発現
微エロ、微グロ有ります。
○発現○
取り合えず食事も済んで、百合達は作戦会議に入った。
探査を始めて五日目……なかなか思う様に進まない。
慣れない百合は、野良の化物の気配等を感じる度に、無駄な時間ばかりを掛てしまう。
「何か手がかりか何かがあると……良いんだけど……」
百合は、本山から貰った古文書の絵地図のコピー(白黒……けち)を再び見ながら考えた。
「ねえ、白ちゃん、この近くなんだけど……こんな所見た事ある?」
白菊は、差し出された地図を受け取ると、真剣な目で一生懸命見て、
「……すまぬ……我は、あまり遠出はせなんだから……帰る方法を探るのに祠から離れても、精々半時ぐらいの所までじゃったし……我の知る限り、この辺りにこの様な城は……見た覚えは無いな……」と、申し訳無さそうに百合に地図を返した。
「ううん、城じゃなくて寺なんだけど、建物は残って無いと思うの。だから、石を積み上げた様な所とか、柱が立っている様な平らな所とか、知らないかな?」
「そうじゃなぁ……」白菊が一生懸命思い出そうと腕を組んで考えていると、
「おっ!」と、突然、思い出した様に声を上げ、
「えっ!」三人は白菊を注目する。
「そう言えば、我の居った所から、半時ばかり行った所の池の傍に……確か……明らかに、人の手による物があった様に覚えている……それが石垣だったかどうかは……」
曖昧な白菊の証言では有ったが、百合はある事に気付き、改めて現在の地図を見た。
「半時行った所って……歩いて半時?」地図を見ながら百合が白菊に問い直すと、
「我は歩かぬが、そうじゃの、人が歩く位かの速さかの」と、白菊は自信無さ気に答えた。
人が歩く速度は約時速四Km/h、山道だが、霊体の白菊には関係ない。
「と言う事は……」と、百合は熱心に地図を見て、
「玉ちゃん、雪ちゃん、これだよ……貯水池!白ちゃんの情報から考えると此処だよ……この辺り昔は川だったんだよ」百合は、地図から顔を上げ二人に向かって言った。
三人は地図を囲んで改めて場所を確認する。
白菊と出会った地点から、直線距離でおよそ三・四Kmの所に、川を堰き止めた湖の様な大きな貯水池があった。川は大小に関わらず付近を探査して来たが、ダムで堰き止められた貯水池の付近までは探査していなかった。
「なるほど、昔は、川だった、か……向いますか?」玉江が百合に尋ねると、
「うん!雪ちゃん憑いて」返事して百合は地図を仕舞い、粉雪に声を掛ける。
「あいよ」返事をして粉雪がオレンジの炎を上げて狐火と成り、百合に入って行く。
玉江は全身を青白い狐火で包み、大狐へと変化する。
百合が、大狐の玉江の背中に飛び乗ると、白菊に振向き、
「白ちゃん、案内をお願い」と、頼んだ。
「えっ?百合ちゃん……我はどうしたら……」
白菊は百合達の方を見ながら、どうして良いのか分からずに、おろおろとしている。
「貴様も、白狐の端くれなら、我に付いて飛んで来くれば良い」
「……承知……」玉江の言葉に白菊は、自身無さそうに頷いた。
「大丈夫よ、あまり早く飛ばないから……付いて来て」
百合が困惑している白菊に優しく言うと、白菊は黙って頷いた。
川伝いに低く玉江は飛んで行く。その後を時折ふら付きながら、白菊が青白い狐火に包まれ、必死の形相で付いて来る。
「玉ちゃん、降りて」貯水池に到着して岸辺に着地すると百合は振り向き、
「白ちゃん!どの辺り?覚えは無い?」後ろから一生懸命付いて来る白菊に声をかけた。
「良くは覚えておらん!」白菊はやっと追い付き、辺りを見回しながら答えた。
「……!……百合ちゃん!待ってくれ!あそこ!覚えがある!」
辺りを見ていた白菊が、覚えのある場所を指を指している。
白菊が、ふらふらと頼り無い飛び方で、その場所を確認する為に飛んで行った。
暫くして、白菊は百合達の方を見て手を振っている……どうやら正解見たいだ。
「玉ちゃん、行って」
「承知」
百合達は、手を振って待っている白菊の傍までやって来た。
「どう……思い出した?」
「恐らく。あの時、我はこの辺りで池に人の気配を感じて……そうじゃ、この山じゃ……この山に逃げ込んだんじゃ」
バス釣りの人の気配を感じたのか、その時自分が逃げ込んだ小高い山を白菊は覚えていた。
「なるほどねぇ……何か、感じるねぇ……」百合の頭の中で粉雪の声が響く。
「そうだね……」百合は、小高い山を見詰めながら、何か異質なものを感じた。
「行って見ましょう……」
「承知」
百合達は警戒しながら、人が歩く位の速度で斜面に沿って昇って行く。
暫く行くと、山の稜線が途切れた所の谷間に、学校のプールぐらいの広さで開けた場所が現れ、其処は低い木々に覆われては居るが、不自然に平らで、中央辺りに何か立っていた。
「谷底に、あんなに四角くて平らな所……変ね……白ちゃん」
百合が確認する様に白菊を見ると、白菊は無言で頷いている。
二十m程下に有る平地から伝わる異様な雰囲気に、百合は恐怖を覚え、禍々しいものが漂っているその場所に、百合は吐き気を伴う嫌悪を感じた。
「あそこ……だねぇ……間違い無いよ」粉雪には、はっきりと分かる様だ。
「いかが致します、主……」玉江も、異質なものを感じ取って警戒している。
導厳に近付くなと厳命されてはいたが、初心者の怖い物知らずに、好奇心も重なって、百合は滅火とはどんな物か知りたかった。
百合の本能も“近付くな”と警報を発していたが、確かめなくてはと、好奇心が恐怖を上回り、
「行って見ましょう……」と、決意した。
「駄目だよ!近付いちゃ……滅火だよ、危ないよ」
百合の頭の中に、粉雪の焦った声が響いたが、
「でも、確かめなきゃ……玉ちゃん、あそこに降りて」と、百合は木の生えていない所を指差した。
「承知」玉江は返事すると、警戒しながら谷の底へとゆっくりと降りて行った。
百合は谷底に近付くにつれ、初めて感じる異質な気配に、漠然とした恐怖が増して行った。
百合達は平らな部分の、低い草が生えている場所に着地した。
辺りは疎らに三mぐらいの木が生えていて、下には五十cmぐらいの草が生い茂っている。
所々何かあるのか、草の生えていない所がある。
其処は谷底と言う事もあり、取り囲む斜面の圧迫感が、更に百合を不安にさせていた。
百合は警戒しながらリュックを降ろし、鬼斬丸を刀袋から取り出し左腰のベルトへと差し、剣鉈を右腰に下げる。
百合は、辺りを見渡し剣鉈を引き抜くと、邪魔に成る草や木を薙ぎ払いながら、辺りを散策する。草むらの中に建物の基礎だろうか、束石が並んでいる。
苔むした石畳に階段。
下へと続いている石段には苔が生えて、その古さを物語っていた。
どうやら、この平地は高さ五mぐらいの石垣の上に有る様だ。
百合は、周囲の状況を確認して、違和感の発信源と成っている平地の中央部に向かった。
細い木を五本程切り倒し少し進むと、背の高い石柱が見えて来た。
更に進むと、急に藪が無くなり、半径五m位の円形の広場に出た。
