」『けど、当然、おごりだよねぇ』
「ああ、聞いてるよ。良いよ、良いよ、皆まとめて面倒見るよ」『よし、おごりだ!』
「すみませぇん……じゃぁぁぁ、お言葉に甘えてぇ……」『ご馳になります!』
「今、上北山村だろ……」
「はい」
「じゃぁ、明日三時頃に迎えに行くよ」『やっぱり……サボる気だな……』
「あの道の駅で待っててよ、ほら狐さん達と食事した所」『狐さんって……あんたね……』
「はぁい、分りましたぁ」『また、あの狭いのに乗るのかよ……ちっ……』
「でも……百合ちゃんて……よっぽど白狐に縁があるんだね」『ほっとけ!』
「はははは……そうですね」
「じゃぁ、明日……」『仕事しろ……』
「はい、ありがとうございます……」
よし!とガッツポーズで携帯を切る百合であった……チャレンジあるのみ!
「どうかしたのかい?……」粉雪が、百合の挙動を不審そうに見ている。
百合は落ち込んでる皆には、少しは気が晴れる話だと思い、
「あのね、鬼頭さんがね、稲荷寿司を、いぃぃっぱい、ご馳走してくれるって!」
手を大きく振り上るオーバーアクションで、皆に向って笑顔で知らせると、
「なんと!」
「!」
「えっ!」皆が目を輝かせ、驚いた顔で一斉に百合を見た。
「いっ、いっぱいって……どっ、どれぐらいじゃ?」
「主、それは誠か?」
「鬼頭が言ったのかえ!」皆が一斉に詰め寄り、百合を取り囲み口々に尋ねた。
「もう……本当よ!とにかく、好きなだけ食べさせてくれるって」
「おぉぉぉぉ……」三人は、目を輝かせて合唱した。
「でも、良いのかい。四人も……」粉雪が新入りの白菊を顎で指して遠慮気味に聞いて来た。
「うん、白ちゃんも増えた事……」其処まで言って、百合は急に言葉に詰まった。
百合は鬼頭との会話を思い出し、ふと、何故増えたのが白狐だと知っていたのだろうと疑問に思い、自分は本山への報告にも、白菊の事を"途中で出会ったあやかし”としか報告しておらず、魁延達にも、白菊の姿は見せてはいないはずと考えていた。
只の勘違いか、言葉の綾と言う事も考えられるが、百合には何か釈然としない物があった。
と言うのも、鬼頭に憑いている天狗の涼彦の事が、ずっと心に引っかかっていた。
野良のカラス天狗ならいざ知らず、猿田彦の眷属なら可也の実力者のはず。
その、神通は白狐以上に計り知れない。
確かに、三日三晩戦ったと言っていたが、それは変だ。
戦いを挑んだ所で、鼻から相手にされず、無視して何処かに行ってしまうのがおちだ。
強い奴ほど人間なんて相手にする訳が無い。
お役目達は、大差は無いとは言え、少しでも強いあやかしを憑けたい。
しかし、未熟な若い頃に強いあやかしに挑むのは、無謀だ。
決められた事ではないが、普通は十八歳位で先輩や親のお役目の弟子になって、修練を積み、そして、二十歳ぐらいで師匠の指導の下に、あやかしを縛る。
しかし、そのほとんどが待ち伏せして、寄って集っての闇討ちで呪縛する事が多い。
普通に考えても、あやかしが、のこのこと人前に現れる事は無いからだ。
「どうしたんだい……急に黙って……」急に黙った百合を訝しんで、粉雪が声を掛けた。
「えっ、うん……」百合は、自分の漠然とした疑問を、言って良いものかどうか迷っている。
「あのね……実は、鬼頭さんの事なんだけど……」
百合は暫く考えてから、やはり話しておくべきだと思い、皆に向って話し出した。
「確かに、誤解だと言えば、言えない事も無いねぇ……」
「しかし……主、それは、何かをお疑いなのですか?」
「別に疑っている訳じゃ無いけど……ただ、漠然と怪しいなって、感じで……」
粉雪と玉江の言葉に、百合にも自分の釈然としない気持ちの原因が分からず答えられない。
「されど、稲荷寿司を食わしてくれる、良い奴ではないのか?」白菊だけが脳天気であった。
「主の懸念も分る気がします……白菊の件、知っておると言う事は、我らは奴に監視されていると言う事になる……」玉江は、腕を組んで考え込んでいる。
「でも……何のために?」考え込む玉江に、粉雪は玉江の顔を覗き込む様に訊ねた。
「それが分らないのよ……」諦めた様に百合がため息を付いた。
「あそこじゃ、そんな気配は感じなかったけどねぇ……」粉雪が首を捻っているのを見て、
「滅火の気配で、分からなかったんじゃ無いの?」と、百合が考えながら小雪に言った。
「探ってみますか……」百合に視線を向け、玉江が提案する。
「探るって……お玉さん、相手は天狗だよ。私達の気配を直ぐに感付いてしまうよ」
超感覚の持ち主の粉雪だけあり、同レベルの者同士だと、此方が見えると言う事は、あちらにも見えると言う事が分っている。
「何も、隠れる必要等無い。堂々と行けば良い。そして、相手の出方を見る」
「でも、何かあれば危険だよ」何が危険かは分からないが、百合は不安そうな顔をしている。
「元より、承知……しかし妾と粉雪であれば、あの天狗如きに遅れを取る事はありますまい」
「それは、そうだけど……」玉江の言葉は頼もしいが、百合の不安は涼彦ではなかった。
「白菊、お前は主を守れ……良いな」
「えっ……でも……我は……」白菊は不安そうに、玉江と百合を交互に見ている。
「大丈夫じゃ。若輩とは言え、大狐に成れたであろう。たいした者じゃ」
「……いえ、あれは……瘴気に、当てられて……」
感心する様に褒める玉江に白菊は、おねしょがばれた子供の様に、恥かしそうにもじもじして俯いている。
「なんじゃ……なれんのか……」呆れた様に問い掛ける玉江に、
「面目無い……」白菊はしょぼんとして答えた。
「やはり齢百を越えねば無理か……まあ、良い。白菊は主の側に居れば良い」
「……承知……」
○主命○
粉雪は五尾の妖狐、玉江は白狐の姿で、林の上ぎりぎりをかなり早い速度で飛んでいる。
時速で言うと、百km/hは十分出ているが、玉江の狐火に包まれているため、百合は風圧を感じない。
百合は、玉江の背中に捕まり、白菊はその後を、狐火で身を包み一生懸命付いて来ている。
百合は時折、心配そうに振り向き白菊の様子を伺っている。
百合達は、旅館を出てあっという間に、鬼頭の受け持ちエリアの、下北山村の上空に来た。
小さな集落の灯りが、山間にちらちらと見える……大きなダムが照明に浮かんでいる。
百合は『こんな事して、鬼頭さん気分悪くしないかな?御寿司がなくなると、ちょっと残念だし……』などと、下らない心配をしていると、
「主!待って!」粉雪が叫び、玉江が空中で急停止する。
百合は何かあったのかと、月明かりの夜空の一点を凝視している粉雪を見た。
「来るよ!」粉雪が叫ぶと玉江は、粉雪の見ている方を見据え、警戒し身構えた。
その時、風の様なスピードで黒い影が、避け様と身を捻る玉江をかすめ交差した。
月明りの中、今度は後ろから影が迫ると、玉江は体制を整え、影を狙って狐火を放つ。
黒い影は狐火を弾き飛ばし、百合達から二十mぐらい前で静止した。
「動くな……」其処には黒い羽を羽ばたかせて、錫杖を構える涼彦の姿があった。
「あんたこそ……動くんじゃ無いよ……」
何時の間にか粉雪が涼彦の背中で、爪を剥き出しにした前足に狐火を蓄え、涼彦の首元を狙っている。
「ふん……狐如きが……」涼彦が表情も変えずにそう呟くと、
「きゃあっ!」二人の周りを急に竜巻が舞い、粉雪を吹き飛ばした。
「凄い……あれが天狗……」百合は涼彦の技を見て、無意識に鬼斬丸の束を握り締めた。
身動きせず、粉雪を吹き飛ばした涼彦を見て、百合は改めて天狗の実力を思い知った。
粉雪が吹き飛ばされるのを見て、玉江が自分の周りに狐火を五つ貯め身構える。
粉雪も直ぐに体制を建て直し、五尾を扇状に広げ、狐火を貯め構える。
「止めろ……争う気は無い」涼彦は、二人の臨戦態勢の姿を見て、錫杖を構えるのを止めた。
