第13章「まだ名もなき隣人」
旅は始まったばかり。
まだ名前も持たない小さな命が、レオンの隣に寄り添って歩いている。
それは彼にとって、剣以外に初めて与えられた“問い”だった。
焚き火のぱちぱちという音が、森の静けさをやわらげていた。
レオンは木剣を布で拭っていた。削れた部分を撫で、軽く油を染み込ませる。
その所作は、かつて鋼の剣にしてきたものの名残だった。
足元では、子狼が前足をちょこんと揃え、じっとこちらを見上げていた。
布の動きに合わせて首をかしげ、鼻をひくひくと動かす。
「……そんなに面白いか?」
小さな瞳はきらきらしていた。
その様子に、不意に遠い記憶が呼び起こされる。
――まだ若き剣士だった頃、王都の鍛冶屋で。
「クロード、お前の剣は形だけならもう一流だ」
頑固な親方は、炉の赤を背に言った。
「だがな、剣は刃を持つただの鉄じゃない。お前の命であり、お前の人生そのものだ。剣をどう扱うかで、人の器が決まる」
その言葉を聞いた時、自分は迷わず答えた。
「俺には剣があればいい。剣こそがすべてだ」
親方は笑って首を振った。
「なら覚えておけ。剣を離した時、何を持つか。その時に本当のお前が見える」
火花の音が、今も耳に残っていた。
レオンは手の中の木剣を見下ろす。
かつての鋼の輝きはない。
けれど、隣で覗き込む子狼の眼差しは、不思議とあの時の火花より強く胸に刻まれた。
「……そういえば、お前にはまだ名前がないな」
子狼は尻尾をふりふりと動かし、まるで返事をするように小さく鳴いた。
「すぐには決めない。旅を続けて、いつかしっくり来る名前を探してやる」
火に照らされる横顔が、ふと緩む。
剣にしか与えてこなかった“意味”を、初めて別のものに与えようとしていた。
木剣を手入れする姿に、子狼は興味津々だった。
それはかつての鍛冶屋の教えを呼び起こし、レオンに「名前を与える」という新しい行為を意識させる。
剣ではないものに、意味を与えること。
それは、彼の旅路に新しい色を差し込んでいく。