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婚約破棄されましたが、実は王国経済の三割を支えていたのは私ですので、どうぞご自由に崩壊なさいませ

作者: uta
掲載日:2026/06/22

「アリシア、君との婚約を破棄する」


王太子エドワードの声が、月光に照らされた大広間に響き渡った。


シャンデリアの煌めきが一瞬止まったかのような静寂。数百の視線が私に突き刺さる。隣には、今にも泣き崩れそうな顔で殿下を見上げるセレスティア嬢。


――ああ、やっと、この日が来た。


私は静かに扇を閉じた。三年。長かった。本当に、長かった。


「君は我が愛しのセレスティアを虐めた罪で、この場で断罪される」


エドワード殿下は満足げに顎を上げ、まるで英雄のように胸を張っている。その隣でセレスティア嬢が「私のせいで……」と震える声を漏らし、殿下の袖をそっと掴んだ。


(まあ、見事な演技ですこと。前世で見たブラック企業の社長秘書を思い出すわ。あの人も泣きながら上司に取り入るのが得意だったもの)


「アリシア・ローゼンハイム! 何か申し開きはあるか!」


殿下の怒声。周囲の貴族たちがざわめく。私の背後で、父様が静かに立っているのが気配でわかる。大丈夫。全ては計画通り。


「……申し開き、でございますか」


私はゆっくりと顔を上げた。氷の結晶を思わせると評される薄紫の瞳で、真っ直ぐに殿下を見つめる。


「殿下。私が何をしたと仰るのですか?」


「白々しい! セレスティアから全て聞いている! 君は彼女のドレスを汚し、髪を引っ張り、階段から突き落とそうとした!」


(ああ、それ。全部セレスティア嬢の自作自演なんですけどね)


私は内心で溜息をついた。証拠は全て揃っている。使用人への買収記録、偽造された手紙、そして――媚薬入りの菓子を殿下に贈っていた証拠まで。


でも、まだよ。まだ、その時ではない。


「そうでございましたか。それは、大変なご迷惑をおかけいたしました」


私が静かに頭を下げると、広間にどよめきが走った。


「認めるのか……!」


エドワード殿下が勝ち誇ったように笑う。セレスティア嬢が「やはり……!」と目を見開く。


(ええ、認めてなどいませんわ。でも、殿下にはそう聞こえたのでしょうね。前世のパワハラ上司も、こういう曖昧な返事を都合よく解釈する天才だったもの)


私は顔を上げ、月光を浴びながら微笑んだ。銀髪が淡く輝く。この瞬間を、私は三年待った。


「では、殿下」


声が、自分でも驚くほど澄んでいた。


「婚約破棄、謹んでお受けいたします」


広間が凍りついた。誰もが、私が泣いて縋りつくと思っていたのだろう。


――残念。私はそんな安い女ではなくてよ。


「……は?」


エドワード殿下が間の抜けた声を漏らす。その顔に浮かんだ困惑が、今日一番の収穫だった。


玉座の方で、エレノア王妃様が扇の陰で何かを囁いている。「な……この娘、泣いて縋りつくとばかり……」という声が微かに聞こえた。


(あら、王妃様。私がそんな安っぽい反応をするとでもお思いでしたか? 三年間、この日のために準備してきたのですよ)


私は深々と一礼した。完璧な角度で、完璧な所作で。


「三年間、婚約者として至らぬ点も多々あったかと存じます。ですが、本日をもちまして――」


月光が差し込む窓辺に、見覚えのある黒髪の人影が映った。


ルシアン様。


翠緑の瞳と目が合う。彼は静かに頷いた。全ては、ここから始まる。


「――ローゼンハイム公爵家は、王家への全ての支援を停止させていただきます」


静寂。


そして、悲鳴にも似た王妃様の声が響いた。


「な……何を言っているの、この娘は……!」




          ◆◆◆




王妃様の悲鳴が余韻を残す中、私は懐から一通の書類を取り出した。


「お待ちなさい! 支援の停止だと? そのような権限が貴女にあるはずが……!」


エドワード殿下が血相を変えて詰め寄る。ああ、やはりご存知なかったのね。王家の財政がどこから来ているのか。


(前世で経理部にいた私には、数字の流れを追うのはお手の物ですのよ)