如何に天狗と言えど、齢千の白狐と齢五百の五尾の妖狐を同時に相手して、御互い無事では済まない事は涼彦にも分かっている。
「玉ちゃん!雪ちゃん!止めて!」誰も傷付いて欲しくない百合は大声で叫び二人を止めた。
百合の命令で二人は、涼彦を睨みながら狐火を納める。
白菊は、何時の間にか百合の後ろに隠れている。
「……涼彦さん、何か用なの?」百合が前方の涼彦に向き直り問い掛けると。
「それは、此方が問いたい。上北山に居る筈のお主等が、何用で此処まで来た」
涼彦がゆっくりと百合に近付きながら問い返す。
「あんたの主が、怪しいからだよ」涼彦の動きに警戒し、粉雪が百合との間に割って入る。
「何……」
「何をこそこそと隠れて、やっておるのかと、聞いておる」
「…………」涼彦は、只黙って二人を睨み付けている。
明らかに喧嘩を売っているとしか思えない二人を、百合はおろおろとして見ている。
「何を知っている……」
「ふんっ……何をして居るのかなど知らぬ。されど、見張られるのは好かぬ……」
「私達を、どうこうしようってんなら、覚悟しな……」二人は再び身構える。
玉江も粉雪も確信なんか無い。涼彦の腹を探っている。
「どうこうする気なんぞ無いわ……」涼彦は呆れる様に言うと、大きくため息を付いた。
「涼彦さん、私達の事見張っていたって……何か理由があるの?」
百合にも確証は無いが、明らかに何か隠している涼彦の様子が気になった。
「…………」
「何んとか、お言いよ!」粉雪が鼻にしわを寄せ牙を剥く。
その時、下の林道だろうか、車のヘッドライトの光が流れて行った。
涼彦が、車のテールランプ見詰めながら、
「此処では目立つ、付いて来い」と、言うと、木の葉落としの様に身を捻り込み急降下した。
玉江と粉雪は顔を見合わせると、粉雪が頷き、
「主、如何します」と、玉江が百合に尋ねた。
「付いて行くしか無いでしょ……」他に考えが浮かばない百合がそう言うと、
「承知」玉江が答え、粉雪と共に涼彦君が消えて行った方向に向かって降下した。
百合達が後を追って下の林道に降りたのを見ると、先に降りて待っていた涼彦は、林道を登り方向に歩いて行った。
玉江と粉雪は何時もの姿に戻り、百合達は周囲を警戒しながら涼彦の後を追った。
暗い林道を玉江達の後を進む百合の後から、白菊が狐火の光で道を照らし付いて来る。
林道は3メートル位の幅で舗装がしてあり、左は急な斜面が迫り、右は崖なのか、地面が闇に消えている。
満月の月明りが、所々に零れている杉の林の中を歩きながら、
「あの、涼彦さん……聞きたい事があるんだけど……」百合が遠慮気味に声を掛けた。
百合の問いかけに、涼彦は答える様子も無く歩いている。
身長百八十cm近くある涼彦を、身長百五十センチの百合が、小走りで追い掛けながら、
「ねぇ、涼彦さんてば、あの、鬼頭さんが、言っていたけど、縛るのに、涼彦さんを縛るのに、三日三晩掛かったって……本当なの?」と、問い掛けた。
「…………」涼彦は、変わらず無言で歩いている。
「あの、おかしいと思うの……私……」百合は、無視し続ける涼彦に段々腹が立って来た。
「ちょっと!聞いてよ!」百合は突然飛び出し、涼彦の前に立ち塞がって大声で怒鳴った。
「だから、何だと言うのだ……我、主が謀って居るとでも言いたいのか?」
百合に行く手を遮られ、涼彦は立ち止まり煩わしそうに答えた。
「別に、そう言う訳じゃ、無いけど……ただ、何となく気になって……」
涼彦に睨まれて、その眼力の迫力に負けて、百合は思わず目を逸らせた。
「気になって、だと……」一瞬、無表情だった涼彦が眉をしかめた。
「ふっ……やはり、貴兄は変わっている」大きくため息を付いて、涼彦は呆れる様に言うと、
「まぁ、座れ……」と、涼彦は道端に落ちている石に腰をかけながら、皆にも促した。
涼彦は会って間もない自分達の、そんな些細な事に気を使っている百合に、何となく親しみを覚えた。
百合達は、何時の間にか狭い林道から、少し広くなっている場所に居た。
其処は、五mぐらいの幅で石垣に挟まれ通路の様になっていて、奥の正面に石垣が見える所でT字路になっている。満月の月明かりが差し込み、石垣の高さは十mぐらいある事が分る。
「主の名誉の為に言っておく。三日三晩掛かったと言うのは本当じゃ……但し、わしを追い掛けるのにな」無表情だった涼彦の表情が少し緩んでいる。
「そんな……超感覚の持ち主の貴方が、逃げ切れない訳無いのに」
「ふふ、言うてくれるな、油断して居ったのじゃ……」涼彦が百合達の前で初めて微笑んだ。
「そうだな、鬼の血を持つ者を、甘く見すぎて居ったのやも知れん。わしも、暇潰しの戯事と、からかってもおったしな」笑顔を浮かべて話す涼彦は、何か楽しそうにも見えた。
「地面に……土の中に隠れて居った主が、わしにいきなり、タバコの脂を溶かした水を、掛けよった……ははは、わしはタバコの脂が苦手での、もがいている所を呪詛で縛られた」
闇討ちを食らった事を悔しがりもせず、涼彦は楽しかった思い出話しの様に話している。
「土中に居るのは分ったが……まさか、脂を持って居ようとは……ははは、口惜しかったが、所詮、後百年も生きられぬ人間……まぁ、これも修行と思てな、主と呼ぶ事にした」
やり方は卑怯な闇討ちみだが、実力に雲泥の差がある天狗相手に、一か八かの勝負を掛けた鬼頭は、結構根性があると言える。
「主との日々は、生まれて三百年、山に篭って居ったわしにとっては新鮮で、それなりに楽しかった……主はわしに、ようして下さった」
「なんだい、齢三百程度の若造だったのかい」粉雪が見下した目で、喧嘩を売る様に言うと、
「悪かったな、古狐が……」涼彦は粉雪の挑発に、むっとした表情で粉雪を睨んだ。
古狐と言われ、女心からか粉雪は、反射的に妖艶な顔に牙を剥き出しにして、
「古!私はまだ五百だよ!古いのはあちら!」今度は、玉江を指差し玉江に喧嘩を売った。
「……やば……」百合と白菊に緊張が走った。
思わず立ち上がり玉江を指差し叫んだ粉雪を、玉江は黙って睨んでいる。
気不味い沈黙の中、粉雪はそんな玉江を見て、つい口が滑った事を後悔し、
「えへへへ……」身を縮め愛想笑いを浮かべている。
「粉雪……誤解がある様だから、一言、言っておく。我は五百年、時の狭間に括られて居った故、まだ、五百五十ぐらいじゃ……古くは無いぞ」玉江の睨む目の迫力は見る者を凍らせる。
「ははは、あっ、そう……ごめん、ごめん……」粉雪は、気不味い笑いを浮かべ謝った。
玉江も所詮は女(?)か、日頃は齢千年とプライドを持って言っているのに、古狐なんて言われると、向きになる。
涼彦はそんな二人の様子を静かに微笑みながら見ている。
涼彦の笑顔を見て百合は『好い笑顔だな、悪い人じゃ無いみたいね……』と思っていた。
「やはり、貴兄等には、話すべきか……」微笑んでいた涼彦の顔が無表情に戻った。
「一つ問いたい……貴兄等は主命が誤りであると感ずる時は如何致す」
「えっ?」
「…………」突然の涼彦の問いに、二人は戸惑い涼彦を見た。
「……従うや否や?」涼彦は二人を見ながら再び聞いた。
「それは、場合にもよるだろうけど……主の命だからねぇ……まぁ、助言するかな。それに、私は主の事信じているし……」粉雪は、百合の方を向いて微笑んだ。
「それが、悪しき事であろうともか?」
「悪しき事って……〝誤った事〟って言うのと、〝非道な事〟ってんじゃぁ随分と意味が違って来るよ。誤った事なら、助言する……だけど、さっきも言った様に主を信じているから、非道な事なんて言う訳無いしねぇ」
「では仮に、主が非道な事を命じたら如何いたす……」
「主が、そんな事する訳無いよ!」粉雪が立ち上がり怒鳴った。