草や木が薙ぎ倒されている広場の中央には、高さ五mぐらいの、石柱が立っていて、岩を中心に、地面を掘った様な解れた土が盛り上っていた。
一m角ぐらいの石柱の根元は、五十cm程掘り下げてあり、下にも続いている事から、岩が更に巨大である事が想像出来た。
禍々しい気配から来る恐怖に耐えながら、百合は石柱に近付いて行った。
百合は石柱の中央部に、筋の様な模様があるのを見つけ、顔を近付ける。
どうやら文字の様な物が刻まれていて、風化してかなり薄くなっていたが〝結界〟と言う文字は百合にも何とか読めた。
「どう……読める?」百合は、憑いている粉雪に声を掛けると、
「私は、学が無いから……漢文は読めないよ……」と、粉雪の声が頭の中で響いた。
描いてある文章が漢文である事を教えられて、自分では絶対無理だと判断した百合は、
「玉ちゃん、読める?」と、玉江を頼った。
玉江は暫く文字を眺めていて、狐の顔で良く分からないが、表情を硬くした。
「所々しか読めませんが、どうやら、当たりですね。延徳元年に災いの元を封じ、この結界で守っていると、そして、この岩を、永劫に守護せよ。と書かれています」
「じゃ、この下に滅火が封印してあるの?」百合が玉江に向って聞くと、
「恐らく」玉江は百合に向って頷いた。
「じゃぁ……とりあえず、任務完了ね」
百合は、苦労して探した割には、最後は呆気無かったなと思った。
そして、直接滅火を見る事が出来なかった事を少し残念に思っていた。
「雪ちゃん離れて……」
「あいよ」
リュックを下ろし、地面に座り込む百合から、粉雪が離れ、玉江も大狐から霊体へと変化した。
「だけど……これ何だろう?」と、百合は携帯を出しながら、周りの解れた土を見て呟いた。
「確かに、変ですね……」玉江は、厳しい表情で辺りを警戒している。
「あちゃ……やっぱり圏外か……」
本山に連絡を取ろうとして、百合は携帯を見たが、当然圏外だった。
「どうしたの主?」粉雪が声を掛けて来て、百合の携帯を覗き込んでいる。
「本山に連絡したいんだけど……国道辺りまで出なきゃだめみたいね……」
百合は来る途中に見えた、国道の方を向いて答えていると、
「! 誰!」突然、背後にぞくっと悪寒が走り、百合は立ち上がって振向いた。
振向いた先に、僧侶と思われる人物が立っていた。
僧侶は薄汚れた僧衣を纏い、錫杖を手に持ち、虚ろな目で百合達を見ている。
急に現れた事に、百合は粉雪を見たが、粉雪は百合を見て怪訝な表情で首を振っている。
超感覚の粉雪が、僧侶が近付いて来る事が察知出来なかった事に、目の前の僧侶が普通では無い事を百合は知った。
玉江と粉雪が百合を庇う様に前に出る。白菊は慌てて百合の後ろに隠れた。
「二人とも、気を付けて。こいつ人じゃない」百合は鬼斬丸に手を掛ける。
「あいよ……」構えた粉雪に、尖った耳と、五尾の尻尾が現れる。
「承知」玉江には、目の淵に赤い戦闘紋が浮き上がる。
「そこで、何をしておる……」無表情のまま、起伏の無い口調で僧侶が聞いて来た。
「貴方こそ、此処で何をしているの」百合が僧侶を睨みながら問い返すと、
「そうか……貴様ら、その力を奪いに来たか!それはワシのものぞ!誰にも渡さん!」
僧侶は突然、怒りの形相に変わり叫ぶと、持っていた錫杖を振り回した。
「きゃぁ!」
「ぐっ!」
振り回した錫杖から衝撃波が発せられ、前にいた二人が百合を守る為に咄嗟に障壁を張ったが、十分な障壁が張り切れず、直撃を受けた二人は障壁と共に弾き飛ばされた。
「くっ……こいつ……」衝撃波の余波に、百合は耐える様にしゃがみ込む。
咄嗟にしゃがみ身構えた百合も、衝撃波の余波に弾かれ、転がり地面に倒れた。
百合は直ぐに起き上がり、鬼斬丸を抜き両手で握り気を送る。
白菊も再び百合の後ろに隠れる。
弾き飛ばされた二人は、二十mぐらい上空で体制を整え、白狐と妖狐に変化する。
「粉雪!主を!」
「あいよ!」
玉江は僧侶に攻撃を仕掛けるため、上空で狐火を溜め、粉雪は百合の元へと急降下する。
「はあぁ!」僧侶は怒りの形相で錫杖を振り回し、気合いと共に錫杖を地面に突き立てた。
すると、錫杖から雷の様な光が天へと上り、上空で傘の様に放射状に広がった。
「ぎゃん!」降下していた粉雪が、その広がった雷に突っ込み弾き飛ばされた。
「粉雪!」
「雪ちゃん!」二人は、弾かれ飛ばされた粉雪を見て叫んだ。
粉雪は、落下する途中で身を捻り、再び上昇した。
それを見て、二人はほっとしたが、広がった雷の異変に気付き、直ぐに僧侶の方を向いた。
傘の様に広がった雷は地面へと伸び、次第に壁の様に安定し結界となって固まった。
結界は僧侶を中心に、半径十mぐらいのドーム状になった。
「しまった!」結界を張られ、二人と分断された百合は、空を見上げ叫んだ。
「主!」
「主!」玉江と粉雪は結界の外だ。
結界を張った僧侶は、錫杖を引き抜き、怒りの表情のまま百合に近付いて来る。
「渡さんぞ……わしの物だ……」僧侶は錫杖を構え、ふら付く足取りで百合に近付く。
百合は怖かった。今まで戦った化物とは違う、異質な雰囲気を持つ僧侶が怖かった。
「待って……貴方は……貴方は誰なの!」百合は、鬼斬丸を構えながら後退る。
「わっ、ワシは……ワシは……誰……分らぬ……分らぬ……」
僧侶は百合の言葉に立ち止まり、頭を抱えながら、かくかくとした不自然な動きで、苦しむ様に身悶えしている。
「長い、長い間……ワシは、守って来た……この地で守って来た……あっ、ああああ」
僧侶は叫びながら体を仰け反らし、崩れる様に膝を付いた。
結界の外では、玉江と粉雪が狐火を固めた炎弾を投げ付けて、結界を破ろうとしている。
炎弾の爆発の衝撃で結界は揺らいではいるが、傷付ける事は出来ない。
「はあ、はあ、はあ……力だ……力が其処にある……そう、あいつは言うておった」
僧侶は膝を付いてしゃがみ込み、頭を抱えながら苦しそうにしている。
「あいつ?あいつって誰なの」恐怖と不安とに押し潰されそうになりながら百合は尋ねた。
「ふは、ふは、ふは、知らぬわ、そんな事は関係無いわ……ワシは、ワシは力が欲しいのじゃ!奴はその力のありかを教えてくれたのじゃ!渡さぬぞ……渡すものか……それは……それは、ワシの物じゃあ!」僧侶は頭を抱えていた手を離し、薄笑みを浮かべながら立ち上がった。
立ち上がった僧侶の姿に百合は、攻撃が又来る事を察し、鬼斬丸を構える。
僧侶が錫杖を振り上げた瞬間、百合は鬼斬丸を前にかざし気を送る。
振り下ろされた錫杖から放たれた衝撃波を、前にかざした鬼斬丸で障壁を張り受ける。
衝突した衝撃波は障壁を震わせ弾け飛び、その衝撃で踏ん張っていた百合の体を障壁ごと弾き飛ばした。
弾き飛ばされ結界に激突し、地面へ叩き付けられた百合は、痛みに耐えながら上半身を起こし、僧侶を見て、
「す、凄い……まともに食らったら……」その凄まじい威力に、百合は顔色を失った。
百合は、恐怖から気弱になり、外の二人の方を見て、
「お願い!早く……早く来て!」震える声で叫んだ。
