心の距離、指先の温度
朝の学院。
空気は澄みわたり、春の陽射しが石畳を柔らかく照らしていた。
湊はいつものように食堂で朝食を取っていたが、どこか落ち着かない様子だった。
手元のスープを掬うスプーンが、何度も途中で止まる。
(リセ、ノア、サリア。三人の言葉がずっと頭から離れない)
それぞれが自分に「本音」を伝えてくれた。
それを受け取った以上、自分も応えなくてはならない。
だが、「応える」とはどういうことなのか――その答えがまだ、定まらない。
そんな時、ノアが声をかけてきた。
「おはよう、湊さん……一緒に、外、歩かない?」
中庭の桜は、すでに満開を過ぎていた。
風に揺れる花びらが、ノアの髪にもそっと降り積もる。
「……わたし、湊さんが悩んでるの、なんとなく分かるよ。答え、すぐには出せないよね」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。わたしね、今は待つ時間も悪くないって思ってるの。前の恋は、返事をもらう前に終わっちゃったから……こうやって、ちゃんと考えてもらえるのって、嬉しい」
ノアは振り返り、微笑んだ。
「それに、待ってる間にしか気づけない気持ちもあるんだよ」
湊はその言葉に、少しだけ心が軽くなるのを感じた。
「……君は強いな」
「違うよ。強く見せてるだけ。湊さんの前だから、強くなろうって思えるだけ」
ノアはそっと彼の手に触れた。
その指先は震えていて、でも温かかった。
(選ばれたいって、こんなにも切実なことなんだな)
湊は、その震えに、自分の心も揺さぶられるのを感じていた。
昼下がりの図書館。
ページをめくる音だけが静かに響く空間。
サリアは机にノートを広げ、数式と向き合っていた。
湊はその隣に静かに座る。
「君の横に座ると安心する。不思議と落ち着くんだ」
「……無意識の行動が、最も本音に近いものよ」
「論理的だな」
「あなたに影響されてるだけ。……昔のわたしなら、この時間に意味なんて感じなかった」
サリアは手を止め、湊を見た。
「でも、あなたがとなりにいると、時間の価値が変わる……それって、すごく非論理的で、でも――心地いい」
湊はふと、机の上の彼女の手に目を落とした。
細く、白く、まっすぐ伸びた指先。
その手が震えていないことが、サリアという人の覚悟を物語っていた。
「……君がもし、他の誰かに好意を寄せられたら、俺はきっと、焦るんだと思う」
「それ、告白?」
「……そうかもしれない。でも、まだ好きって言いきれるほど、自信がない」
サリアは頬を染めながら、ペンを置いた。
「それでも構わない。わたしも、まだ解には至っていないから。でも、あなたといると、わからないことが、少しだけ愛しくなるの」
ふたりの間に漂う空気が、ほんのりと色づいた。
感情というものが、名前を持たなくても、存在できるのだと湊は知った。
夕方。学院の裏手。
リセは弓の練習をしていた。
弦を引く腕は安定し、矢はほぼすべて的の中心に刺さっていた。
湊は、彼女の集中を邪魔しないように少し距離をとって眺めていた。
リセは矢筒から最後の矢を取り出し、静かに構え――放った。
音もなく、中心を射抜く。
「……全部命中。さすがだな」
「当てることに意味はないわ。集中して、今だけを見つめるための訓練よ」
「それは、俺にも必要かもしれない」
リセは弓を置き、湊に向き直る。
「ノアにも、サリアにも会ったのね……少し表情が変わったわ」
「……そうかもな。二人と話して、ようやく分かったんだ。俺は、自分の感情を知らなかったんじゃなくて、自分が、どう感じていいか分からなかっただけなんだって」
「許されてるって、思えなかったのね。自分の感情が」
「……ああ。けど、君が言っただろ。中途半端でも、誠実なら立派な意思だって」
リセは目を細め、穏やかに微笑む。
「……そう。だからあなたが何を選んでも、わたしはそれを責めない。でも――少しだけ、わたしの傍にもいて……今夜は、ひとりになりたくないの」
その言葉に、湊はほんの一瞬、言葉を失った。
そして、小さく頷く。
「……ああ。君がそう望むなら」
リセは静かに湊の袖を掴んだ。
その仕草はまるで、迷子の少女が光を見つけたかのようだった。
夜。寮の中庭。
湊はひとり、ベンチに腰を下ろして空を見上げていた。
(三人とも、俺に気持ちを見せてくれた)
(その想いの重さを、俺はまだ抱えきれないかもしれない)
けれど、確かに言えることがあった。
(俺は、三人を特別だと思ってる……それは、嘘じゃない)
誰かのために何かを選びたいと、初めて思った。