「……仮にと言うた……」
「仮でも、なんでも、無いもんは無いんだよ!」
「待て……所詮、その先は押し問答となろう……」
二人の会話を黙って聞いていた玉江が、静かに割って入った。
玉江は目を閉じ腕を組みながら、
「涼彦、御主は、主命を何と心得ておる……白菊、お前も良く聞いておけ」と言うと、静かに目を開いて涼彦を見た。
白菊は百合の後ろから、隠れる様に顔だけを出して玉江を見た。
「涼彦よ、何を迷っておる。例え非道な命であっても、従うのが主命じゃ」
「しかし……」
「善し悪しは主がお決めになる事……故に、善悪なぞ考えぬ」
「道に悖る事であったとしても?」
「善悪は微塵にも考えぬ……例え、罪無き幼子を殺せと命ぜられても、従わねばならぬ……それが、主命と言うものじゃ……」
玉江の言葉に粉雪は黙って横を向いている。
「されど……」
「涼彦、殺せと命ぜられたら殺さねばならぬ。死ねと命ぜられれば死なねば成らぬ。何故だか分かるか。それが成さねば成らぬ時だからじゃ」
玉江の言葉を聞いて百合は、何れ自分が玉江達に、死ねと命令しなければ成らない時が来るかる知れないと思うと、遣り切れなかった。
玉江達を縛り主従の関係を結び、命がけの役目に着けば、只の友達関係では済まない時が必ず来る。
そんな時自分は、本当に正しい判断が出来るのだろうかと、百合は不安だった。
そして、その時が来る事が怖かった。
「では、如何なる時も無心でしたがっていると」
「……如何なる時もと言うと、否と答えねばならぬな。涼彦よ、何を難しく考える。主のお心を知れば良い事では無いのか。そして迷いがあれば助言すれば良い。誤りがあれば正せば良い。それも使徒の務めじゃ。良いか、我が言って居るのは、主が迷い無く正しく下された命であれば、善悪等無いと言うたのじゃ。」
「詰まり、我らが納得して……」
「そうでは無い。我らは納得する必要など無い。例え理不尽な命であったとしても、その命が何故下されたか主のお心を知れば従えるであろう」
「粉雪殿も同じか?」問答が一段落し、涼彦は粉雪の方に向き直る。
「まぁ…難しい理屈は分かんないけどね…それで良いんじゃない」
軽い調子で着物の袖を振りながら、粉雪は微笑みながら百合を見ている。
「貴兄等は、主を信頼しておるのだな」
「そうでなければ、主とは呼べまい」
「そう言う事」
笑顔で二人を見る涼彦に、二人が笑顔を返している。
「確かに……それに神崎殿には、何か心を惹き付ける魅力があるな……」
「えっ?」魅力があると言われて百合は、恥かしそうに頬を染めた。
「……もう一つ良いか……」
「何じゃ」
「その主の心が、何処にあるか分からぬ時は如何いたす」
「………………」玉江は涼彦君の質問に、押し黙ってしまった。
「……それは、難しいな……本来、そうであれば、使徒として、お側に仕える意味が無い」
「…………」それを聞いて涼彦は厳しい表情を浮かべる。
「あえて、主のお心を、お叱り覚悟で問い直すか……」
「それでも、分からぬ時は」
「消えるのみじゃ……その様な者は、主にとって必要ではあるまい」
玉江は涼彦に向けて、きっぱりと言い切った。
「そうか……わしは消えるべきか……そうやも知れんな……」
涼彦の言葉の意味が分らずに、玉江と粉雪は不思議そうに顔を見合わせている。
「どう言う事?」百合が涼彦の思い詰めた顔を見ながら聞くと、
「……我、主は変わられた……」空を仰ぎ、ため息混じりに涼彦は呟いた。
「変わったって……何処が?」
「……」百合の質問に、涼彦君は空を見ながら黙り込んでしまった。
暫くして、
「わしは、主の心が知りたい……心を確かめた上で消えるかどうかを判断する……」
静かに話す涼彦の声は、何処か寂しそうだった。
百合は、涼彦と鬼頭の間に何があったのか心配だった。
闇討ちで縛られた事でさえ、楽しい思い出の様に話していた涼彦は、最近までは鬼頭と仲良くやっていたのに違いないと百合は思っている。
なのに、今の涼彦は違う。
涼彦がこんなに思い悩み話す、変わってしまったとは何なのか、百合はそれが心配だった。
「付いて来い、見せたい物がある」
そう言うと涼彦は立ち上がり、石垣の通路を奥へと進んで行く。
百合達は、顔を見合わせている。この先には何かある。
百合は、自分の疑問を確かめる為にも行くしかないと決断し、
「行きましょう」と、百合が二人に言うと、二人は頷き、粉雪を先頭に涼彦の後を追った。
○復讐○
涼彦は、奥のT字路を右に曲がり更に奥へと進む。
暫く進むと、通路の左端に何か大きな物が立っているのが見えて来た。
「ちょっと!お待ちよ!」
百合達の先頭を歩いていた粉雪が、急に立ち止まり涼彦の方へ大声を上げる。
「あんた!どう言うつもりだい!」
「どうしたの?雪ちゃん……」百合は何事かと、粉雪の傍に寄った。
涼彦君は、見えて来た大きな四角い物の前で百合達の方を向いて待っている。
暗い中、四角い柱の様な物が何であるか、百合の距離からでは確認出来ない。
「来れば、分かる」
「分るって、その奥にあるの……何か分ってんのかい!」
「……分っている……」
百合は二人の話を聞いて、其処に何があるのかと目を凝らし、前に出ようとすると、粉雪が百合の前で通せんぼする様な格好で道を塞いだ。
「主、だめだよ!行っちゃだめだよ……この奥には、昼間の、あそこと同じ気配がする……滅火の、滅火の気配がする!」
「何ですって…」滅火と聞いて百合は昼間の出来事を思い出し、思わず後ずさる。
「涼彦!どう言うつもりだ!」玉江が百合の前に立ち身構える。
「我、主が何をしているのか、見せたいだけだ」
そう言って涼彦は、柱の後ろへと回り、石垣に吸い込まれる様に消えると、百合は何が起こったのかと、涼彦が消えた場所を確かめに行こうとすると、
「だめよ!主!」と、粉雪が百合の腕を掴んで止めた。
「でも、確かめなきゃ……鬼頭さんが、何をしているのか……」
「だけど、滅火だよ!この奥にあるのは!だめだよ!危ないよ!」
粉雪は、必死に綱引きする様に百合の左手を両手で引っ張り止め様としている。
「でも、役目だから……調べなきゃ……」百合は、引っ張る粉雪の手に自分の手を添える。
「主……」
百合は、粉雪の目を見て説得する様に話すと、粉雪の手の力が緩んだ。
「主、何が起きるか分りません……憑きます」
「お願い、玉ちゃん」ゆっくりと粉雪の手を放し、百合は玉江へと振り向いた。
玉江が百合の背中に回り込み、青白い炎を上げて百合に入って行く。
粉雪も警戒して、五尾の妖狐の姿になる。
「白ちゃん、私達から離れないでね」百合が白菊に振向いて言うと、
「しょ、承知……」白菊は怯えながら、声を詰まらせ返事した。
「行きましょう」
百合達は、四角い柱に近付いて行った。
暗闇の中、柱が何であるか確認出来る距離まで来ると、其処には、高さ五m、幅が二m、厚みが三十cmぐらいの壁の様な石が立っていた。それは昼間見た物と同様、石には文字が刻まれていた跡があり、石碑だと思われた。 但し、昼間の物に比べると、石の材質のせいなのか、随分と表面が風化で削られていて、文字は読める状態ではなかった。
百合は、涼彦が消えた石碑の後ろへと回り込むと、後ろにある石垣に、一人がやっと通れる巾で石が崩れ穴が開いているのを見付けた。石垣は、随分と強固に積んである様で、その厚みは二mぐらい有り、開いている穴は短い洞窟の様になっていた。
その穴へ百合は体を横にして、崩れて角の出た壁面に体を擦りながら入ると、涼彦が待っていた。中は、幅が一mぐらいの通路で、壁と天井はすべて石積みで、三十cm角ぐらいの大きさの石が綺麗に並んで積んである。高さは、三mぐらいと結構高く、湿気の強い中は、かび臭い匂いに少しむせる。