僧侶が、ぎこち無い動きで百合に近付いて来る。
百合は、立ち上がり身構え、恐怖に震える手で鬼斬丸に再び気を送り構える。
僧侶は、鬼斬丸を見ると急に立ち止まり、百合を睨み付ける。
「魔斬りの法具か……」
僧侶は百合から三mぐらい前で、両手を肩の高さまで上げて広げると、僧侶の体から染み出す様に、どす黒い紫色の煙の様な物が染み出して来た。
百合は本能的に、それが危険な物と感じ、鬼斬丸を中段に構えた。
「はぁ!」僧侶が気合いを入れると、突風と共に煙が百合に向って襲って来た。
「くっ!」百合は慌てて障壁を張ったが、煙は巻き込む様に流れ、百合を包み込んだ。
『吸ってはだめだ……』と百合は反射的に息を止めてしゃがみ込んだ。
五秒位で突風は通り過ぎ、直ぐに百合は、僧侶から距離を取る為、その場から飛び退いた。
「げっほっ……」少し煙を吸った百合は、喉に傷みを覚えた。
僧侶は全身をどす黒い紫の煙で包みながら、まっすぐに石柱の方へと向かった。
「手が出せない様にか……」煙で包まれた僧侶を見て、百合は僧侶に近付けない事を知った。
結界の外では、玉江と粉雪が必死に炎弾をぶつけて攻撃している。
その凄まじい爆音は結界の中にも響き、外では爆炎が舞い上がっている。
僧侶に手が出せず、ただ僧侶を見据ていた百合は、
「白ちゃん!白ちゃん!何処!」急に後ろに居た筈の白菊の事を思い出した。
その時、草むらから、がさがさっと何か動いた音がした。
その音に振り向いた瞬間、白い影が百合に飛び掛って来た。
百合は咄嗟に身を捻り、それを躱して身構える。
「ぐるるるる……」其処には、低い唸り声を上げる、大型犬ぐらいの大きさの白い狐が居た。
「えっ?もしかして……白ちゃん?」百合はその白狐を見て、戸惑っている。
辺りを見回しても白菊の姿は無く、百合は目の前の白狐が白菊であると気付いた。
白菊は身を低く構え、百合を睨みながら、唸り声を上げている。
ズッドオォォン……ズッドオォォン……
その時、石柱の方から地響きと共に空気を震わせて大きな音が響いて来た。
僧侶が錫杖で石柱を叩き付けている。
「ははははは、力じゃ!力じゃ!」僧侶は、高笑いを上げながら石柱を叩き付けている。
僧侶の振るう錫杖に叩き付けられる度に結界の石柱は振るえ、その振動が石柱の周りの土を舞い上げている。
「結界を壊す気なの?止めなきゃ!」と、百合が動こうとした瞬間、白菊が飛び掛って来た。
百合は再び身を翻し、白菊を躱した。
「白ちゃん!私が分らないの!どうしちゃったのよ!」
白菊の目には狂気が走り、百合の言葉に反応しない。
誰かに操られているのかと考えていると、先程僧侶が放った瘴気の事を思い出した。
「さっきの瘴気に毒されたの……」
白菊は瘴気に毒され我を忘れ、瘴気の霊力に刺激されて白狐に変化していた。
白菊が百合に向かって攻撃態勢に入る。百合は戸惑いながら鬼斬丸を中段に構える。
しかし、『だ、だめよ、白ちゃんに鬼斬丸は使えない……』と百合が迷い、鬼斬丸を下ろして隙が出来た瞬間、白菊が飛び掛り百合を押し倒すと、身を翻し百合の左肩に深く牙を入れた。
「ぐっ……」食い込む牙に、百合は顔を歪めた。
「主!」
「主!」結界の外で二人が百合に向かって叫んだ。
百合は鬼斬丸を手放し、白菊の上顎を持って引き剥がそうとしている。
「白ちゃん、止めて、目を覚まして、お願い……」百合は痛みに耐え、歯を食い縛る。
「ぐうぅぅ……」百合の言葉は白菊には届かず、更に牙が食い込むと、
ボキッ!と、鈍い音と共に百合の鎖骨が折れた。
痛みのあまり、声も出せず百合は気を失いそうになり、白菊を掴んでいた右手を離した。
「主!主!」粉雪が結界に近付き叫ぶ。
「主!何をしておる!鬼斬丸を使わぬか!」玉江も結界に近付き叫ぶ。
『だめよそんな事、出来ない……』玉江の声を、百合はかすれる意識の中で拒否した。
「早く!そのままじゃ、喰いちぎられっちまうよ!」
「ええぇぇい!我が身を守らぬか!」玉江が叫びながら、再び炎弾を放ち出した。
「お玉さん!こっちよ!此処、結界が乱れている!一点を狙うよ!早く!」
粉雪が玉江に指を差して示している。
「二人同時に放つよ!」
「承知!」
二人は、一点に炎弾を集中し結界を破りに掛かっている。
結界が歪んで稲光が走っているが、目だった効果は無かった。
その様子を見て百合は、外の二人が入って来れない事を悟ると、
「白ちゃん……ごめん……」と、鬼斬丸を再び握り振り上げた。
振り上げた鬼斬丸の切っ先を、白菊の首筋に向けると、
「だ、駄目だよぉ……出来ないよぉ……」と、鬼斬丸を振り上げたまま止まってしまった。
白菊が、一人で苦しんでいた事、帰れると聞いて喜んだ事、嬉しそうに稲荷寿司を食べていた事、それらを思い出して、百合は鬼斬丸を手放した。
「えぇい……どうしたら良いのよ!」自分の命も惜しいが、だからと言って白菊を滅する事なんて、百合には出来なかった。
出会ってたった三日の仲だったが、百合と似た境遇に苦しんでいた白菊を、滅する事なんか出来なかった。
自分は救って貰ったのに、白菊には何もしてやれずに滅する事なんて出来なかった。
「粉雪!駄目じゃ!このままでは埒が明かん!」
「どうするんだえ!」
結界の外で二人が叫んでいる。
「我が体当たりをする。粉雪は我の合図と同時に炎弾を投げ付けよ!」
「そんな!滅茶苦茶な!」行き当たりばったりな玉江の提案に、上手く行くのかと粉雪は眉をしかめる。
「構わん!行くぞ!」玉江はそう言って上空高くに舞い上がった。
粉雪は不安な表情で玉江を見送ると、結界へと振向き、五本の尻尾を扇状に立て、全力で気を溜めて特大の炎弾を作った。
「しろちゃあぁぁん!」
百合は遠のく意識の中、半分やけくそで、頭突きを白菊の横顔にかました。
「ぐっ……」一瞬白菊の狂気を浮かべた目が歪む。
それを見て百合は『あれ?効いている』と思った。
叫び頭突きをかました瞬間、百合は無意識のうちに頭から、気を発した。
「気付いて!しろちゃあぁん!」改めて気を頭上に溜めて、百合は頭突きを繰り返した。
「ぐうっ!」
百合は白菊の頭の毛を、右手で掴み引き寄せ固定する。
「目を覚ませえぇぇ!」
「ぐうっ!」
「目を覚ませ!……気付け!……目を覚ませ!……」
連続で頭突きをかましているちに、白菊の噛んでいる力が弱くなった。
狂気に満ちていた白菊の目が穏やかに変化し、百合の顔を見た。
白菊は、状況に気付くと慌てて百合から飛び退いた。
「あっ……あっ、ゆ、百合ちゃん……」白菊は、自分が無意識の内に何をやったのかを理解し、その事に戦き、どうして良いのか分からずに戸惑っている。
「粉雪!行くぞ!」上空から玉江が粉雪に声を掛ける。
「あいよ!」粉雪は身構え、炎弾を放つ為に構える。
上空から狐火で全身を包み、全速力で玉江が急降下してくる。そして、粉雪とすれ違う刹那、
「放て!」玉江の合図で粉雪が炎弾を放つ。
粉雪の放った炎弾を追いかけ重なり、炎の玉となった玉江が結界へと飛んで行く。
ズドオォォン!