「殿下。ローゼンハイム公爵家からの年間支援金額をご存知ですか?」


「そ、それは……父上が管理して……」


「王家歳入の実に四割でございます」


広間がざわめく。貴族たちが顔を見合わせる。私は構わず続けた。


「加えて、この三年間で導入された新農法による収穫量の増加、南方貿易路の開拓による税収の伸び。これらは全て『王太子殿下の手腕』として報告されておりましたが……」


一拍、置く。


「実際に立案し、実行したのは私でございます」


「嘘だ!」


エドワード殿下が叫んだ。でも、その声は震えていた。


「嘘ではございませんわ。こちらに全ての記録が」


私が書類を掲げると、父様が静かに進み出た。銀髪に近い白金の髪が月光に照らされ、威厳ある風貌がより一層際立つ。


「殿下。娘の申すことに偽りはございません。王国経済の三割は、アリシアの政策によって支えられております」


沈黙。


「我が娘を軽んじた報いは、存分に受けていただこう」


父様の声は穏やかだったが、その奥には鋼のような意志が込められていた。


セレスティア嬢が青ざめた顔で後ずさる。ああ、もう遅いわ。逃げ場なんてない。


「それから、もう一つ」


私は二枚目の書類を取り出した。


「セレスティア・メイフィールド嬢。貴女が私に行った『四十九回の嫌がらせ』について、お話しいたしましょうか」


「よ、四十九回……?」


殿下が呆然と呟く。


「ええ。私が虐めた、と仰いましたわね? では、この記録をご覧くださいませ」


私はゆっくりと書類を読み上げた。


「三年前の春。セレスティア嬢が自らドレスの裾を踏み、転倒。『アリシア様に押された』と証言。しかし、その場にいた侍女三名の証言により虚偽と判明」


「ち、違う……! 私は……!」


「二年前の夏。セレスティア嬢の髪飾りが紛失。『アリシア様に盗まれた』と主張。後日、セレスティア嬢の私室から発見」


「それは……誰かが……!」


「一年前の冬。階段での転倒未遂。『アリシア様に突き落とされそうになった』と訴え。しかし、当日私は熱病で寝込んでおり、屋敷から一歩も出ておりません」


広間が、墓場のように静まり返った。


私は書類を畳み、微笑んだ。


「四十九回、ですわ。四十九回、私は黙って耐えました。なぜだかおわかりですか?」


誰も答えない。エドワード殿下は石像のように固まっている。


「婚約破棄を、待っていたからですわ」


私の言葉に、殿下の顔から血の気が引いた。


「貴方に縛られる人生など、私には必要ございません。この三年間、私は着々と準備を進めてまいりました。領地の経営改革、独自の商会の設立、そして――」


月光の中、黒髪の人影が進み出る。


「――隣国との外交ルートの確保、でございます」


ルシアン様が、その場の全員の視線を集めながら歩み寄ってきた。長身で均整の取れた体躯、知性を感じさせる涼やかな翠緑の瞳。その存在感は、エドワード殿下を完全に霞ませていた。


「ヴェルモンド王国第二王子、ルシアン・アレクサンドルと申します」


深い翠緑の瞳が、私を見つめる。


「本日は、一つお願いがあって参りました」




          ◆◆◆




ルシアン様が進み出た瞬間、広間の空気が変わった。


隣国の王子。それも、外交手腕と知性で名高い第二王子。その存在感に、エドワード殿下は見る影もなく霞んでいた。


「ルシアン殿下……! なぜ貴方がここに……!」


王妃様が狼狽える。外交上の大問題だと気づいたのだろう。隣国の王族の前で、自国の公爵令嬢を公開断罪するなど――醜聞以外の何物でもない。


「偶然、この舞踏会にお招きいただきましてね」


ルシアン様は涼やかに微笑んだ。偶然。ええ、もちろん偶然ですとも。三ヶ月前から根回しした『偶然』ですけれど。


(マリーが王宮の招待状発送係と親しくなったのは、本当に幸運でしたわ)


「そして、偶然にも興味深い茶番を拝見いたしました」


茶番。


その一言で、エドワード殿下の顔が屈辱に歪んだ。


「茶番だと……! これは正当な断罪だ! アリシアは……!」


「四十九回の嫌がらせを、黙って受け止めていた被害者ですが」


ルシアン様の声は穏やかだったが、その瞳は冷たかった。


「それとも、エドワード殿下。貴方は証拠も検証せず、一方の言い分だけで婚約者を断罪なさるのですか? それが、次期国王の器というものですか?」


沈黙。


私は扇の陰で、小さく笑みを漏らした。ルシアン様、相変わらず容赦がないこと。


三年前、外交の場で初めてお会いした時のことを思い出す。私の提出した貿易案を一目見て、「これを立案したのは貴女ですね」と見抜いたあの眼差し。以来、秘密裏に続けてきた文通。彼は私の真の価値を知る数少ない人物だった。