何も無い真っ暗の空間を、涼彦の錫杖の先が松明の様に炎が上げて辺りを照らしている。
涼彦に明かりは必要無が、百合の為に照らしているのだろう。しかし百合も、玉江の狐火に包まれ淡く光り周りを仄かに照らし出している。それに、鬼の血筋の者は暗闇でも、普通の人と比べると可也夜目が利き、玉江の憑いた今は例え僅かな光でも、百合には十分見えていた。
「……特に、問題は無いわね……」百合は周りを見渡し、警戒している。
通路を向かって右に二十m程進むと、直角に左へと曲がっている。
角を更に二十m程進むと、向かって左の壁が入って来た入口の様に崩れている。
「こっちだ…」
涼彦は石積みの崩れた所へ、体を横にして擦り抜ける様にして入って行った。
百合は、立ち止まって涼彦が穴に入って行く様子を見ていた。
禍々しい圧迫感が伸し掛かり、此処まで来れば、その中に何があるのか百合にもはっきりと分かった。
「……あの奥に、滅火がある……」百合は、込み上げる恐怖を押さえつけながら呟いた。
「主……気を付けて……」粉雪は百合の横でそう言って、百合を庇かの様に前に出た。
「うん……」恐怖を抑えきれない百合は、ぎこちなく返事をする。
怖い……それが百合の正直な気持ちだった。
百合は、長さ二mぐらいの洞窟の様な穴に、粉雪の跡に続いて入って行った。
何かある……入ると直ぐに正面の大きな岩が目に入った。
入った所は、四方が高さ三mぐらいの石積みの壁で囲まれた、10メートル四方ぐらいの広い空間になっていた。
そして部屋のおよそ中央には、頂上が鋭く尖った大岩があった。
鋭く尖った岩は、高さが二mぐらいで、地面に埋っている根元の直径は一mぐらいあった。
「あそこに滅火がある……」百合は、未だまだ見ぬ滅火を前にして、恐怖で体が震えた。
百合が大岩を見詰めていると、その根元に何か細長い物が、大岩に沿う様に立っているのが見えた。
それは、十字の中央に丸く穴が開いていて、剣の柄とも思える形をしていた。
涼彦は岩に向かって立っている。百合達は入口の直ぐ側で横に並んで涼彦を見ている。
「それ、滅火の封印だね……その下に、滅火が……」
粉雪の質問に、後ろ向きのまま涼彦君は黙って頷いた。
「表の石碑と、この石積みの部屋が結界となっているか……」
玉江の質問にも、黙って頷いている。
「涼彦さん、その封印の根元にある、剣みたいなのは、何なの?」
「これは……」
百合の質問に涼彦が答えようとした時、
「これは、これは、随分と大勢のお客さんだなぁ……狭くて申し訳ない!」
突然の声に百合達は、飛び上がるぐらい驚き、後ろを向いた。
「鬼頭さん……」石垣の穴の前に立つ鬼頭の姿を見て、百合は驚き呟いた。
何時の間に現れたのか気付かなかった百合は、確認する様に粉雪を見ると、粉雪は百合の疑問を察したが、粉雪も目を大きく開けて首を左右に振っている。
「だめじゃないか、涼彦……皆さんをこんな狭い所に案内しちゃ……」
鬼頭は微笑みながら百合達を通り過ぎ、涼彦に近付いて行った。
「主……」
涼彦も突然現れた鬼頭に驚いて目を大きく開けている。
「なんだ、百合ちゃん、僕が、待ち切れなかったのかい?」鬼頭が軽い口調で尋ねると、
「あら、ごめんなさい、三時って聞いていたんでぇ、鬼頭さん、遅刻かなぁって思って……」
百合はそう言って、時間を確かめる様に腕時計を一旦見て、鬼頭に腕時計を見せる……午前三時四十分。
「あっ!ははははは……関西の人って、どうして、そう直ぐに突っ込めるのかな?はははは」
鬼頭は、涼彦の肩を抱く様に寄りかかり笑っている。
それを見て百合は『受けた!』と、小さな満足感に浸っていた……関西人の習性です。
「戯言は要らぬ……貴様、此処で何をしようとしている……」玉江が百合の中から問い質す。
「ちょっと、滅火でね……遊ぼうかなって……」
鬼頭が涼彦に寄りかかりながら小首をかしげ、にやりと笑い答えた。
「ふざけるな!滅火を何だと心得て居るか!」その軽薄な態度に玉江が激怒する。
「遊ぶって……どうする気なのよ」
「さあぁ、どうしようかなぁ……」百合の質問に、上を向いて軽い調子で鬼頭が答えると、
「何よそれ!ふざけないでよ!滅火なのよ!それが漏れ出したらどうなるのか、知らない訳無いのに、遊ぶって、どう言うつもりよ!」
百合は鬼頭のあまりの軽薄な態度に、思わず怒り、怒鳴り散らしてしまった。
「滅火が洩れたって知ったこっちゃ無いね……」
「な、なによそれ。何が目的なの……」
「うぅん……どうしようかなぁ……あまり言いたく無いんだけど……」
鬼頭は、帽子をずらし頭をかいて焦らしている。
百合は、そんな鬼頭が分からなかった。
同じお役目に就いているのなら、鬼頭も百合同様に滅火の恐ろしさは知っているはず。
なのに何故、鬼頭は滅火の前で平然と軽い態度が取れるのかと不思議だった。
「百合ちゃも、僕と同じだし……百合ちゃんになら、言っても良いかな……」
そして鬼頭はにやけ顔から一変して、上目使いで睨む様にして百合を見て、
「これは……復讐だよ……」鬼頭は押し殺した声で、吐き捨てる様に言った。
それは、百合が始めて聞いた、重い鬼頭の声だった。
「復習って……」突然の事に百合は訳が分からず戸惑っている。
「奴らに殺された、僕の両親の復讐だよ」
「奴ら……って、誰よ……」
「はっ、そんな事、分かってるじゃないか、瑾斂宗の坊主達さ!」
「何を言っているの……」百合は,再び理解出来ない言葉が飛び込んで来て更に戸惑った。
「僕の両親は、瑾斂宗の連中に殺された……って言ったんだよ」
「何よそれ!どう言う意味よ!」
「どう言う意味も……どうやら、信じてないね君は」
「当たり前よ!そんな事、ある訳無いじゃない!」
鬼頭の信じられない言葉に、百合は少しパニックに陥っている。
寺の人達を全て知っている訳では無いが、信頼している導厳や純慶達の事を思うと、鬼頭の言っている事は、百合には到底信じられなかった。
「君の両親だって、そうだろう……だから、分かって貰えると思ったのに……」
「私の両親は、化物との戦いで死んだ!」
「……だからだよ……」
「えっ?」
「涼彦……可哀そうに、百合ちゃんは、何も知らないみたいだよ」
鬼頭は、涼彦に寄りかかりながら薄気味悪い笑みを浮かべている。
「ねえ、百合ちゃん……君は〝気〟って何か知っている?」
「それは……」
「僕達の発する気は、僕達の体から発生する、所謂、力だよね……それは、ある意味純粋なエネルギーで、各個人の修練の結果、色々な方向性に変えられる」
「そうね、私達お役目達の力は、基本は同じだけど、その中でも修練によって色々な方向性を持って特化される。つまり、それが戦闘方であったり探査方であったりする……」
「うん、それと大地を流る気も同じなんだよ。大地を流る気……つまりは地球の力、純粋なエネルギー。星の息吹なんだよ……それは色々な特性を持って変化する。そしてそれらが絡み合い、星の息吹が集まって宇宙を作っている」
鬼頭は涼彦から離れ、一歩前に出て百合と向かい合う。
「考えてごらんよ。凄いよ、星の息吹って……地球の力って……だって、僕達の目に見える物、いや、見えない物も全て、星が作り出した物なんだよ」
鬼頭は大げさに両手を広げ、百合に説明している。
「地球が誕生して大地が固まり、大気や海が出来た……海では元素が融合し、有機物が出来、タンパク質等に変化し、バクテリアが生まれ、微生物に変化して行った……その単細胞生物はやがて魚となり、海草にもなり、そして陸へと広がって行った……生物は進化し、恐竜となり、鳥へと、哺乳類へと、枝分かれして行き、やがて人類が生まれた……これは、全て地球上で起きた事だ、太陽の力と地球の力によって起きた事なんだよ」