二つの炎の玉が結界に衝突した瞬間、空気を振るわせる大音響と共に、閃光が走り、炎が舞い散る。
結界を破り青白い炎が突き抜け、隕石の落下の様に地面に激突し土砂を舞い上げた。
結界に開いた穴から粉雪が入って来た時、土煙の中から玉江が立ち上がった。
「主!」
「主!」二人は百合に駆け寄ると、粉雪は人の姿に変化し、百合を抱き起こし、今にも泣き出しそうな顔で百合の傷を押さえる。
「この、虚け者が!」
「ぎゃんっ!……」
玉江が白菊に炎弾を投げ付け、爆風で白菊は吹き飛び倒れた。
「だめ!止めて!玉ちゃん!」百合が叫び玉江の二発めを止めた。
「しかし……」玉江が不満そうな顔で百合を見ている。
「今は、やらなきゃならない事があるでしょ……玉ちゃん、憑いて!」
百合は、鬼斬丸を握ると、抱いてくれている粉雪の体を掴んで立ち上がった。
「馬鹿!駄目だよ!無茶すんじゃ無いよ!」
立ち上がった百合を、引き戻そうと引っ張る粉雪の手を振り払って、
「……憑け」と、百合がふら付きながら玉江を睨む。
倒れかけた百合に、大狐の玉江が慌てて顔を寄せて百合を支え、
「主!無理です!その御体では……」と、百合を諌めると、
「早く、憑け!」百合は、寄り掛かっている玉江を横目で睨み付け怒鳴った。
「……承知……」玉江は躊躇いながら返事すると、霊体となり百合の背中へと入って行った。
玉江が入って来ると、百合の全身に力が漲り、肩の傷の痛みも消えた。
そして百合の背中からは青白い炎が立ち上り、百合の瞳は炎の色と同じ青白く変わった。
しかし、さすがに鎖骨の折れた左腕は、動かない。
左腕が使えなくとも、玉江の憑いている今、百合は負ける気がしなかった。
「あの野郎……」百合の心に、怒りが噴出した。
自分や白菊を苦しめ、玉江や粉雪に心配をかけ、何より未熟な自分に恐怖を味合わせた事。
今の百合は頭に血が上り、怒りが心を支配していた。
そして、目の前の敵に、百合に流れる鬼の血が〝戦え〟と煽った。
百合は、僧侶の纏っている瘴気から身を守る為、全身を青白い狐火で包み込んだ。
「たあぁぁ!」百合は気合と共に飛び上がり、鬼斬丸を振り下ろし気を放つ。
僧侶は、それに気付き振り向き錫杖で払い除ける。
一瞬出来た隙に、僧侶の前に着地した百合は、振り下ろした鬼斬丸を返し、振り上げる。
振り上げた鬼斬丸が、一瞬早く飛び退いた僧侶の脇腹を掠め僧衣を切る。
「邪魔を……するな……」僧侶は、錫杖を構え攻撃態勢に入った。
百合は、僧侶に攻撃の機会を与えない為に、鬼斬丸を左右続けて袈裟懸けに振り下ろし、連続で気を放つ。
僧侶は体を捻り、横に飛び退き、放たれた気を全てを避け、体制を取り直し、錫杖を構え間合いを計っている。
「くそ、早い……」百合も五mぐらい後ろに飛び退き、間合いを取って鬼斬丸を構えなおす。
「はあ、はあ、はあ、あれを躱すか……くそっ」
息が上がり、出血のせいか目が霞みだした百合は、僧侶の早い動きに、どう戦えば良いか考えていた。片手で重い日本刀を、早く振り回すのは無理がある。
「主……大丈夫ですか……」玉江の声が頭の中で響く。
「……何とか……」
「無駄に気を放っても、消耗するだけです……一撃にかけます」
「分かった……」
玉江には分かっていた。百合の気の力はまだ残っているが、出血のせいで百合には体力が残っていない事を。
予想以上に動きの早い僧侶に戸惑う百合だったが、玉江が憑いてくれている事を改めて認識すると『絶対に負けない!』と、自信が沸いて来た。
「奴は動きが早い。気を放っても避けられてしまう……懐に飛び込み、直接斬るしか無い」
百合は鬼斬丸に一気に気を送ると、空気を震わせ鬼斬丸が緑に輝く。
「たあぁぁ!」百合は片手で上段に鬼斬丸を振り上げ、一気に飛びかかった。
鬼斬丸を振り下ろす所を、僧侶は右へと体を捻り躱した。
「今だ!」着地し、しゃがんだ状態から、一気に跳ね上がり、斜め上方向にバックスイング。
それに気付いた僧侶が、錫杖で受け止め様と構えた時、
「ぐわあぁぁ!」鬼斬丸は錫杖と共に僧侶の腹部を切り裂いた。見事に胴貫きが決まった。
僧侶は、どす黒い煙に包まれ、霧の様な粒子を舞い散らしながら倒れた。
倒れた、僧侶から煙が消えると、其処には骨となった姿が横たわっていた。
『勝った……』と思った瞬間、百合は崩れる様に倒れた。
倒れた百合に粉雪が駆け寄り、百合を抱き起こして、
「お玉さん!変わって!私が憑くから、あんたは、百合ちゃんを乗せて病院に!」
粉雪が泣き叫びに玉江に言った。
「承知!」玉江が百合から出て、大狐へと変化する。
「うっ!」玉江が体から離れ、百合は肩の傷の痛みが蘇り、苦痛に顔を歪めた。
「ゆりちゃあぁぁん!ゆりちゃあぁぁん!ゆりちゃあぁぁん!」
白菊が、白狐の姿のまま倒れている百合に、飛びつく様に乗って来た。
「良かった……」百合は、白菊の無事な姿を見て安心すると意識を失った。
「お退きよ!急いでんだよ!」粉雪が怒鳴り、白菊を引き剥がそうと白菊の首筋を掴む。
「この!」と、粉雪が白菊を引き剥がそうと力を入れた時、白菊の全身が青白い閃光を放ち輝きだした。
「な、なんだい……」粉雪は、その輝きに一瞬怯み白菊から手を離した。
「これは……」玉江が、光る白菊を見ながら呟く。
気を失っている百合は、夢の様な中で『これで死ぬのかな……』と思っていた。
導厳と國仁に救って貰った自分。自分が何であるか確かめたかった自分。自分の生きる意味を見付けたかった自分……『まだ、何もしていない!』そんな思いが浮かぶと『死にたくない!まだ何もしていないのに!まだ何も見付けていないのに!まだ死にたくない!』
そんな思いが込み上げて来た時、
「ちゃあぁん……りちゃあぁん……ゆりちゃあぁん!」遠くで白菊の声が聞こえた。
百合がゆっくりと目を開けた時、自分が柔らかな暖かい光に包まれて居るのが分かった。
「主!」
「主!」百合の目の前に玉江と粉雪の顔があった。
「あっ……」と、百合は何があったのかを思い出し、慌てて飛び起きた。
「よ、よかった……良かった、気が付いた……」粉雪が、涙を流して百合を抱きしめた。
「主、主、主……」霊体の玉江は涙は出ていないが、泣き出しそうな顔で百合を見ている。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」白菊は、何時の間にか少女の姿に戻って、百合に縋り付き謝っている。
「白ちゃん……」その白菊の全身が青白く光っている事を、百合は不思議そうに見ている。
「もう良い、白菊。主は回復された……」玉江が白菊に向って、優しく微笑んで言った。
白菊は、玉江の方を向いて安心したかの様に微笑むと、白菊の光が消えた。
「あれ?どうしたの、私……」傷の痛みが消えている事に、百合は慌てて肩を触っている。
白菊に食い付かれた左肩のシャツが大きく破れ、片肌を脱いだ様に白い肌が見えている。
一応、形だけしているAAAカップのブラの片紐も切れていた。
「大丈夫かい……痛い所無い?……なんとも無いかい?」
粉雪が、百合を抱き起こし、心配そうに百合の全身を見回しながら聞いている。
「えっ?ええ……大丈夫みたい……」傷口が跡形も無く治っている上、折れた鎖骨も治っている事に百合は不思議そうな顔をしている。
「こ奴めが、癒しの術を使えるとは……思いもよりませなんだ……」
玉江が白菊を見ながら、百合に説明している。
「癒しの術?」
「はい、怪我や病を治す術です」
「白ちゃんが?」と、百合が白菊の方を見ると、
「百合ちゃん……ごめんなさい。我は、我は……」
今にも泣きそうな顔で白菊は、粉雪に抱かかえられて居る百合の脇にしゃがんだ。
「良いのよ、もう……それに白ちゃんが直してくれたんでしょ……ありがとう」百合は微笑みながら、白菊に礼を言った。