「……それから、もう一つ」


ルシアン様が、私の方へ向き直った。月光が彼の黒髪を青く染める。


「ローゼンハイム公爵令嬢。いえ、アリシア」


名前を呼ばれて、心臓が小さく跳ねた。三年間の文通で、何度も見た名前。でも、こうして声で聞くのは、また違う。


「我が国への移住と、私の王妃候補としての招聘を、改めて申し上げる」


広間が、悲鳴のようなどよめきに包まれた。


王妃候補。隣国の王妃候補。


「お待ちくださいルシアン殿下! アリシアは我が国の公爵令嬢です! そのような……!」


王妃様が叫ぶ。でも、もう遅い。婚約は破棄された。私は自由の身。


「エレノア王妃様」


私は静かに、しかし明確に告げた。


「先ほど、殿下が仰いましたわね。『婚約を破棄する』と。私は既に王家との縁を切られた身。どこへ行こうと、私の自由でございます」


王妃様の顔が蒼白になる。


「そ、それは……! エドワード! 今すぐ撤回を……!」


「母上、撤回など……! 私は何も間違っていない……!」


まだ言うか、この愚か者。


(前世のブラック企業の社長も、会社が傾くまで自分の間違いを認めなかったわね。最後は私が辞めた後、経理が回らなくなって倒産したって聞いたけど)