「それは、分かるけど……それと両親との話しにどう言う関係があるのよ」
百合は、鬼頭の話を不満げに目を細め、疑いの目で鬼頭を見ている。
「焦らないで……ちゃんと説明するからね」
鬼頭は、右手の人差し指を顔の前で立ててウインクしている。
その軽薄な態度に、百合は再びむかついた。
「その地球上で起きた事を、進化と呼ばれているけど、星の息吹が……つまり、気の流れが大きく影響している事は事実だ。そして、滅火もね……進化の過程においても、滅びは繰り返されて来た」
「滅びが、繰り返されて来た?」
「そうだよ、何も瑾斂宗が出来てから滅火が出来た訳じゃない……他の気同様、地球が誕生した時から滅火はあるんだよ」
「そうか……そう言われて見ればそうね……」
原始時代から瑾斂宗がある訳ではなく、その頃の滅火は制御される事無く流れてい事に百合は、言われて見て初めて気が付いた。
「寺の坊主達なりに、研究しているみたいだけど……恐竜の絶滅とか。そうそう、こう言うの知ってる?人類の祖先ってね、はっきりとは分からないんだよ。大まかな系列は分かっているけど……今の人類の直系のご先祖って、分からないらしいよ」
「どう言う事……」
「始まりは、鼠みたいな哺乳類が誕生して、猿になり、猿人になり、原人、旧人類……そして人類に進化して来たけど、進化と言うのは連続している物なのに人類の進化には、埋まらない部分が多くあるんだ……いろんな旧人類が独自に進化し、混血を繰り返したらしいんだけど……逆に、クロマニョン人、ネアンデルタール人みたいに進化途中で絶滅した種類もある……彼らは、まったく別種の人類で我々の直接の先祖じゃないんだ。ネアンデルタール人なんか、DNAレベルで違うから、混血も無理だと言う意見もある」
「それって……」
「繰り返されて来たんだよ……破壊と創生が……星の息吹でね」
「滅びが繰り返されて来た……何の為に……」
「さあぁぁねぇ……地球に聞く訳にはいかないしねぇ……でも、地球だって生きているんだ。進化したいんじゃないの?更なる高みを求めて……なんてね……」
鬼頭は最後に気障ったらしいウインクをして、更に百合の感情を逆撫でた。
「神話や伝説の中にも登場するよ。ノアの箱舟とかね……あっ、そうそう、ソドムとゴモラの市も、局地的な滅火ではないか、なんて言われているね。一箇所に発生する滅火が全てを滅ぼす訳じゃ無い。一箇所の滅火の影響範囲は限定されるからね……でも怖いね、西洋の神様は。皆殺しだよ、ははははは」
「えっ?じゃぁ……滅火って日本だけじゃないの?」
「当たり前じゃないか……馬鹿だなぁ」
「じゃ……外国にも私達みたいな……瑾斂宗みたいな人達がいるの?」
馬鹿と言われて百合は、ムッとした表情で問い返した。
「居るよ……まったく別の組織だけど、それを繋ぐネットワークも五百年程前からあるよ」
「そんな、昔から……」
「昔って、馬鹿だなぁ、人類の歴史から考えると、つい最近だよ」
『また、馬鹿って言った……』と、百合は鬼斬丸の柄を握り締め、心に芽生えた僅かな殺意を歯噛みしながら押さえていた……関西人に馬鹿は禁句です。
「つまり、滅火も大地を流れる気も同じものなんだよ。地球にとってはね……だけど、それを瑾斂宗の連中は自分達の勝手で捻じ曲げている……知っているかい、気の力を止めたり変えたりした時に弊害が起きる事を」
「えぇ、聞いた事があるわ、その為に無理が生じない為に瑾斂宗の人達は全体を見て監視しているって」
「監視か……そりゃそうだろうね、気の流れに逆らう事で、滅火が発生しているのだからね」
「なっ、何ですって!」
「知らなかったのかい……気の流れを変えている瑾斂宗のせいで、発生している滅火もあるんだよ」
「そっ、そんな……」
今迄、瑾斂宗が生ある者にとって危険な滅火を、封印したり監視したりして来たと聞かされているが、その瑾斂宗の活動が滅火の発生に関わっている事など百合は聞いた事は無く、また微塵にも疑ったりした事は無かった。
「自然の流れである気を、強引に流れを変えたり止めたりしたら、当然何らかの形で修復しようとする力が働く……それが滅火さ。太古の昔は、他の気同様に自然に発生して居たんだろうけど、坊主が不自然な力を加えるから、その弊害として発生する滅火も現れだした」
「…………」百合は、鬼頭の話を信じられない思いで聞いていた。
「さっきも言った様に滅火も他の気と基本的には同じなんだよ。ただ捻じ曲げられた弊害によって変質して……なんて言ったら良いのかな?濃くなった……って表現が一番合うかな?つまり濃度が濃くなって霊的な毒へと変質した」
鬼頭の話す事を丸呑みする気は無いが、全くの出鱈目とも思えなかった。
川の流れも途中で変えれば、その川の上流や下流にその影響が出るのは自然と分かる。
「霊的な毒は生きている者全てを滅ぼす猛毒……だけど毒は時として薬にもなる。下等な化物達は滅火の力を取り込んで強力になる……そして僕の両親は、十四年前の大戦でその化物達に殺された……瑾斂宗の奴らに見捨てられてね」
「見捨てられた?」
「そうさ、自分達の勝手で滅火を発生させておいて、化物達が暴れて、その後始末の役目に駆り出されて……そして、手に負えなくなったら、見捨てて使い捨てだよ……」
鬼頭は、軽薄な態度を一変させて、暗い天井を見つめている……悲しそうな顔で。
「結局、僕達の両親は奴らの後始末に巻き込まれて死んだんだよ……だから、僕は復讐する」
「だからと言って、滅火を開放するなんて事、して良いと思っているの!」
「良いか悪いかなんて、関係ないね。奴らも言っているだろ、善悪の間尺など、人により、時代により代わって行く物だって……あっ、間尺って、割合って意味だよ」
「知ってます……」『馬鹿にしやがって……』と、百合は鬼頭を睨み付ける。
「だから、復讐する……両親を殺された僕にとっては、それが正義だ」
「何言ってんの!何が復讐よ!子供みたいな事言ってんじゃないわよ!復習したければ寺の坊主に直接復讐しなさいよ!滅火を開放するなんて迷惑よ!やって良い事じゃないでしょ!」
「子供見たいは酷いな、はははは……でもね、滅火を開放する事で奴らを苦しめる事が出来るんだよ……奴等を殺す事なんか簡単だよ。だけど、誰が、そう簡単に楽にしてやるものか、苦しめるだけ苦しめて、そして、復讐してやる……それが目的さ、だから、その為に何が起きたって僕の知ったこっちゃ無いね」
「そんな……」
冷酷な狂気が走る鬼頭の目を見て、百合の背筋に冷たい物が走った。
そして、そんな目の鬼頭に、何を言っても無駄な事に気付いた百合に絶望が湧いて来た。
「百合ちゃんも、おいでよ……君の両親だって殺されたんだ。一緒に復讐してやろうぜ」
鬼頭が、百合に薄気味悪い笑みを浮かべながら、手を差し出した。
「わっ、私は……」
蛇に睨まれた蛙の様に、鬼頭の氷付く様な冷酷な目を見て、百合の体は硬直した。
「両親を殺されて、苦労したんだろう……その恨み、両親の無念を晴らしてやろうよ」
「うっ……」動かない体に戸惑いながら、鬼頭の言葉が百合の心に染み込む様に入って来る。
「さあぁ……一緒に復讐しようよ……」百合の心が、徐々に真っ白になって行く。
「…………」百合は無意識のうちに、鬼頭の差し出した手に向かって手を差し出した。
「あ、主!」その姿を見て、粉雪がうろたえる。
鬼頭の目しか見えない……そして鬼頭の目に心が惹かれ、次第に『自分も両親を殺されたんだ……奴等に復習しなきゃ』と、真っ白になった心が染まって行く。
そんな自分に百合は違和感を感じ、心の奥底で恐怖が生まれ『嫌だ!』と拒絶した時、
「主! 惑わされるな!」
「うっ!」玉江の叫び声と共に、百合の全身に痛みが突き抜ける。
