第16章「試練の予兆」
朝の森はしっとりと濡れ、夜露の匂いが濃く漂っていた。
焚き火の跡から細い煙が上がり、風にほどけて消えていく。
レオンは荷袋を肩にかけ、足元で尻尾を振る子狼を見下ろした。
「……元気だな」
小さく笑いながら歩き出す。
森の奥で、葉を踏む音が重なった。
子狼が耳を立てる。
低く唸る声が、木々の向こうから響いた。
姿を現したのは、大きな灰色の狼だった。
痩せてはいるが、眼光は鋭く揺るぎない。
子狼は一歩前に出て、小さく鳴く。
レオンは反射的に木剣を握りかけたが、すぐに手を止めた。
戦うべきか? それとも――。
胸の奥で、かつての剣聖の本能と、今の自分の迷いがせめぎ合う。
灰色の狼は牙を剥かなかった。
ただ、子狼をじっと見つめている。
敵意というよりも、問いかけるような眼差しで。
「……試しているのか」
レオンは小さく呟いた。
子狼が人の隣に居ることを、この若い旅人がどう向き合うのかを。
もし自分が剣を振り下ろせば、狼は敵となる。
けれど剣を下ろせば――相棒として認められるかもしれない。
やがて灰色の狼は鼻を鳴らし、背を向けた。
音もなく森の奥へと消えていく。
残された静けさの中で、レオンは深く息を吐いた。
木剣を握る手は汗で湿っている。
だが子狼は何事もなかったかのように足元へ戻り、澄んだ瞳で見上げていた。
「……俺たちは、見られてるんだな」
誰にともなく呟いたその声は、森に吸い込まれて消えた。
試練は剣を振るうことではなく、“どう選ぶか”を見られることだった。
レオンはかつての剣聖の本能を抑え、子狼と共に歩む道を選んだ。
この小さな出来事が、彼の「剣以外の意味」を探す旅を大きく揺り動かしていく。