「ゆり……いや、主!我を、妾を許してくれるのか……」白菊が思い詰めた顔で尋ねて来た。
「良いよ、もう、なんとも無いんだから……でも、主って?」
「我を忘れて居たとは言え、百合ちゃんを殺していたかも知れんあの時、妾を滅する事も出来たのに……なのに……そんな妾の愚行を許してくれた百合ちゃんは妾の主じゃ!」
百合の横で膝を着き、白菊は必死で訴えた。
「駄目よ……そんな……」微笑んでいた百合の顔が急に曇った。
「何故じゃ!主と呼ばせてくれぬのか?」
「だって、白ちゃんは八幡の里に帰るんでしょ……だったら駄目だよ……主なんて呼んだら」
「でも……でも……」白菊は再び縋る様な顔で、百合に訴えている。
「分かった、良いわよ。但し、八幡の里に帰るまでの仮の主ね……ねっ」
百合は、必死で訴える白菊に苦笑いを浮かべ、主と呼ぶ事を承諾した。
「うん……承知した」白菊はそれで満足したのか、満面の笑みを浮かべている。
白菊は、百合を主と呼ぶ、本当の意味を知らない。
だから百合は、白菊を危険なお役目の仕事に引きずり込みたくは無かった。
白菊には、今迄一人で苦しんで居た分も、八幡の里に帰って、幸せに暮らしてほしかった。
○後始末○
百合は、玉江と一緒に近くの村まで出て、携帯で本山に連絡を取った。
弱められた結界を修復する為に、本山の特別部隊が直ぐにやって来るそうだ。
百合達は、特別部隊が現着するまでの間、現状維持の為に現場で待機する様にと指示され、村に出た序に買って来た、お稲荷さんを食べながら待っていた。
「でも、凄いのね白ちゃん。癒しの術だなんて……」
「妾も驚いた……」
白骨の転がっている結界の大岩の傍は、食事をするには少し気味悪かったので、百合達は、建屋跡の束石が並んでいる所で、座って御稲荷さんを食べていた。
「まぁ、汚名、返上って、とこだから……あまり……自慢には、ならないよ」粉雪が嫌味っぽく横目で白菊を見ながら、お稲荷食べている。
「ぶう……それを言うな、粉雪……」それを聞いて白菊は、不満気に唇を尖らせた。
「うぐっ、なんだい!お前!年上に向かって、呼び捨てかえ?」
「我は白狐ぞ!下賎な妖狐が……何を言うか!」
粉雪が御稲荷を飲み込み白菊を怒鳴ると、白菊は立ち上がり粉雪に向って怒鳴り返す。
「ふん!図に乗るんじゃないよ!せめてお雪さんって言いな!」
「ぶっ!」
粉雪は声を荒げながら、狐火を手に燈し、燃えた手で白菊の頭を殴り付けた。
「何をする!」殴られた白菊は、拳を握り締め粉雪に詰め寄り怒鳴る。
玉江は一人、幸せそうに御稲荷を食べている。
粉雪達を対岸の火事と決め込む玉江に呆れながらも『霊力で結んだ実体も、ダメージを受けるんだ』と、百合は小さな感動を与えてくれた粉雪の言う事も最もだと思い、
「白ちゃん!お行儀が悪いわよ!それに、雪ちゃんの言う通りよ。ちゃんと〝お雪さん〟って呼びなさい!」厳しい口調で白菊を叱り付けた。
子供の躾は小さい内にと、身を持って知っている百合は、白菊の不良化を阻止したかった。
粉雪に食って掛かかる白菊が、百合の怒鳴り声に首をすくめ、
「ぶう、主がそう言うなら……」百合に対しては逆らえず、不本意ではあるが承諾した。
「まぁ、しかし、癒しの術が稀で有るには違いないが……」
玉江がお稲荷さんを食べ終わって、やっと口を開いた。
「稀って?」
「修練して習得出来るものでは無いのです。生まれ持っての術なのです」
「そうなんだ……」
「似た様な技は、修練で習得出来るものもあるみたいですが……所詮それは、痛みを和らげたりする程度のものですね……それに同じ癒しの術でも、白菊の様に治癒能力や回復力をここまで高められる者も稀ですね」
「へぇ、そうなんだ……流石、白狐だね。病気も治せるなんて」
子供にしか見えない白菊が、実は凄い力を持っていた事に百合は感心した。
「確かに……しかし、万能ではありません」
「どういう事?」
「体質とかは変えられませんし……生まれながらの病等は血統によるものがあると聞きます。その様な病は治せません。怪我にしても病にしても、自己の治癒能力を高めての事ですから……欠損した物は引っ付く事はあっても、生えては来ない……」
「治療方法の無いものは無理……って事」
「はい……突き詰めれば、死んだ者は直せません……と言う事です」
「なるほどね……」
百合達が待って居ると、本山に連絡して一時間位が過ぎた頃、遠くの方からヘリコプターのローター音が響いて来た。
百合は立ち上がり上空を見詰ていると、タンデムローターの大型のヘリコプターが、ターボシャフトのジェットエンジン特有の爆音を上げて近付いて来た……本山のバートルだ。
百合達の上空で旋回する、チョコレート色の機体に金の帯が胴体にペイントされたバートルに、降下地点の目印になる様、障害物が無い所へ、赤い煙の出る発炎筒に火を着けて放り投げる。
発炎筒を確認したのかサーチライトを二回点滅させて、バートルがホバリングから高度を下げ、地上10m位の所で、改造された機体の後部ハッチが開いた。
そして、小型クレーンのアームから垂らされたロープを使い、次々と僧侶達が降下する。
降下して来た僧侶達は、アメリカのスワットの様な制服を着ていて、着地すると直ぐに、役割を果たす為に各自の配置に着く。
剃髪した連中が戦闘服の様な作業着を着ている姿を見て、日の丸を掲げ大きなスピーカーが付いた車に乗っている団体が思い浮び、百合は少し引いている……君が代が聞えて来そう……
「神崎百合君だね」一人の僧侶が百合に近付き声を掛けて来た。
「はい……」
声を掛けて来た四十歳前の僧侶は、百八十cm近く有る長身に引き締まった筋肉質の体型は、凛々しいと言う表現が当てはまる。
「怪我をしているのか?その情報は無かったが……」
百合の血だらけで破れた服を、僧侶が不思議そうな顔で見ると、
『あっ、やばっ……』と、百合は、僧侶の視線に気付き、露出している胸元を手で隠した。
本山へ連絡する為に集落へ向った時は、ヤッケを着て行ったが、此処に帰って来て暑いから脱いでいたのを忘れていた。
着替えも持っては来ていたが、汗をかいていたので、温泉に入ってから着替えようと思い、肩紐の切れたブラを外したままで、今の百合はノーブラだった……が、別に支障は無い。
「あっ、いえ、大丈夫です、何ともありません……」
百合は『貧乳ばれたか?』と思い、恥かしそうに俯いた……が、ばれる以前に分るって。
「そうか……私は、組頭の魁延と申す。あれが、報告にあった結界石だね」
「はい」魁延と名乗る僧侶と共に、百合は結界石の方を見た。
「了解した。後は我々の組が引き継ぐ……良くやった、ご苦労だった」
魁延は、微笑みながら百合に向い合唱した。
百合は『此処は敬礼の方が合いそうだなぁ』と違和感を感じながら、
「はい、ありがとうございます」と、つられて百合も合唱して頭を下げた。
「百合ちゃん!」
背後からの聞き覚えのある声に百合が振り向くと、同じ制服に頭巾スタイルと言う、ある意味セクシーとも言えるシュールなスタイルの、純慶と奏栄が走り寄って来た。
「心配したのよ……どうしたのそれ!服が破れて!血なの!」
純慶は顔色を失い、百合の血に染まった破れた服を見ている。
「あっ、大丈夫です!純慶様。ほら、怪我なんてしてませんから……」
百合は、貧乳がばれる(既に知っている)事を恐れず、服の破れた所を開けて見せ、純慶を心配させまいと努めて明るく説明した。
「そう……良かった……連絡を受けて本当に心配したのよ」
百合の白い肌が見える肩に、優しく撫でる様に触れながら、傷の無い事を確認した純慶は、ほっと胸を撫で下ろした。
「すみません……ありがとうございます……」
純慶の手が肌の上を滑る心地良い感触に、百合は頬を染めて、恥かしそうに俯いた。