「主、お許しを……」百合の中で電撃を放った玉江の声が頭の中で響き、
「玉ちゃん……」意識はあったのに、目が覚めた様な感覚に百合は戸惑っている。
百合はふら付く頭を押さえ、危うく洗脳されそうになった事に気付き、
「鬼頭……貴様……」怒りに燃える目で鬼頭を睨み付けた。
「あぁあ、残念。流石、白狐だね……参ったね。ははははは」
睨み付ける百合を、鬼頭は冷酷な笑い声を上げて見ている。
「あの時の坊主は、上手く行ったのになぁ……」
「あの時のって……証念様の事か!」
「あぁ、あの坊主、証念って言うんだ。五百年も経って、魂の記憶も心も、ぼやけていたから操るのは簡単だったけど、百合ちゃんは、そう言う訳には行かないみたいだね」
「貴様!人の心を何だと思っている!証念様は命を捨ててまでも滅火を封じて居たんだぞ!」
百合は、証念の心を踏み躙り、滅火を開放させ様と操った鬼頭が許せなかった。
「別に良いじゃないか、死んだ奴なんか……でも、惜しいな、百合ちゃん可愛いから、是非仲間になって欲しかったのに」
「黙れ……」
「顔は可愛いんだけど……胸が……もうちょっと、何とか成らない?」
「き・さ・まぁ……」百合のこめかみに〝ぶちっ〟と言う音が聞こえた。
「胸の事を言って、無事に帰れると思うなよ……」と、百合の心に殺意が湧き上がった。
「はははは、あぁあ、残念だ……ねっ、涼彦……」
そう言いながら鬼頭は振り向き、ゆっくりと涼彦に近付くと、涼彦の首筋に両手を回し、目を見詰めながら薄笑みを浮かべる。
「涼彦……お前は、もう……要らない……」
鬼頭は、涼彦の首に回した右手で涼彦を引き寄せ、背中に左手を回し抱きしめる。
そして、涼彦の唇へと、強く唇を重ねた。
「えっ?えぇぇぇぇ!」突然の意表を突いた鬼頭の行動に、百合は思わず叫んでしまった。
現実で初めて見るBLに百合は驚き、飛び出さんばかりに目を大きく見開いて二人を見た。
鬼頭と涼彦は、深く熱い口付けを交わしている。
美青年二人の長く続く熱い口付けに、百合はどう反応たら良いのか分からず『……あれって、入ってる?入ってるよね?』と、ドキドキしながら顔を赤らめガン見していた。
どれぐらいの時間が経ったのだろう、鬼頭は涼彦から顔を離すと、振り向き百合を見た。
瞬きをする事さえ忘れてガン見していた百合は、鬼頭と目が合い、慌てて目をそらし気不味い思いで顔が真っ赤に染まった。
鬼頭は薄笑みを浮かべながら涼彦から体を離すと、狭い部屋の奥の角へと進んで行った。
鬼頭が離れた後も、硬直して動かない涼彦を見て、
「ショックだったんだねぇ……」と、百合は腕を組んで感慨深く頷くと、涼彦に同情し、
「齢三百とは言え、涼彦さん……ファーストキッスだったんでしょ……いやぁ、ショックだったでしょ、その気も無いのに……たぶん……あっ、でもね、私も雪ちゃんにファーストキスを奪われたんだけど、人とあやかしだから、カウントしなくても良いかなぁ、てっ……なんちゃって……」と、まだ硬直して動かない涼彦を慰めている。
「涼彦さん?……」
ショックだったのは分かるが、余りにも普通では無い涼彦の様子に、百合は心配になった。
「どうしちゃったの、いったい……」と、部屋の隅で薄笑みを浮かべ、腕を組んで壁にもたれながら百合を見ている鬼頭を気にしながら涼彦に近付くと、涼彦は魂が抜けた様な目だった。
涼彦の目は死んだ様に焦点が合っていない。表情も無表情で冷たい感じがする。
そんな涼彦の様子に驚き、
「涼彦さんに何をした!」百合は鬼頭に振向き叫んだ。
百合の怒鳴り声にも、鬼頭はニヤニヤしながら見ているだけだった。
○死闘○
「うおぉぉぉぉ!」
今まで動かなかった涼彦が、急に叫び声を上げて全身を震わせている。
赤い光が涼彦を包み、涼彦の体は膨張し大きくなって行く。
百合は、慌ててその場を飛び退き間合いを取り、反射的に鬼斬丸の柄に手を掛けた。
赤い光に包まれながら、三m近い大天狗に変化した涼彦は、天井に頭が着きそうだった。
突然、涼彦が本来の天狗に変化したのか理解出来ず、百合は戸惑っている。
儚さを漂わせた美青年の姿をしていた涼彦からは、想像も出来なかった天狗の姿……赤ら顔に大きな鼻。山伏の様な着物を着て、全身が筋肉の塊で盛り上がっている。
「どうしたのよ……操られているの?……」涼彦の無表情な目を見て百合は思った。
その時、涼彦が手に持った錫杖を、肩の高さで水平に振り上げた。
「白ちゃん!離れて!」百合は危機を察し思わず叫ぶ。
百合の叫び声に、白菊は慌てて壁の崩れた所へと隠れた。
百合は鬼斬丸を抜き中段に構える……が、
「駄目よ……」涼彦に鬼斬丸を使う事を躊躇し、構えた切っ先を下ろした。
「うおぉぉぉぉ!」叫び声と共に、涼彦は錫杖を振り下ろす。
「あっ!」百合は、咄嗟に鬼斬丸に気を送り障壁を張る。
「きゃあぁぁぁ!」
しかし障壁が間に合わず、涼彦の振り下ろした錫杖から放たれた衝撃波が、百合の体を軽く弾き飛ばし、壁へと叩き付けた。
「ぐうぅぅぅ……」
玉江が憑いて居るため痛みは感じ無いが、頭と体を強く壁に打ち付け、脳震盪を起こした頭がふらつき視界が霞み、叩き付けられた体は筋肉が強ばり、上手く動かせない。
「主!大丈夫か!」
「主!」粉雪が百合の傍に駆け寄る。
「う、うぅ……」意識が朦朧とする百合は、何とか体を動かそうと全身に力を込めている。
涼彦は、倒れている百合を無視して振向き、封印の大岩の方に向かった。
大岩の前で錫杖を捨て、涼彦は大岩を抱かかえ、引き抜こうと力を入れる。
「だ、駄目!止めて!」まだ、ぼやける意識の中、百合が叫ぶ。
百合は涼彦を止めようと、立ち上がろうとするが、まだ体が強ばり動かない。
ごりごりと摩擦音を響かせて、徐々に大岩が引き抜かれている。
「くっ……」粉雪が全身をオレンジの狐火で包み込み、百合を庇う様に前に立ち身構える。
五十cm程引き抜かれた時、大岩の根元から滅火が漏れ出した。
「いかん!」玉江は漏れ出した滅火を見て、百合の体を青白い狐火で包み込む。
黒い炎の様な物が、地面からゆらゆらと湧き上がっている。そして湧き上がる炎と共に、どす黒い紫色の煙りの様な物が這う様に、湧き出して地面に流れている。
滅火から発せられる気配に百合は、その異様な恐怖に押し潰されそうになり、滅火の発する醜悪さに吐き気を模様した。
「駄目、涼彦君……止めて……」百合は焦り、鬼斬丸を地面に突き立て立ち上がろうとする。
まだ上手く動かない体を、渾身の力を込めて何とか立ち上ろうとしている時、漏れ出た滅火が広がり、百合達の所まで流れて来た。
百合の顔が恐怖に引きつる。
その時、オレンジ色の光が涼彦目掛けて飛んで行った。
「このおぉぉぉ!」粉雪の体が炎となって、涼彦と滅火の漏れ出している穴を包み込んだ。
「雪ちゃん!だめぇ!」
「粉雪!」
涼彦を包み込んだ狐火は、渦を巻き結界と成り涼彦を締め付け動きを止め、滅火が漏れ出している穴を塞ぎ広がるのを防いでいる。
「うおぉぉぉぉ!」
「このおぉぉぉ!」
涼彦が抵抗しようと力を入れる、粉雪は更に締め付け様と力を込める。
「主!早く!鬼斬丸で!早く!もう……持たない……」
「……えっ?……なにを……」
百合は、力をいれ苦しそうに声を上げる粉雪の言葉が理解出来なかった。
「主!鬼斬丸に気を込めて!早く!涼彦を滅するのです!」
「えっ?そんな……そんな事……それに、それじゃ、雪ちゃんも一緒に……」
涼彦を切るには、涼彦を包み込んでいる粉雪まで切る事になる。玉江に言われた事を、理解した時、鬼斬丸を杖にして、やっと立ち上がった百合は、その絶望感に戸惑っている。
「あっ、あ、るじ……早く!……持た……な、い……」