私は最後の書類を取り出した。


「それから、セレスティア嬢」


名前を呼ぶと、彼女はビクリと肩を震わせた。蜂蜜色の巻き毛が、情けなく揺れる。


「こちらの記録もお見せいたしましょうか。殿下に贈られていた菓子に、媚薬が混入されていた件について」


「……っ!」


セレスティア嬢の顔から、完全に血の気が引いた。


「ば、媚薬……?」


エドワード殿下が、信じられないという顔で振り返る。


「セレスティア……? どういうことだ……?」


「ち、違います殿下! 私は何も……! これはアリシア様の陰謀です! 私を陥れようと……!」


「陰謀?」


私は小さく笑った。


「では、この買収記録はどう説明なさいます? 王宮の厨房係を買収した際の金額と日付、そして貴女の署名入りの指示書。全て揃っておりますわ」


セレスティア嬢の目が、恐怖に見開かれる。琥珀色の瞳が、みるみる涙で潤んでいく。


「そ、そんな……! 殿下、お信じにならないでください……! 私は、私は殿下をお慕いして……!」


「信じる?」


エドワード殿下の声が、氷のように冷たかった。


「……媚薬を使っていたなら、私の判断力は……私の感情は……」


彼の顔が、理解と共に絶望に染まっていく。


ああ、やっと気づいたのね。遅すぎるけれど。


広間の隅で、オリヴィア嬢が静かに立ち上がった。学院時代からの数少ない友人。亜麻色の髪と穏やかな灰色の瞳を持つ伯爵令嬢。


「アリシア様は無実です」


彼女の声が、静かだが明確に響いた。


「私はずっと見ていました。セレスティア嬢の不自然な行動を。アリシア様がどれほど理不尽な扱いを受けていたかを」


ざわめきが広がる。貴族たちの視線が、セレスティア嬢に集中する。


「貴女の価値を知らない人たちが愚かなだけよ、アリシア」


オリヴィアの言葉に、私は小さく頷いた。


私はルシアン様の方へ向き直った。


「ルシアン様。お申し出、謹んでお受けいたします」


月光が窓から差し込む。今度の光は、私を断罪するものではなかった。


初めて、心からの笑顔が浮かんだ。


ルシアン様が私の手を取る。


「君の価値を知らぬ愚か者には、君を持つ資格がない」


その言葉が、三年間の我慢を全て報われた気持ちにさせた。


「参りましょう、新しい国へ」


私たちが広間を後にする時、背後でセレスティア嬢の悲鳴が聞こえた。


「待って……! 殿下、お助けください……!」


「……私に触れるな」


エドワード殿下の冷たい声。


振り返らなかった。もう、振り返る必要はない。


月光に照らされた回廊を、ルシアン様と共に歩く。マリーが静かに後ろに続く。


「お嬢様。本日のために、全ての準備は整っております」


「ありがとう、マリー。貴女がいなければ、ここまで来られなかったわ」


十年以上仕えてくれた侍女頭。証拠の収集も、ルシアン様との文通の仲介も、全て彼女の助けがあってこそ。


「お嬢様の幸せな日を見届けるまで、この身は朽ちません」


マリーの言葉に、胸が温かくなった。




          ◆◆◆




三ヶ月後。ヴェルモンド王国、王都の私室にて。


「お嬢様、またエドワード殿下からお手紙が届いております」


マリーが銀の盆に載せた封筒を差し出す。見慣れた王家の紋章。もう何通目だろう。


「ありがとう、マリー」


私は手紙を受け取り、封も切らずに暖炉へ放り込んだ。


炎が紙を舐め、金色の紋章が灰になっていく。美しい光景だった。


「『もう一度やり直したい』『君の価値に気づかなかった愚かさを許してほしい』……毎回同じような内容でしょうね」


「左様でございますね」


マリーが小さく笑う。


「クライスト王国の状況はいかがですか?」


「はい。財政難により、貴族への年金支給が滞っているとのこと。また、セレスティア嬢は媚薬使用の罪で投獄、エドワード殿下は廃嫡の危機に瀕しているそうでございます」


「そう」


感慨はなかった。当然の帰結だ。王家の財政を支えていたのがローゼンハイム家だと知りながら、婚約を破棄したのは彼ら自身。自業自得以外の何物でもない。


(前世のブラック企業も、私が辞めた後に経理が回らなくなったって聞いたわね)


人の価値を見抜けない者は、失ってから気づく。いつの世も同じこと。


「それから、オリヴィア様よりお手紙が届いております」


「オリヴィアから?」


こちらは喜んで開封する。


『親愛なるアリシアへ。こちらは大変な騒ぎよ。貴女がいなくなった途端、新農法を理解できる者がおらず、今年の収穫は壊滅的だとか。南方貿易路も、貴女の商会なしでは機能しないらしいわ。エドワード殿下は毎日青い顔をして会議に出ているけれど、誰も解決策を出せないの。貴女の価値を知らなかった愚か者たちへの、これ以上ない罰ね。新天地での生活が幸せであることを祈っているわ。次の手紙では、貴女の幸せな話を聞かせてちょうだい。変わらぬ友情を込めて。オリヴィア』


私は手紙を畳み、微笑んだ。


「お嬢様」


マリーが窓の外を見やった。


「ルシアン殿下がお見えです」


振り返ると、翠緑の瞳が私を見つめていた。


「アリシア。今夜の舞踏会の準備は?」


「もちろん、整っておりますわ」


私は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。月光が銀髪を淡く照らす。


「両国の貿易協定締結を祝う舞踏会、でしたわね。私が立案した新たな交易路の開通式も兼ねて」


「ああ。君のおかげで、両国の関係はかつてないほど良好だ」


ルシアン様が、そっと私の手を取った。


「あの夜、君を連れ出せて本当に良かった」


「私もですわ」


あの月下の舞踏会から三ヶ月。私は今、かつてないほど充実した日々を送っている。


領地経営の手腕を買われ、ヴェルモンド王国の経済顧問として活躍。クライスト王国時代には『王太子の手柄』として報告されていた功績も、今ではすべて私の名のもとに評価されている。


かつて私を嘲笑った貴族たちは、今や謁見を求めて行列を作る。滑稽なことに、その中にはエドワード殿下の使者も混じっているという。


「アリシア」


ルシアン様が、私の頬に手を添えた。


「今夜、正式に発表しようと思う。君を我が国の王妃候補として迎えることを」


「……よろしいのですか?」


「君以外に、誰がいる?」


その言葉に、胸が温かくなった。


三年間、冷たい婚約者を演じ続けた。四十九回の嫌がらせを黙って受け止めた。全ては、この自由のため。この幸福のため。


「では、参りましょうか」


私はルシアン様の差し出す手を取った。


今夜もまた、舞踏会が始まる。けれど今度の月明かりは、私を断罪する光ではない。


新たな人生を、祝福する光だ。


窓の外で、月が優しく微笑んでいた。


「ねえ、ルシアン様」


「何だ?」


「月下の舞踏会で婚約破棄されて、本当に良かったわ」


彼は静かに笑い、私の手を引いた。


「私もだよ、アリシア。君を迎えられて、本当に」


銀色の月光の中、私たちは共に歩き出す。


悪役令嬢の物語は、ここで終わり。


けれど、私の物語は――今、始まったばかりだ。




【終】

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― 新着の感想 ―
「ぱ、媚薬」は、もしかしてパフュームですか? それならルビうちが、「び、媚薬」にしたほうがよいかと思います。
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