見つめ合うとき、鼓動が変わる
春の陽射しが差し込む講義室の窓際。
湊は教室の最前列に座りながら、黒板の字を追っていた。
しかし、内容はほとんど頭に入っていなかった。
昨日のリセ、サリア、ノア――三人の言葉が脳裏を離れない。
(俺は、まだ選んでいない)
だが、彼女たちの真剣な想いに触れた今、もはや「誰も傷つけたくない」などという逃げは、ただの甘えに思えた。
(でも、選ぶって何だ? 俺が選ばれる側だったら、どんな言葉が欲しいんだ?)
講義の終わりを告げる鐘の音に、湊は肩を震わせた。
そのとき、後ろの席から声がかかる。
「ねえ湊、今日、放課後……時間ある?」
ノアだった。
その声は、どこか期待を込めていて、けれど押しつけがましくはなかった。
湊は少し考えて、うなずいた。
「……あるよ。君が呼んでくれるなら」
ノアは安心したように微笑んだ。
「じゃあ、港町まで歩いてみない? ちょっと遠いけど、今日は天気がいいから」
学院の門を出て、二人は並んで歩いた。
石畳の道を抜け、草原を渡り、小川を越える。
港町は、地平線の向こうに小さく煙を上げている。
「ねえ湊さん。前に恋なんてバグだって誰か言ってたけど、わたしはそう思わないな」
ノアは笑いながら、スカートの裾を揺らして言った。
「恋って、たぶん……人を見つめることだよ。まっすぐ、何度も。たとえ嫌なところがあっても、それを知っても好きって思えるのが恋だと思うの」
「……君は、そういう風に俺を見てくれてたんだな」
ノアは歩みを止め、湊の顔をまっすぐ見上げた。
「うん。怖いくらい、ちゃんと見てたよ。あなたがどんな顔で物を考えるかとか、どんな時に目をそらすかとか……わたし、全部覚えてるもん」
「俺は……君のこと、そこまで見れてなかったかもしれない」
「いいよ。今から、ゆっくり見てくれたら」
ノアは柔らかく微笑んだ。
港町にたどり着くころ、二人の間の空気は確かに変わっていた。
それは、決して答えではなかったが、距離は確かに近づいた。
その夜。学院の図書室。
サリアは湊を呼び出していた。
机の上には、幾重にも折り重なった論文や書籍。
だが、それらは今日の目的ではない。
「呼び出してごめんなさい……でも、どうしても、あなたに伝えたいことがあったの」
湊はうなずいて、椅子に座る。
「昨日の言葉、あれで全部じゃないの。あの時は言えなかったけど……わたし、あなたが怖いの。あなたと過ごす時間が増えるほど、計算が狂っていくから」
「……狂うって、感情のことか?」
「そう。わたしらしさが壊れていく感じがするの。でもね、壊れていくのに、どこかで安心してる自分もいる」
サリアは手元の本を閉じ、湊をまっすぐ見た。
「あなたと話すと、わたしは、間違ってもいいって思える。それって、すごく怖くて、でも……嬉しいの」
湊は黙って聞いていた。
サリアの瞳は、今までで一番まっすぐだった。
言葉は少し震えていたが、そこに迷いはなかった。
「だから、お願い。もし、いつか選ぶ日が来たなら――その時、わたしをちゃんと見て。目を逸らさずに、恋をしてるかどうかじゃなくて、その人間を必要としてるかどうかで選んでほしいの」
その言葉は、まるで祈りのようだった。
湊はその祈りを、手のひらでそっと受け取るように胸に刻んだ。
翌朝。
学院の庭園。湊はベンチに腰掛けていた。
すると、足音も立てずに現れたリセが、その横に静かに座る。
「今日は、君のほうから来てくれるんじゃないかと思ってた」
「……あら。少しは分かるようになってきたわね、わたしのこと」
リセは冗談めかして微笑んだ。
「あなた、今とても優しい目をしてる。昨日の顔とは違うわ」
「……そうかもな。ノアとサリアと話して、少しだけ分かったんだ。俺は恋が、分からないんじゃなくて、恋する自分を信じてなかっただけなんだって」
リセは目を細め、ほんの少しだけ湊にもたれかかる。
「……それなら、信じる練習をしてみる?」
「練習?」
「そう。選ぶとか答えとか、そういうのはまだいらない。ただ、誰かのそばにいる練習をしてみるのよ。そして、その時に湧き上がる気持ちを……少しずつ見ていけばいい」
湊は、静かにうなずいた。
その言葉が、どこまでも自然に、自分の中に溶けていくのを感じた。
リセは湊の肩に頭を預けた。
その重みが、まるで「孤独の終わり」を告げるようで、湊はそっと目を閉じた。
====
夕刻、学院の中庭。
花壇の影が伸び、木々の間をやわらかい光が照らしていた。
