表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『この世界で生きる意味』  作者: 深森あい


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/24

第6章 旅路のしたく

剣にしか心を置かなかった頃の問いかけが、時間を越えて胸に戻ってくる。

その答えが、今日、静かに形を変え始める。

露の冷たさは、指の節にだけ正直だった。

 村はずれの空き地。朝の光は斜めで、草の先に小さな鏡を無数に置いたようにきらめいている。

 レオンは木剣を握った。右手のひらに、古い擦り傷がざらりと訴える。


 振る。

 空気の重さが、わずかに遅れて手首に戻ってくる。次の一振りで、その遅れは気のせいではないと分かる。

 肩の回転が、昔より半呼吸ぶん遅い。肘は言うことを聞くように見えて、ほんの少しだけ裏切る。


 (大丈夫だ。形はまだ残ってる)

 そう思うたび、胸の奥で別の声が囁いた。

 ――あの時、足は止まった。手も。

 盗賊の剣が鞘を擦った、薄い悲鳴のような音。耳にこびりついて離れない。


 踏み込みを浅くする。

 刃のない棒切れでも、止めの瞬間にかかる負荷は、かつての剣の記憶を呼び戻す。筋がその幻に反応して、現実の身体を軋ませる。

 風が梢を撫で、葉の陰影が地面に揺れの地図を描いた。


 振る。

 振る。

 振る――


 ぱきり。


 音は小さかった。

 けれど胸の奥では、山が崩れた。

 手の中が軽くなる。前足が虚空を踏み、半歩だけ未来へ滑る。


 斜めに走る断面が白い。木の繊維が朝の光を吸い、静かに口を閉じている。

 茂みが揺れ、野兎が一条の影になって駆けていく。遅れて風が頬を撫でた。


 レオンは膝を落とし、折れた木片を拾い集めた。

 掌の古い傷が薄く開いて、木の粉と血が指に貼りつく。

 息をひとつ長く吐く。吐き切れないものだけが、胸に残った。


 空き地の端の柔らかい土を指で掘る。掌の幅ほどの穴。

 木片を横たえ、土をかぶせ、押さえる。墓標は立てない。

 ただ、ここに置いていくという事実だけを、指先に覚えさせる。


 土の匂いの奥から、別の匂いが立ち上った。

 油と鉄と、雨上がりの石の匂い――城壁の風。

 視界の端がわずかに暗くなり、時間がひとつ折りたたまれる。


 ◇


 夕暮れの城壁は、赤金色に沈んでいた。

 クロードは手摺にもたれ、遠い市井のざわめきを聞いていた。

 背後から、革靴の音が近づく。


「クロード様、ひとつ伺っても?」

 若い騎士が、遠慮がちに笑った。肩には新しい紋章。まだ革が固い。

「剣以外に……趣味、というか、お好きなことはありますか?」


 クロードは目を細めて、遠景の屋根の波を見た。

「趣味か。私は剣さえあればそれでいい。剣が私のすべてだ」


 青年は、納得したような、しきれないような顔で頷き、それから言葉を選ぶように口を開く。

「僭越ながら……私は、陛下や王族の皆々様をお守りする務めを、誇りに思っています」

「うむ」

「ですが、ときどき考えるのです。物語の冒険者のように、ここから見える沢山の灯の中へ降りていって……“剣”と切り離されたただの人として、この広く残酷で、それでも美しい世界を、気ままに歩けたらと」


 クロードは青年を見た。

 正面からではなく、視線の端で。

 風が旗を鳴らし、街の鐘が遠くで一回だけゆっくり鳴った。


「義務を放棄するつもりはありません」青年は慌てて付け足す。「ただ、ほんの少し……そういう生き方にも、憧れがあるだけで」

「……そうか」

 クロードは短く答え、ふと自分の手を見る。

 鞘に添えた指。節の上の小さな傷。

 剣を離した自分の手が、何を持つのか、その時は想像すらしなかった。


 日が沈み、風が冷えた。

 クロードは視線を市へ戻し、いつもの声音で言った。

「明朝は出立だ。休め」

「はっ!」


 青年の足音が遠ざかる。

 城壁の上に、夜の最初の匂いが漂ってきた。


 ◇


 レオンは目を開けた。

 空き地の草の匂いが戻る。遠くで牛の鈴が鳴る。

 折りたたまれていた時間が、静かにほどけていく。


 (あの時の問いは、結局、答えないままだった)

 剣がすべてだと言って、歩き去った背中。

 憧れを口にした青年の横顔。

 どちらも、今の自分の中にある。


 村への道を歩く。

 干した布が風に鳴り、庭先で誰かが水を撒く。

 ガルドの荷車の上で縄がきしみ、リリカの籠の薬草が青い匂いで通り過ぎる。


 家の戸口に、古い旅装束がぶら下がっていた。商隊が置いていった古着。裾のほつれを指で引くと、糸が細くほどける。

 糸の手触りが、さっきの木の繊維と重なる。

 剣の柄から離れた指は、布も、地図も、火打石も持てる。――そんな当たり前のことが、不思議と新しかった。


 夜、焚き火の匂いが村に降りる。

 輪の外で空を見上げると、星が思いのほか多い。

 剣の形も、王都の地図も描かない星々が、ただそこにある。


 (旅の支度をしよう)

 いつ、どこへ、誰とも決めないまま。

 剣でない何かを、手にするために。


 風が戸口を叩いた。

 レオンは戸を少しだけ開け、夜気を吸い込む。

 その冷たさは、もう針ではない。ただの夜の匂いだった。

折れた音が、過去の問いを呼び戻した。

「剣が全て」と言い切った日と、「剣から離れた世界を見たい」と願った横顔。

二つの記憶のあいだで、レオンはようやく自分の足の置き場を探し始める。

次章では、旅の支度が静かに始まる。剣ではない手で、最初に選ぶ道具は何か。



ここからが本当の意味で物語が始まるのかもしれません。ちなみに文章の書き込み方を少し変えてみたんですが前の方が良かったですかね?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