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9/12

すれ違う声、重なる想い

朝の学院は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。


新学期の開始を目前に控え、生徒たちが少しずつ浮き足立っているのがわかる。


湊は講義棟の渡り廊下を歩きながら、三人の顔を思い浮かべていた。


リセの、あの強くしなやかなまなざし。


ノアの、曇りない優しさと揺れる瞳。


サリアの、理屈の裏に隠れた脆さと、誠実な言葉。


(誰の言葉も、どの想いも、簡単には選べない。選びたくない。けれど——)


彼の胸には、少しずつ確かなものが芽生えていた。


それは恋かもしれないし、まだその手前かもしれない。


だが確実に、心は誰かに向かって動き始めている。


「……やっぱり、簡単にはいかないか」


小さくつぶやいたその声が、風にさらわれる。


その時だった。


「湊くん」


不意にかけられた声に、彼は顔を上げた。


そこには、リセがいた。


制服の胸元を整えながら、彼女は静かに言う。


「今、時間ある? 少し……歩かない?」




二人は学院の裏庭を歩いていた。


春の名残を残す桜の花びらが、地面にうっすらと残っている。


「ねえ、湊。最近、あなた……ちょっと距離を取ってるように見える」


リセの言葉に、湊は足を止めた。


「……距離?」


「ええ。わたしたち三人に、均等に接しようとしてる。その気持ちは分かるけれど、それが逆に、避けられてるように感じるの」


湊は黙ったまま、リセの視線を受け止める。


「あなたが誰にも優しいのは知ってる。でも、優しさって……ときに残酷よ」


「……分かってる。俺の曖昧さが、誰かを傷つけてる」


リセは、ほんの少し眉をひそめた。


「わたし、あなたの答えが欲しいわけじゃない。でも……心が少しでも動いたなら、その先を見せて。わたしはそれを、戦う価値のあることだと思ってるから」


その言葉に、湊は小さくうなずいた。


リセは微笑むと、背を向けて歩き出す。


その背中は、強く、そしてどこか寂しげだった。




午後の研究室。


机には開きかけの資料が並び、サリアが椅子に座っている。


扉が開き、湊が入ると、彼女は顔を上げた。


「来てくれてありがとう……実は、今日あなたに見せたいものがあったの」


サリアは一冊のノートを差し出した。


中には、感情魔法の構造図と、それにまつわる湊の例外性についての考察がびっしりと書かれていた。


「あなたが、感情魔法を使えないという特異性、それがどこから来るのか……私はずっと考えてたの」


「……でも、これは研究じゃなくて、個人としての関心じゃないか?」


湊がそう問うと、サリアは少しだけ頬を染めた。


「そう。最初は興味だった。でも、今は……違う。あなたの心が、何を感じているかを知りたいと思うようになったの」


湊は、ページをゆっくりめくりながら答える。


「俺の心は……まだ全部を言葉にできない。けど、君の真剣さに触れると、伝えなきゃって思えるんだ。焦らず、少しずつ……な」


「……それで、いいのかもね。人の心って、結論じゃなくて過程でできてるものだから」


そう言って微笑んだサリアの顔に、湊は初めて「恋」という輪郭を重ねそうになった。


けれど、それを言葉にはできなかった。


まだその一歩が、怖かった。




夕暮れ。学院前の階段に座っていたのはノアだった。


湊が通りかかると、彼女はぱっと笑顔を浮かべる。


「わぁ、ちょうどいいところに!」


「……君、こういう偶然多いな」


「えへへ、偶然じゃなくて、たぶん……会いたいって思ってたからかな」


湊は彼女の隣に腰を下ろした。


二人で見る夕陽は、まるでこの時間だけが特別に用意されたように感じられた。


「最近、湊さん……ちょっと難しい顔してる」


「そう見えるか?」


「うん。優しすぎるから、全部の想いを正面から受け止めちゃってる」


ノアは空を見上げる。


「わたしもね、少しだけ思ったの。好きって言葉を何度も使ってるけど、本当はそばにいてほしいって、それだけだったのかもって」


「……ノア」


「だから、湊さんが誰かを選ぶ日が来ても、わたし、ちゃんと笑うよ。好きだったって言えるように。でもね、それまでは……ちゃんと甘えていい?」


「……いいよ。俺も、君の笑顔に甘えてるから」


ノアは頬を赤らめながら、静かにうなずいた。


その横顔が、春の夕陽に照らされて、眩しいくらいに美しかった。




====




夜の学院は、日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


灯りの消えた講義棟を抜け、中庭へと続く小道を湊は一人歩く。


三人と交わした言葉が、心の中でこだましていた。


リセのまっすぐな問いかけ。


サリアの理知的な優しさ。


ノアの無垢な笑顔と決意。


どれも嘘じゃない。


どれも、大切で、愛おしいと思える。


なのに、どうして答えを出すことが、こんなにも難しいのか。


——それは、誰かを選ぶことが、他の誰かを傷つけることに繋がるからだ。


(俺はまだ、「傷つける勇気」がないんだ)