湊はベンチに腰を下ろし、ゆっくりと息をつく。
この数日、彼の周囲は穏やかに、しかし確実に変わっていた。
リセ、サリア、ノア――
それぞれの想いと向き合ったことで、彼の中にあった壁が、少しずつ崩れ始めていた。
「……誰かの隣にいるって、簡単じゃないな」
ぽつりとこぼしたその言葉に、返事はなかった。
けれど、まるで呼応するように、ベンチの端にひとりの少女が腰を下ろした。
「疲れた顔してるよ、湊さん」
ノアだった。どこか無防備な笑みを浮かべて、手に持っていた小さな袋を差し出してくる。
「これ、お菓子。港町で買ってきたの。ほら、ちょっと元気出るでしょ」
湊は受け取り、中を覗いた。素朴な焼き菓子の香りがふわりと広がる。
「ありがとう……君、気を使ってるんだな」
「うん。わたしって、そういう性格だもん。誰かが元気ないと、何とかしたくなる」
彼女の声は明るいが、どこか寂しさがにじんでいた。
「でも……自分のこと、ちゃんと大事にできるようになりたいの」
「自分のこと?」
「うん。湊さんのことが好きで、いつもそればっかりだったけど……この間の答え聞いて、ちゃんと、ひとりの自分として立たなきゃって思ったの。湊さんにとって、ただの依存じゃ意味がないから」
湊は黙って彼女の言葉を受け止める。
「……でも、今日は一緒にいたくて来たの。誰かの隣にいたいって、思えるようになったから」
ノアは焼き菓子をひとつ口に入れながら、視線を空に向けた。
(自分の足で立ちながら、隣にいること――彼女は、そうやって変わろうとしてる)
湊の胸に、じんわりと温かなものが広がった。
翌朝、講義の後。
湊が廊下を歩いていると、サリアが資料を手にして立っていた。
「湊、少しだけ時間あるかしら。図書室じゃなくて……屋上に行かない?」
「……屋上?」
「朝の風、嫌いじゃないの」
言われるがままに階段を上がると、屋上はすでに春の陽気に満ちていた。
サリアは柵のそばに立ち、資料を風に押さえながら話し出す。
「この世界の恋愛魔法、研究してるとわかることがあるの。人の心って、理屈じゃ割り切れない」
湊は苦笑する。
「君がそれを言うとは、意外だな」
「そうでしょ? でも最近、理屈じゃ追いつかないことばかり起きるから。あなたと出会ってから、ずっと計算が合わない」
サリアは湊のほうに向き直った。
「ねえ湊。わたし、恋愛って選ぶことじゃないと思う。歩み寄ることだと思うの。お互いが、それぞれの価値観を持ったまま近づいて、それでも一緒にいたいと思えること」
「歩み寄るか……」
「だから、今のあなたが、誰も選べないって思ってるのは、きっとどれも間違っていないってこと。わたしたち、それぞれが、あなたといたい理由を持ってるから」
湊は黙って、サリアの瞳を見つめた。
揺らがない、まっすぐな瞳。
「……サリア。俺、君と話してると、自分の未熟さを思い知らされるよ。でも、それを受け入れたいとも思える」
「それなら、となりにいる理由の一つになるかしら」
「……なるよ。きっと」
そのやりとりが、どれほど自然で、どれほど深い信頼のうえに成り立っていたか――
湊はようやく、言葉ではなく感情で理解し始めていた。
夕方。学院の中庭。
リセは、ひとりで剣の素振りをしていた。
その動きは正確で、無駄がなく、静かに美しかった。
湊が近づくと、彼女は手を止めた。
「湊。来ると思ってた」
「そう思ってもらえるようになったのは、君のおかげだよ」
「……ふふ。随分と成長したわね」
リセは剣を納め、ベンチに腰を下ろした。
「わたしね、恋愛って戦いだと思ってたの。誰かを奪うために、誰かを蹴落とす――そんな世界にいたから」
「でも、それを望んでるようには見えなかった」
「ええ。違うの。隣にいることが戦いじゃないと知ったの。あなたと出会ってから」
リセは少しうつむいて言葉を続ける。
「わたし、ずっと選ばれる価値のある人間でいなきゃと思ってた。完璧じゃなきゃ、愛されないって思ってた」
「……違う。君は、君のままで……」
「そう言ってくれたの、あなただけよ」
沈黙が流れる。
それは決して重苦しいものではなく、ふたりの間に確かに育った静けさだった。
「湊。わたし、誰かの隣にいるために、自分を押し殺すのはもうやめたい。だから……お願い。あなたの隣にいるわたしを、見ていてほしい」
「……見てる。ちゃんと」
その言葉は、今の湊が出せる、最も誠実な答えだった。
リセは微笑み、小さくうなずいた。