そして破れた所を隠す様に、純慶が百合の肩にタオルを掛けていると、百合は思い出したように、顔を上げて、
「あっ、でも、お二人もヘリから降りて来られたのですか?」と、百合は不思議そうな顔をして尋ねると、純慶と奏栄は顔を見合わせて微笑みながら、
「あら、私達にも実戦の経験はあるのよ」と、純慶が百合に言った。
百合が、そんな二人を不思議そうに眺めていると、
「神崎君!すまんが来てくれ!」魁延が結界石の方から手を振り百合を呼んだ。
「はい、直ぐ行きます」百合は、二人に頭を下げ挨拶し、魁延の方に走って行った。
「何でしょう?」
「此方の仏に付いて、何か知っているか?」横たわる白骨を見ながら魁延が聞いて来た。
「詳しくは、知っている訳ではりませんが……会話は少し交わしました」
「内容を詳しく教えてくれないか?」
「はい……」
百合は、僧侶との戦いを、重要と思える部分を掻い摘んで説明した。
百合の話を、眼鏡をかけた若い僧侶が、メモを取ったり、百合の報告に質問を交えながら熱心に聞いている。
其処へ、純慶達もやって来て百合の話を聞いた。そして、一通り話し終わると。
「どうじゃ、衛智……」魁延が隣の若い僧侶に問い掛ける。
「そうですね、文献に照らし合わせますと……此処は、証覚寺と特定出来ます。そして、この方は、推測ですが……命と引き換えに滅火を封じたと書かれている、証念様では……」
頭の良さそうな、如何にも秀才タイプの衛智が、資料を見比べながら魁延に説明した。
「そうか……その古文書は正しかったか……純慶様、この方の心が見えますか?」
魁延は、純慶に向き直り尋ねた。
純慶は頷き、骸の直ぐ横にしゃがみ込み手をかざし、小さな声で真言を唱えている。
「……!……」瞑想する純慶の顔が一瞬曇った。
暫くして、純慶は静かな溜息を付いて、ゆっくりと膝を着き正座し合掌する。
「本来なら、これほど徳を積まれた方が、浄土へ行けぬ理由等、何も無いはずなのに……」
横たわる骸に手を合わす純慶の顔に、骸を哀れむ悲しみの心が滲み出でている。
「それでは……」
「証念様に間違い無いかと……」
それを聞いて魁延と衛智も正座し、骨となってしまった証念に、恭しく手を合わせた。
「純慶様。お聞きしても宜しいでしょうか」向かいに座る衛智が、純慶に遠慮がちに訪ねた。
「何をですか」
「何故、証念様は……お迷いになって居られたのでしょうか?」
「お迷いになって居られたのではありません……守って居られたのです……この地を」
「えっ?」涙混じりに震える声で伝える純慶の言葉に、二人は驚く様に純慶を見た。
「証念様は、滅火を封じる為に、自らの命を捧げられたのです」
「どの様に……」若い衛智は、古文書を度々見ながら、興味深げな表情で聞いている。
「滅火を何とか封じる事は出来たものの力が足りず、封印は不安定な物だった様です……そこで証念様は、この地で即身成仏し封印を守る事を決意なさったようです……」
「何と……」
「…………」即身成仏と聞いて魁延と衛智は、改めて証念へ合掌している。
「私の感じた証念様のお心は……力が欲しい、力が欲しいと……滅火を永劫に封じる為の、力が欲しいと……我が命尽きるとも、この地で果てるとも、滅火を封じてくれようぞと……そう感じられました」零れる涙を袖で拭いながら、純慶は皆に自分の感じた証念の心を伝えた。
百合はそれを聞いて、証念が叫んでいた〝力〟と言う言葉を思い出していた。
「即身仏と成り、この地に留まわれた証念様を惑わした者が居ります……」
「惑わした者……それは、神崎君の報告にあった……証念様が仰っていたと言う〝あいつ〟の事ですか?」それが今回の事件の鍵となる思い、魁延は身を乗り出し尋ねた。
「おそらく……何者かは分かりませんが、確かに誰かが証念様を惑わしたと思われます……長年に渡り、念としてこの地に魂を縛り付けて居るうちに、お心がか細くなられたのでしょう……そうならぬ様に、この地に寺を建て、ご法要して来たと思われますが……既に寺が無くなってからは久しく……」
「なんとも……哀れな……」純慶の言葉を聞いて、三人は再び恭しく手を合わせている。
「分かりました……いかがすれば良いと思われますか……」
手を下ろし、魁延が純慶に尋ねた。
「正念様のお気持ちを考えると……再びこの地にお納めし、御供養する事が宜しいかと」
「御供養ですか、分かりました」純慶の言葉を聞いて魁延は立ち上がり、辺りを見回し、
「おい!亜廣!」近くに居た若い僧侶を見付け、百合も良く知っている名前を叫んだ。
その名前を聞いて『げっ!』と、百合は魁延の向いている方を見た。
魁延に呼ばれて、ダッシュで亜廣がやって来ると『何で居るんだよ、事務方が?』と、思いながら、百合はそっと亜廣の視界に入らない位置へと移動した。
「何でしょうか!」亜廣は、魁延の前まで来ると、合掌しながら頭を下げ、直立不動の姿勢で魁延の命令を待っている。
「証念様を、お労らいする為、一時本山にお迎えする……丁重にな……」
「はい!」
合掌しながら魁延が命令を伝えると、亜廣は合掌しながら返事をして、一礼をすると荷物置き場へダッシュで戻り、荷物を持って他の若い二人の僧侶と共に戻って来た。
幾ら人手不足だと言っても、ペーペーの事務方まで借り出されて居る事に、百合は今、自分達は大変な事に直面しているのだと実感した。
亜廣達は持って来た棺の様な木箱に、白い布で一つ一つ丁寧に遺骨を包んで収めている。
作業中、亜廣が自分の方をちらっ、ちらっと見ている事に百合が気付き、
「何んか、用っすか?」『くれてんじゃねぇぞ!』と、不良時代の癖で、眼を飛ばす。
「いや……凄いなって……」遺骨を布で包みながら、亜廣が感心する様に呟いた。
「えっ?」亜廣の以外な言葉に、百合は思わず耳を疑った。
「これ……神崎一人でやったんだろ……」
「は……はあ……」
土砂が舞い散り、草木が倒れた現場を見回し、亜廣が感心している姿を『一人と言う訳じゃ無いけど……』と思いながら、百合は不思議そうに眺めていた。
「何時も……こうなのか……命がけの……」亜廣は淡々と作業を続けている。
「ええ……今回は特に、きつかったですけど……」と言うか、初めて死に掛けた。
「そうか……」作業を終えて亜廣は立ち上がると、百合に頭を下げ合掌した。
「あっ、ども……」思わずつられて百合も合掌すると、亜廣が恥かしそうに微笑んでいる。
そして、亜廣達は遺骨を収めた木箱を持って、荷物置き場の方に帰って行った。
滅火が荒らされ始め、人手不足となって亜廣も方々(ほうぼう)の現場へと連れ回され、色々と悲惨な現場も経験したみたいだ。
その現場を見て、百合達の過酷な戦いを知った亜廣の心は、少しづつ変わった行った。
辺りが薄暗くなって来た頃、結界は元通りに修復されたが、弱まって来ている封印は、十人ぐらいの僧侶が、暫くは泊り込みで封印強化の作業をする。
百合の聞いた魁延の話によると、此処を綺麗に整備して、供養塔を建て証念を再び安置するらしいが、管財方の連中に、又五月蝿く言われそうだと冗談混じりに嘆いていた。
純慶達がヘリで帰る時、百合も誘われたが、旅館に荷物が置いてあるからと言って断った。
実は、本当の断った理由は、温泉に入ってゆっくりしたかったからだ。
百合は、純慶達の乗ったバートルを見送って、旅館へと向かった。
○玉江○
「いやあぁぁぁ、癒されるねぇ……良いお湯だよ。生きていて良かったよぅ……」
百合は露天風呂に浸かり、今日の事を思い出しながら、改めて、
「生きているって……素晴らしい……」と、感動している。
百合が入っている所に、玉江と粉雪が白菊を連れて露天風呂へとやって来た。
「白ちゃん……」白菊は実体化して、すっぽんぽんのぽん。
「こっ、これは……湯か?……大丈夫なのか?……入っても……」