そう自嘲するように唇を噛んだとき、前方のベンチに座る人影が目に入った。


「……ルディさん?」


「ああ、やっぱり来たね、湊くん」


ルディ=エストラーダ。学院の若き研究者で、湊の数少ない理解者の一人。


彼はベンチに腰を下ろしたまま、持っていた書物を閉じた。


「君がここに来るのは、だいたい迷っているときだ。間違ってないだろう?」


「……はい。よく見てますね」


「そりゃあ、君がずっと感情という名の難題に挑み続けてるからさ。見てるこっちが感心するくらいには、真っ直ぐに」


ルディは目を細めた。


「で、どうだい? 誰かに想いを返す気にはなったか?」


湊は、短く息を吐いた。


「……まだ、決められません。どの人も、自分にとって大切すぎて」


「選べないというのは、裏を返せば誰かに踏み込む覚悟がないってことだ。誰も選ばないことが、全員に優しいと思ってるなら……それは違うよ、湊くん」


湊の目が揺れる。


「誰かを選ぶことは、確かに誰かを、選ばなかったことになる。でもね、それでも人は選ぶんだ。選び取ることで、誰かの本気に応えることができる。選ばなければ、すべては空っぽのままだ」


沈黙。


湊は、ベンチの木目を見つめながら、ゆっくり言葉を絞り出す。


「俺は……彼女たちの想いを受け止めきれてない。まだ自分の気持ちが何か、明確にわからなくて」


「それでも、一歩踏み出すんだよ。自分の中にある曖昧な好意でもいい。伝えることでしか、次は見えてこない」


ルディの声には、迷いがなかった。


それは、かつて誰かを本気で想ったことのある人間の言葉だった。


「ありがとう……ルディさん。俺、考えてみます。いや……考えるだけじゃなくて、行動に移します」


ルディは満足げにうなずいた。


「それでこそだ。恋愛ってのは、心だけじゃなく、足でも動くんだ」




翌日、昼休みの鐘が鳴る直前。


湊は教室の前で、一つ深呼吸をした。


胸がざわついていた。緊張。恐れ。けれど、それ以上に「届けたい」という気持ちがあった。


扉を開けると、教室の一角にノアの姿があった。


「ノア。ちょっと、話があるんだ」


「え? う、うん!」


ノアの表情が驚きから、徐々に照れ笑いに変わっていく。


人気の少ない中庭に移動したふたりは、ベンチに座る。


「えっと……な、なにかあった?」


「……俺、君に、きちんと伝えなきゃと思って」


湊は、言葉を選びながらも、はっきりと顔を上げて彼女を見た。


「君の気持ちは……ちゃんと届いてる。俺にとって、君は安心できる存在だ。それが恋かどうかは、まだ言い切れないけど——俺は、君と一緒にいる時間が、いつの間にか特別になってた」


ノアの瞳が、大きく見開かれる。


「……ほんとに?」


「うん。だから、その気持ちを……無視したくないと思った。君にとって、俺がただの逃げ場所じゃなくて、隣に並んで歩けるように、俺も変わる」


ノアは、少しの沈黙のあと、ゆっくりとうなずいた。


「……嬉しい。すっごく嬉しい。でも、それだけじゃ……ダメだよね。わたしも、自分の足で歩かなきゃ」


「うん。だから、これからも支え合いながらで、いいかな」


「もちろん!」


ノアの笑顔は、泣きそうで、でも笑っていて、

それは紛れもない恋のはじまりだった。




夕方、湊は図書館へ向かった。


そこには、資料を並べているサリアがいた。


「湊?」


「……少し、君にも話しておきたいと思って」


彼女の手が止まる。


湊は、その横顔に正面から向き合った。


「君と話すと、すごく落ち着くし、自分の考えが整理される。

君の論理的な言葉も、急に感情があふれる瞬間も、全部……魅力的だと思ってる」


「……それは、告白のつもり?」


「違う。まだ確信は持てない。でも、君と一緒にいたいという気持ちは、偽りじゃない」


サリアは黙ったまま、湊の顔を見つめ続けた。


「感情って、やっぱり理屈じゃ追いつけないわね。それでも——あなたの今の言葉は、嬉しかった。ちゃんと、伝える努力をしてくれてありがとう」


彼女の声は、少し震えていた。


けれど、それは涙ではなく、未来に向けた覚悟のように聞こえた。




夜、湊は寮の部屋のベッドに横たわりながら、天井を見つめていた。


今日、彼は「曖昧な気持ち」に、正面から向き合った。


まだ誰の手も完全には取っていない。


けれど、その手を取る勇気の第一歩を踏み出したのは、確かだった。


(きっと、まだ迷う。でも……迷いながらでも、進めるんだ)


そう思ったとき、胸の奥で何かがふっとほどけるような感覚がした。


それはきっと、恋がはじまるときの音だった。


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