必死で涼彦を締め付けている粉雪は、滅火に毒され、苦しそうに呻いている。
狐火の結界が不安定に揺らぎだす……涼彦が僅かづつ、岩を再び引き抜き出す。
「主!早く気を込めよ!岩を引き抜ききられたら、滅火が噴出すぞ!」
滅火が噴出せば、直ぐには封印を修復出来ない……直ぐ近くには村もある。
厳重に石垣の結界で守られている滅火の規模の大きさは用意に想像出来る。
昼間の滅火とは、雲泥の差がある事は百合にも分かった。
その滅火が噴出せば、石垣の結界など、僅かな抵抗でしか無い事も想像出来た。
百合は、迷いながら鬼斬丸に気を込める……鬼斬丸が緑色に光る。
しかし百合は、急に構えていた鬼斬丸を下ろし、
「出来る訳無いじゃない!そんな事出来ないよ!」百合が、絶望を吐き出すように叫んだ時、
「がはっ!」滅火の毒気に犯されたのか、粉雪の綺麗だったオレンジの炎が黒く濁り出す。
粉雪の力が弱まり、ゆっくりと封印の大岩が引き抜かれて行く。
「主!」玉江が叫ぶ。
「ああ……」玉江の声も聞こえず、その光景を、ただ震えながら百合が茫然と眺めていた時、
「主!御免!」
玉江が叫ぶと同時に百合の意思とは別に、鬼斬丸を中段右横に構え百合は涼彦に突進した。
「あっ……あっ……あっ……」
何が起きたのか理解した時、百合は涼彦を鬼斬丸で貫いていた……粉雪と共に。
涼彦は、力が抜けた様に封印の大岩を手放し落とした……大きな音と振動と共に大岩は穴を塞ぎ、滅火の漏れを止めた。
「すまぬ……感謝する……」
霧の様に消えて行く涼彦は正気に戻り、百合を見て柔らかく微笑んだ。
消えて行く涼彦と重なって、粉雪が五尾の狐姿に戻りつつ霧の様に消えて行く。
「あ、あ、あう、ゆ、ゆき、雪ちゃん、雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!」
百合は鬼斬丸を放り投げ、妖狐の姿で地面に倒れている粉雪の上に被さり、霧の様に散って行く粉雪の体を両手で必死に掻き集め様と、叫びながら?(もが)いた。
「雪ちゃん、雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!……」
散って行く粉雪の体の粒子が百合に纏わり付いた時、必死で叫ぶ百合の脳裏に映像が浮び上がって来た。それは、そう……懐かしい百合の子供の時の記憶……唯一つの母親との記憶……
温かい、明るい光が差し込んでいる窓際で、母親に抱かれて遊んでいる百合。
そして、母親の隣にもう一人、百合と遊んでくれていた……粉雪の姿が見えた。
「ゆ、雪ちゃん……」脳裏に映る映像と共に、暖かい物が百合に流れ込んで来た時、
「百合ちゃん……大きくなったね……」と、今にも消えそうな粉雪が、愛おしいそうに微笑みを浮かべて百合を見ている。
「雪ちゃん!」百合が叫んだ時、粉雪は霧と成って舞い散る様に消えてしまった。
「いやあぁぁぁぁ!、雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!雪ちゃん!」
「主!危険です!」
既に漏れ出た滅火が流れ、部屋を埋める……玉江はそれに気付き錯乱する百合の体を操って、鬼斬丸を拾い上げ崩れた壁の割れ目へと飛んだ。
「白菊、出ろ!」
「しょ、承知」
白菊が出た事を確認して、玉江が百合から離れると、壁に激突した時の痛みが激痛となり全身に走り、錯乱していた百合が我に帰った。
玉江は狐火を溜め、石積みの割れ目へと炎弾を放つと、爆発と共に石積みが崩れ、出口を塞いだ。
漏れた分の量なら結界が防いでくれる。
「主、大事ありませんか……」玉江が巫女姿のまま実体化して跪き、百合を心配している。
「鬼頭……何処だ!」百合は全身の痛みに耐え、壁を掴みよじ登る様に立ち上がった。
百合達が部屋を出る時には、鬼頭の姿は既に無かった。
「主!無茶です……お控え下さい!」百合を後ろから支える様に玉江が百合に抱き付く。
「憑け……」
「……しかし……」
「早く憑け!」百合は振向き、支える玉江の手を振り払って叫んだ。
「……承知……」玉江は、涙が溢れ怒りに燃える百合の目を見て、諦めた様に返事をした。
玉江が霊体となって百合の中へと入って行く。
百合の目は青白くなり、背中から青白い炎を上げ、徐々に痛みが消え、力が漲って来る。
「主、先程は……」
「後で聞く!今は鬼頭だ!」玉江の言葉を、怒りに震える百合の声が遮る。
「……承知……」
「はあぁぁぁぁ……」百合は、気合と共に全身に気を溜め、
「行くぞ!」鬼斬丸を拾い上げ、百合は出口へと駆け出した。
「鬼頭!鬼頭!鬼頭!鬼頭!鬼頭!何処だ!絶対に許さない!人の心を、なんだと思っている!許さ無い!絶対に許さ無い!」鬼頭への怒りだけが百合を支配していた。
外に出ると、鬼頭の気配がする。
「鬼頭!何処だ!」百合は、石垣の上へと飛び上がり、鬼頭の気配がする方へと走る。
初夏の季節、辺りの空は既に薄明くなって来ている。
石垣の上の林の中を走って行くと、其処に鬼頭の姿が見えた。
「鬼頭!き、さ、ま……許さん!」
鬼頭は薄明るい中、林が終わり広く開けた崖の縁で、静かに空を眺めて座っていた。
「ふっ、それが僕の復讐さ……苦しいだろ、悔しいだろ、悲しいだろ……せっかく仲間に誘ったのに、復讐の第一号が百合ちゃんになるとはね」
「黙れ……」百合は、ゆっくりと鬼頭に近付く。
「まあ、良いさ……目的は果たした……」
鬼頭はそう言って立ち上がり、大型の西洋の剣を百合に向かって翳した。
その剣は、封印の大岩の根元に埋まっていた物で、刀身の根元が鍔と十字に交差する中央の直径十cmぐらいの穴の中には、どす黒い炎が燃えていた。
「やっと、滅火を手に入れたよ……結構、時間が掛かったけど、剣に滅火を取り込む事が出来たよ」鬼頭は翳した剣を眺めながら、薄笑みを浮かべている。
「貴様という奴は、心を弄ぶ様な事を、よくも平気で……涼彦さんの気持ちも知らないで」
「涼彦?……あっ、あれの役目は終わったんでね……滅火を手に入れる為の道具としての……だから、もう要らないんだ」鬼頭は滅火の剣を翳しながら、冷やかな目で百合を見ている。
「道具だと!あやかしにも心はあるんだぞ!それを、道具だと……涼彦さんが、どれだけ悩んでいたと思っているんだ!」
「さっきも言ったろ、死んだ奴なんて関係ないよ」
「何!」余りにも非情な鬼頭の言葉に、百合は拳を握り締め怒鳴る。
「貴様、死んだ両親の仇だと申しておったのに、死んだ者には無関心か……」
玉江が、百合の中から鬼頭に問いかける。
「勘違いするなよ。死んだ者は関係ないよ。これは、僕の復讐だ!両親を同時に失って、惨めな思いをした僕の復讐だ!」鬼頭の冷やかな目に、悲しみが浮かぶ。
「貴様という奴は……何がそうさせた!涼彦も貴様が変わったと申しておった!何が貴様を変えた!」
「はっ!僕は変わってなんかいないよ!ずっと、心の中に秘めていただけだよ……そうさ……変わってなんかいない……変わってなんかいないよ!ははははは」
鬼頭は玉江の言葉に答えると、崖の縁に立ち、狂った様に高笑いを上げた。
その尋常では無い鬼頭の姿に、百合は底知れぬ悍ましさを感じた。
「さぁ、時間だ。殺して上げるよ、百合ちゃん……君を殺せば、君を可愛がっている本山の連中がどれだけ悔やむか……見ものだね」
鬼頭はそう言うと、剣を中段に構え、薄気味悪い笑いを浮かべ百合を見据えた。
「やれるものなら……やってみろ……」百合は、鬼斬丸に一気に気を送り込んだ。
鬼斬丸は緑の閃光を放ち輝き、同時に周りの空気を爆発の様に震わせ、土煙を舞い上げた。
怒りだけが百合を支配している。粉雪を失った悲しみ、悔しさ、苦しさ……百合の中でそれらが交じり合い、痛いくらいの怒りとなり、心の中で稲妻となって爆発した。