「何言ってんだい……私達見りゃ分かるだろ……」既に肩まで浸かった粉雪が言うと、
「うむ……なかなか、心地良いものだぞ……」玉江も浸かり、白菊に説明した。
白菊は恐る恐る、しゃがみ込み、両手を突いて片足をそっと伸ばし、足の指だけをちょこっと浸けて安全確認をした後、じわじわと足を浸けて行く……片膝立てて……
その姿に百合は『前、タオルで隠しなさいよ……丸見えなんだよ、はしたない』と思った。
白菊は、安全が確認出来たのか、続けて全身をゆっくりと浸けて行った。
「おぉぉ……」白菊は、両手の拳を胸の前で握り締め、感動の声を上げて、
「これは、なかなか、寛ぐと言うか、安らぐと言うか」恍惚とした表情を浮かべ満足そうだ。
「それをね、気持ち良いぃぃぃって言うんだよ」例によって粉雪がオーバーアクションする。
「気持ち良いいぃぃぃ」それを見て白菊も真似をし、二人は顔を見合わせ笑っている。
「ははは……いいコンビだ……俗物……」それを見て百合は呆れて呟いた。
百合達は、今日の出来事を思い出しながら話を咲かせていた。
「主、何時頃、八幡へ向かうのじゃ?」
「そうね……一度帰って……」
「……主……その事なんですが……」
玉江が、何時もに増して真面目な顔で、百合と白菊の話しに割って入って来た。
「八幡に帰っても……白菊は、受け入れて貰えぬやも知れません……」
「えっ?どう言う事?……」玉江の言葉に百合は驚いて、玉江へと振向いた。
白菊も訳が分からず、目を大きく開いて玉江を見た。
「白菊は、人の血で汚れました故、八幡守様がお許しになるか……」
「どう言う事よ……血で汚れたって……」
「白菊は、主の血を流しました……これは、我ら伏見様に仕える白狐にとっては、禁忌なのです。人々の信仰厚い伏見様の使いである我々が、人に害をなす事は、許される事では無いのです……」
「そんな……あっ、でも、白ちゃんが直してくれたんだよ……それじゃ駄目なの?」
「妾では判断しかねます……あくまでも、伏見様より名を賜った八幡守様の判断かと……最悪の場合、伏見様の前での裁きもあるかと……」話しながら玉江は、白菊の方を向いた。
玉江の視線の先には、話を愕然とした表情で聞いている白菊が居た。
「我では何とも言えぬ事ではあるが、分かっていて黙っているのもどうかと思うてな、許せ、白菊……嫌な事を聞かせた」玉江は、小さく頷く様に白菊に頭を下げた。
「で、では、我が帰っても、八幡の里には入れぬと……」震える声で白菊が玉江に尋ねると、
「やも知れぬ……と、言うた……」そんな白菊を見るのが辛いのか、玉江は視線を逸らした。
「それじゃ、なに?白ちゃんは、私達と出合ったから……私の役目に巻き込まれたせいで、八幡に帰れないかも知れないって言うの……そんな……私のせいで……」
「主……まだ、そうとは……」玉江は、自分自信を責める百合に気遣い声を掛けると、
「ごめん、白ちゃん……ごめんね、私のせいで……」百合の目には、涙が溢れていた。
「主!……言うな!妾はそんな事、微塵にも思おては居らん!主は……主は、妾にようしてくれた……優しくしてくれた!」白菊が、百合の腕にしがみ付き、強く訴えると、
「白ちゃん……」百合は、泣きそうな顔でしがみ付く白菊の頭を優しく撫でた。
「一人、怯え、惨めに隠れて居た妾を救ってくれた……主の命を奪いかけた妾を、笑って赦免してくれた……だから、だから、そんな事言わんでくれ!」
「ねえ……どうしたら良いの?……」涙を浮かべ、百合は玉江を縋る様な目で見た。
「主……先程も申しました様に……妾では、何とも……」静かに玉江は首を振っている。
「黙ってりゃ良いんじゃないの……」粉雪は白菊の姿を見るのが辛く、顔を背けて居る。
「愚かな……我ら神に仕える一族、隠し通せるはずが無かろう」
「我は……どうなるんじゃ……」百合から顔を上げ、白菊は玉江を見た。
「懸念するなとでも、言って欲しいのか」辛い思いから、玉江はつい冷たい口調になった。
「そんな!……」白菊は、更に顔を曇らせる。
白菊と玉江の間に重い空気が流れた。
「ただ、白菊、これだけは覚えておけ……八幡守様を信じるのじゃ。長であられる、八幡守様を……そして、どんな裁きが出ようとも、真摯に受けよ……」
「……承知……」白菊は頷き、玉江を見詰める。
「……」見詰める白菊に、玉江も静かに頷いた。
玉江は、そう言って黙ってしまった。
そして、暫くして玉江は目を閉じ、大きなため息を一つ付いて、静かに話し出した。
「白菊……ある、愚かな狐の話をしてやろう……」
沈んだ声で話す玉江に皆は注目した。
「五百年程前、ある狐が人間の男に懸想しての」玉江は目を開け、遠くを見る様に空を見た。
「その人間の男は侍で、小さな國の領主じゃった。狐は姫に化けて男に近付き、やがて二人は恋仲になった……二人は祝言を挙げ、中睦まじく暮らして居った。二人には当然、子が出来なんだが、お互いがお互いを信頼し合い助け合って、幸せに暮らしておった」
懐かしむ様に空を眺める玉江の顔は、何処か寂しく、何処か悲しそうだった。
「狐は奥方としての役目も懸命にこなした。台所の事、近隣諸侯との慶弔事の付き合い等、賢くこなし家臣達からも信頼されて居った。しかし二人の幸せも長くは続かなかった。領主が五十の歳に病に倒れた。医師や薬師達を軒並み呼び寄せたが、殿の病は悪くなる一方じゃった」
玉江の話を皆は黙って聞いている。
「狐は何とか殿の病を治そうと、仲間の狐や、知り合いの化物に、何か良い薬は無いかと聞いて回った。そして、良いと聞いた薬草を悉く殿に煎じて差し上げた。狐は必死で薬草を集め、寝る間も惜しんで、調合した……その甲斐あって殿は徐々に良くなられた様じゃった。殿も、奥方のお陰と思うて居られた……」
此処まで話すと、玉江は急に黙り顔を曇らせた。
「じゃが、ある日……狐は薬を調合している所を家臣に見られた。霊力を込める為に、狐の姿に戻っている所を……そこへ家臣は行き成り刀を抜いて〝化物め!〟と叫んで斬りかかって来た。自分達が信頼している奥方と知りながら。狐は殿に助けを求める為、殿の寝所へと向かい殿に縋り付いた。しかし、家臣から奥方は化物だと聞くと〝よるな!〟と叫んだ……」
「そんな……」玉江の話に、百合は思わず声が漏れた。
「奥方は……狐は絶望の奈落へと突き落とされた。あれほど信頼していた殿に、あれほど慕っていた殿に、寄るなと言われて、狐は愕然と呆けて居ると、殿が……殿が、刀を……抜いて……切りかかって来た……」玉江が唇を噛み、赤い十字のある額にしわを寄せて目を細める。
「何が起きているのか理解出来ず、狐は動けずに居ると、殿の一振りは、狐を切り裂いた……狐は、痛みに叫び声を上げた……それは、傷の痛みでは無く、心の痛み……思い思われ、慕い慕われ、三十年の時を夫婦として暮らして来た殿に、刃を向けられたと言う、心の痛み……口惜しく、情けなく、惨めで……何時しか狐は怒りで我を忘れ……城に居った、百人の家臣を……殿と共に狐火で焼き殺していた……」
「!……」玉江の話すその悲惨さに、百合は驚き目を大きく開けた。
「狐は己のした事に戦き恐怖した……しかし時既に遅く、狐は屍の海に一人佇んで居った……狐は愚かだった……己が狐である事を謀って殿に近付いた事。それが、如何に愚かな事であったかを、全てを破壊してから気付いた……」
玉江は、其処まで話すと立ち上がり、既に暗くなった空に浮かんでいる月を眺めている。
そして湯船の縁の岩に座り直し、何を思ってか、再び月を見詰めている。
そして、玉江は静かに、
「その、愚かな狐とはな……我の事じゃ……」そう言って、悲しそうに少し微笑えんだ。
皆は、言葉無く驚いている。
その時、温泉の出入り口の方から、団体客だろうか、多勢の人達が入って来る気配がした。
「出ようか……」
百合の言葉に皆は無言で従った。
部屋に帰って、どれぐらいの時間が経っただろうか……重い沈黙が続いている。
「白菊……」
沈黙を破って玉江が白菊に声をかけ、白菊は静かに玉江の方を見た。
「そもそも我らの主は、何方じゃ……」静かに問いかける玉江の言葉に、
「それは……あっ!」白菊は思い出した様に声を上げる。
「気付いたか……」
「伏見様……」愕然として呟く白菊。
「そうじゃ、伏見様じゃ……」
それを聞いて百合は『そうだ、白狐は伏見様の使い……』とあらためて思い出した。
「何処に居っても……同じ月が見える……」
玉江は窓の外の月を、過去に思いを馳せる様に眺めている。
---◇---
満月が空高く上る頃……朱塗りの神殿の前に御重臣方が召集されて居られる。
神殿へ登る階段の両脇に、一際大きな白狐が二柱控え、その前には十二柱の守護を務める古老の白狐が、参道を挟み向かい合い二列に並んで、下に控え裁きを待つ我を見ている。
並んだ老狐の後ろには、その一族古参の白狐達が控えている。
神殿の五つの扉が静かに開き、一つ一つの扉にある御簾の奥に、ぼんやりと光が見える。
白狐達が皆、深く頭を下げると、
「近江守、その、大罪を犯したる者、滅せよ」と、神殿より声がした……覚悟はしている……
「我が主の仰せのままに……しかしながら、永きに渡り主に仕えし老狐の愚拙なる思いを、正一位五社稲荷大明神、御方々(おんかたがた)……お聞き願う時を、幾許や頂けぬものでしょうか……」
神殿の前に並ぶ老狐、その一番前の右側に近江守様がいらっしゃる。
「……申して見よ……」
「恭悦至極、されば、畏、畏て、申しまする……古より、数多の者達から信仰を集める伏見様の使徒たる我等が、人を殺める事など、言語道断……決して許される事ではありませぬ……されど、人を慈しみ、慕う気持ちは悪しき事でありましょうや、想い人の命を救わんとするは悪しき事でありましょうや……己の立場を忘れ、己の姿を偽り、人に近付いたは愚かな事なれど、深く思慕した者に裏切られた、玉江の心も察してやって頂きたく……」
近江守様は、深く頭をたれ石畳に平伏され、言上されている……この、愚かな痴れ者を、庇って下さると言うのか……何とも、勿体無し……
「……助命を……嘆願すると、言う事や……」
「恐れ多い事とは知りながら、この愚拙な思い、お聞き願えれば……」
「近江守よ、その者の犯した罪、百度生まれ変わり償っても、償いきれぬ罪と知って言うて居るのや……」
「十二分に。されど、滅するは罰、償いにはなりませぬ」
「黙れ、逆らうか……」
「いえ!滅相もございません!」近江守様は、恐れ戦き、平伏したまま、少し下がられる……
我の様な者の為に、お叱りを受ける事を承知で……
「では問う。玉江、如何すれば、償える」えっ!妾が……
近江守様の方を平伏したまま見る……近江守様は小さく頷いていらっしゃる。
「恐れながら、申し上げまする……若輩、浅学の妾にて、ご無礼ある事、なにとぞ平に……」
「よい……申して見よ」
「はっ、申し上げまする……愚昧なる妾は、菩提を弔う事が最良と思いまする」
「……玉江よ……お前の心情を踏み躙った者達を、心底、安寧を願い弔えるのや……」
「…………」それは……それは……
「答えぬか……」ぐっ、言葉が、見つからぬ……
「玉江」
「はっ!」
「お前は、白狐である事を謀り、人に裏切られた……では、初めより白狐である事を明かして居れば、裏切られぬであったと思うや……」それは……
「人とあやかし……誠、相見互ると思うておるや」うっ……
「そを、見付けねば、弔う事など出来はしまい……」それは……それは、そうではあるが……
「そも、償う事など出来はしまいに……」
されど……させど、我が殿をお慕いした気持ちに偽りは無かった。幸福の中で過ごした三十年の時を、我は、我は……
「されど!弔いとう存じます!」幻とは思いとう無い!
我は、恐れ多い事に稲荷五大神に向って無意識のうちに叫んでしまった。
「控えよ!玉江!」
「はっ!」我は近江守様に叱責され、頭を低くし下がった。
「方々、問答に興じるもたいがいに……どうであろうのぅ、この者に答えを見付け出させては……滅する事など容易い事、百年先、二百年先であろうと、我らにとっては泡沫……何時でも出来よう。されど、答えを見付けるは、そう、易し事ではあるまい」
「宇迦之御魂殿がそう申されるのであらば……」
「近江守」
「はっ!」
「追って沙汰する……」
「はっ!」
その言葉を最後に、神殿の扉は静かに閉じられ、老狐達は狐火と成り、一族を引き連れ空へと散って行った。
裁きが終わり、我の命は永らえられた……近江守様……
「近江守様……この様な痴れ者の為に……」
「玉江、一族の者を守れずして何が長か……それに、わしはお前の心を、代わって言うたまでじゃ、気に置かずとも良い、お前の心は承知しておる……」
「近江守様……」
「されど、玉江、助命が叶ったとて、これよりの試練……死よりも辛いものと覚悟せよ」
「……もとより……」そう、これは罰……
「玉江……いや、よい……帰るぞ……」
「はっ!」
狐火と成り、近江の地へ向う近江守様の後を追って、一族の者と共に我は空へと舞う。
その時、夜空には月が輝いていた……綺麗な月だった……
それから半年して、沙汰が下った。
まずは、籍の抹消と近江の地からの追放……我は主を失った……
そして理由も告げられず、恐山の麓の小さな社に我は幽閉された。
幽閉と言うても、牢にではなく、人も通わぬ朽ちた社の敷地から出られぬ様に、時の狭間に結界を張られ、其処に閉じ込められた……額に咎への戒めの十字を刻まれて。
小高い山の北斜面、五十段ばかりの石段を登った所にある、二十間四方の小さな敷地に、三間四方の拝殿があり、その後ろには一間四方の祠がある……この様な所、誰も来ぬ。
我は其処で日々、社の守をしながら、伏見様より仰せ付かった事を模索した。
人とあやかしは、誠に心を通わせる事が出来るのであろうか……その答えを。
殿を愛した事は……事実。
殿が我を愛してくれた事は……事実……だが……
何故、我があやかしと知ると、心変わりされた?
我が、どの様な姿であれ、我は、我なのに……
やはり、我が謀って居た事に……いや、そうでは無いと思う。
……ふぅ……確かに、伏見様の仰せの通り、この様な気持ちでは弔う事など、出来ぬな……
人は、あやかしと見ると恐れ戦く。人にとって、あやかしは脅威でしか無いのか……
如何に人の姿で心を通わせたとしても、あやかしと知ると……
人は、あやかしを恐れるだけではなく……信用していない……愚かな事だ……
その様な事では、人とあやかしが心を通わせる事など、出来ようはずが無い……
長い間、堂々巡りの問答を繰り返すうちに、徐々に考える事が馬鹿らしくなって来た。
人があやかしを信用しないのでは無く、人は信用出来ないと言う気持ちが強くなって来た。
更に、何故人と心を通わせなくてはいけないのか……そんな事は、空しく愚かな事だとも思い始めて来た……結局、人はあやかしの心など知ろうともせず、ただ恐れるだけだ。
ふっ……本末転倒とは、この事か……人と、どうすれば心が通わせられるかと、問うていた我が、それを否定し始めたのだからな……
そんな日々が過ぎて行き……どれほどの時が過ぎたのかさえ分からなくなっていた時。
一人の不思議な人間の少女と出会った……そして、我はその少女を主と呼んだ。
---◇---
「我は、犯した罪により、一族の籍を追われておる……故に、神崎様を主と呼ぶ……しかし白菊、お前は違うであろう……」
「…………」白菊は、ただ黙って俯いている。
「どの様な沙汰が下るかは分からぬが……真摯に受けるが良い……」
「承知……」