「しねえぇぇぇ!」鬼斬丸を上段に構え、怒りに身を任せ鬼頭に飛び掛る。
鬼頭は、百合が上段から振り下ろした鬼斬丸を体を捻り躱し、剣を構えなおす……百合はそこへ、振り抜いた鬼斬丸を返し、袈裟懸けに打ち込む……それを鬼頭が身を引き躱し、体を低く構えたかと思うと飛び上がる様にして剣を百合の顔面に突き出した。
迫る剣の切っ先を、体を反らしながら首を傾け躱し、百合は鬼頭の腕を左手で掴むと引き寄せ、鬼頭の顔面に蹴りを入れる。
「がぁっ!」見事に鬼頭の頬に百合の足の甲が入り、鬼頭は顔をゆがめながらも、倒れまいと足を踏ん張り、百合から腕を振り払うと、百合を押し払う様に百合の腹を踵で蹴り飛ばした。
「ぶっ!」地面に倒れ腹を押さえながら転がり、百合は鬼頭との距離を取って立ち上がる。
これは殺し合いだ。二人の間に会話など無い。
賭けるは己の命。望むは相手の死。それ以外に何も無い。
立ち上がった百合は、中段右に構え、鬼頭へと駆け寄る……鬼頭も上段に構え踏み込む。
鬼頭が一瞬早く、百合に切り込む……振り下ろされた剣を百合は横に飛び退き躱し、剣を振り下ろし前のめりになっている鬼頭の背中へと鬼斬丸を振り出す。
既での所で鬼頭が、剣を返し振り上げ鬼斬丸を受け止めた時、バシィッ!と、打ち合った所から凄まじい稲妻が走る。
「くっ……」稲妻が鬼頭の顔面をかすめると、鬼頭は慌てて間合いを取るために飛び退いた。
二人は再び構え直し、向き合う。
「今の稲妻……私の力?」百合も今の稲妻に驚いている。
百合は、更に鬼斬丸に気を送る……鬼斬丸が激しく輝く。
「主!無駄に気を送るのは危険です!怒りに飲み込まれては成りませぬ!」
「五月蝿い!」百合の心の中には、稲妻の様な怒りが渦巻いている。
そして、その怒りのまま、上段に構えた鬼斬丸を、鬼頭へ向けて振り下ろした。
「どおうぅりゃあぁぁぁぁ!」
百合の気合と共に放たれた気は、大音響を轟らかせて、幾筋もの稲妻となって鬼頭に向かって飛んで行く。
「なに!」鬼頭は慌てて、剣に気を送り障壁を作り構える。
「ぐっ!」しかし稲妻は障壁を打ち砕き、鬼頭の体を数箇所貫いた。
鬼頭は膝を付き怯む。その隙に百合は、一気に鬼頭目掛けて飛び掛り、鬼斬丸を振り下ろすと、鬼頭は慌てて剣を構え、鬼斬丸と滅火の剣が交差する。
ガッキッイィィィン……
空気を振るわせ、金属音が響き渡ると同時に激しい稲妻の閃光が鬼斬丸を包む。
「しねぇぇぇぇ!」
百合は一気に力を込めて、鬼頭を押し込む……稲妻に胸や腹を貫かれ、血を流し傷付いて力が入らない鬼頭は、苦悶の表情を浮かべ、歯を食い縛って必死に押し返そうとしている。
「どおうりあぁぁぁ!」
百合は更に力を入れ押し込む……鬼斬丸の切っ先が鬼頭の首筋に押し当てられる……鬼頭の顔に恐怖が走る……と、その時、
パッキィィィィン!……と、乾いた金属音と共に鬼斬丸が剣と交差した所で折れた。
突然、押し込む力を受けている場所が無くなった百合は、前のめりに倒れ転がる。
慌てて、体を捻り立ち上がり、折れた鬼斬丸を構える……刃は十cmも残っていない。
「いやぁ……参った参った……凄いね、百合ちゃんは……」
不思議な事に鬼頭は、何事も無かった様に軽口を叩きながら、ゆっくりと起き上がった。
「貴様……」百合は、鬼頭を睨み付ける。
確かに稲妻は、鬼頭の体を何箇所か貫いたはずなのに……さっき組み合った時にも血が流れているのを百合は見たのに、鬼頭の体には血の跡はあるが怪我の後は無かった。
百合は鬼頭を見て、訳が分からずに戸惑った。
「不思議そうな顔しているね……ふふふ、これも滅火の力なんだよ……でも、百合ちゃん凄いや。こんなにやられるとは思いもしなかったよ……ごめんね、少し甘く見すぎていたよ」
滅火の力と言われても、鬼頭が平然と立っている事が百合には理解出来なかったが、折れた鬼斬丸でこれ以上戦うのは不利だと言う事は十分理解出来た。
「主……如何致します…」
「やるしか無い……」
元々、魔斬りの法具に形の差は関係無いが、切り結ぶ時は絶対的に不利だ。
しかし百合は躊躇せず、折れた鬼斬丸に気を送り込んだ……鬼斬丸が元の長さぐらいまで光を伸ばし輝き、稲光が走る。
「主!お止め下さい!既に可也の気を使っています。このままでは……」
「黙れ……」
玉江の言葉を百合は十分理解していた。可也気を使い、体に力が入らない。
しかし、体の中を流れる鬼の血が、戦えと百合を煽っている。
「ははは、凄いよ。本当に、まだやる気かい?だけど、もうそろそろ限界だろう……実を言うと僕もなんだ。こいつに滅火を封じる為に随分と気を使っちまってね……その上さっきの雷だろ。次の百合ちゃんの雷を受ける自信が無いので、これで帰らせて貰うよ……」
鬼頭は相変わらず軽い口調で話し、気障たらしくウインクをしたが、
「勝負は又、次の機会に……今度は殺すよ……」
最後は恨みの篭った目で百合を睨み付け、捨て台詞を吐いて鬼頭は崖から飛び降りた。
「待て!」逃げる鬼頭を追い掛け様と、駆け出したが足が縺れて百合はその場に倒れた。
「主!」玉江が百合から離れ、巫女姿に実体化して百合を抱かかえる。
百合の体に激痛が走り、意識が遠退いて行く。
玉江の腕の中で、遠退く意識で百合は空を眺め、
「……もう、朝か……」と、呟いて意識を失った。
「白菊!頼む!」
「承知!」
玉江が叫び、白菊を呼び付けると、白菊は百合の胸に両手を付いて全身を青白く輝かせる。
「主!お気を確かに!」玉江が、百合を抱かかえながら叫ぶ。
「主いぃぃ!」白菊も、癒しの術を掛けながら叫んでいる。
気だるい意識の中で、百合は二人の声に気付き、ゆっくりと目を開けた。
白菊のお陰で痛みが無くなった百合の目の前には、心配そうに覗き込む二人の顔があった。
「白ちゃん……もう良いよ。痛みは無くなったから……」
「でも……主……」白菊は不安そうに百合を見ている。
痛みは無くなったが、力を使い果たし体が動かない百合は、首だけを向けて
「大丈夫だよ……白ちゃん、ありがとう…」と、白菊の気持ちを気遣い、優しく微笑んだ。
玉江は微笑む百合の顔を見て、安心したかのように微笑むと、百合をそっとその場に寝かせ、本来の大狐の姿に変化した。
「主!先程の、妾の勝手、誠に申し訳ございません!」
玉江が百合の脇で、大狐の姿で土下座する様に平伏し百合に謝っている。
「如何なる謝罪の言葉を持ってしても、許されるものではありませんが、我が心も、御察し願いたく存じます……」
「玉ちゃん……」百合は、玉江の涙を初めて見た。
玉江の涙を流す顔に表れる、悔しさが……無念な思いが百合には痛いほど分かった。
百合は、涙を流す玉江の顔に手を伸ばし、頬をなでながら、
「良いよ……良いのよ、もう……玉ちゃんの気持ち、分かるよ……私と同じだから……分かるから……分かるから、もう言わないで……」
百合も、そう言っているうちに涙が溢れ、止まらなくなっていた。
「あ、主、主、主……妾は、妾は……」
玉江は泣きながら、百合の手に強く頬を擦り付けて来た。
「玉ちゃん……ごめんね、嫌な役を押し付けたみたいで……玉ちゃんだって……玉ちゃんだって悔しいよね……悲しいよね……玉ちゃんの無念な気持ち分かるから、良く分かるから……」
「あ・る・じ……」玉江は百合の言葉を聞いて、歯を食い縛り声を殺して泣いている。
「雪ちゃん、何時も助けてくれて、ありがとうね……なのに、何もして上げられなくて……ごめん……ごめんなさい、雪ちゃん……わああぁぁぁぁん!ゆきちゃあぁぁぁん!ゆきちゃあぁぁぁん!」百合は、倒れたまま両手で顔を覆い、肩を震わせて大声を出して泣いた。
山の稜線から太陽が姿を見せ光の束が迸り、眩しい暖かな光が百合達を照らしていた。