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月が中天に差し掛かる頃。
学院の中庭に、湊はひとり座っていた。
広がる夜空は静かで、どこか冷たい。
でも、彼の胸の奥にはそれとは逆の、熱のようなものがゆっくりと広がっていた。
(三人それぞれの想いを、受け取った)
(それがこんなにも……苦しくて、温かくて、逃げたくなるほどまっすぐなものだとは思っていなかった)
これまでの湊は、恋に無関心だった。
いや、無関心を装っていたと言った方が正しいのかもしれない。
それは、自分の中にある「感情」を認めるのが怖かったから。
(でも今は違う)
(怖いけど、知りたい)
彼女たちの真剣が、自分の中の何かを揺さぶっている。
そんなときだった。
「ここにいたんだね」
リセの声。
振り返ると、彼女がいつもの制服のまま、静かに立っていた。
表情は穏やかで、それでいて何か決意を秘めたような瞳をしている。
「……少し話せる?」
湊は頷いた。
ふたり並んでベンチに腰を下ろす。
風が吹き抜け、髪が少しだけ揺れる。
「湊、あなたが誰かを選ぶのって、きっと自分を選ぶことと同じなんだと思うの」
「……自分を選ぶ?」
「そう。どんな自分でいたいか。誰かを想うってことは、そういうことじゃない?」
湊はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「……たとえば、ノアといると、俺は守られるよりも、守りたいと思える。サリアといると、話すよりも聞いていたいと思える。そして、リセといると……一緒に立っていたいと思うんだ。対等な同じ高さで」
リセは驚いたように湊を見た。
「……それ、今初めて聞いた」
「俺も今初めて、自分で分かったんだ」
三人のことを考えるたび、どれも違う感情が湧く。
でも、どれも真実だった。
「……俺には、まだ誰かひとりを選ぶ覚悟がない。選ばれた一人だけが幸せで、残された二人が傷つくとわかってる。その現実を、まだ受け止めきれない」
「……正直ね。でも、それでいい」
リセは立ち上がり、湊の目を見て言う。
「人を好きになるって、そんな簡単じゃない。それでも、あなたがその中で、わたしたちを、ちゃんと人間として見てくれてる。それだけで、わたしは……少し、救われた気がする」
そして、ほんの少し躊躇ったあと、そっと言葉を継いだ。
「わたし、あなたに恋してる……でも、それは奪うためじゃない。隣にいたいと思うからよ」
湊は答えず、ただリセの姿を見つめていた。
その視線は、どこか優しくて、どこか痛みを含んでいた。
翌日。
学院の裏庭には、サリアがいた。
静かに魔法式を書き写しながら、指先がわずかに震えている。
「……集中できないわね」
「俺もだ」
後ろから声をかけられ、サリアは驚いたように振り返った。
「……どうしてここがわかったの?」
「ノアとリセの次に話さなきゃいけないのは、君だと思ったから」
「そう。合理的な判断ね」
湊はサリアの隣に腰を下ろす。
「昨日、リセに言ったんだ。俺はまだ誰かひとりを選ぶことができないって」
「……それは、あなたらしい。誠実で、優しくて、でも優柔不断」
「そうかもしれない」
サリアは手元のノートを閉じ、湊を見た。
「あなたと話すと、自分が、人間であることを強く感じる。感情を持ち、悩み、選べなくて、でも何かを求めている――それって、どんな魔法よりも、複雑で、美しいことだと思うの」
「……サリア」
「わたし、もうバグだなんて思ってない。あなたと過ごした時間が、わたしの心を確かに変えたから。だから、いつかあなたが、答えを見つけたとき、わたしのことを思い出してくれたら、それだけでいい」
湊はゆっくりと目を閉じる。
その言葉は、まるで音楽のように胸に残った。
(それだけでいいか……でも、それでいいのか?)
夕暮れ。学院の門の前。
ノアはひとり、石畳を踏みしめていた。
その背中に、湊の声が届く。
「……ノア」
「湊さん!」
笑顔で駆け寄ってきた彼女の顔が、ほんの少し寂しそうだった。
「……湊さん、もう決めた?」
「いや。まだ、決められてない」
「そっか……」
「だけど、伝えておきたいことがある」
湊は彼女の手を取る。昨日の、あの震えた指先を、包み込むように。
「君と過ごす時間は、俺の中で特別だった。今も、こうして触れていたいって思う……それが恋かどうか、まだ言い切れないけど、嘘じゃない」
ノアは涙を浮かべながら、それでも笑った。
「……それで充分だよ。だって、湊さんはちゃんとわたしを見てくれた。その気持ちが、どんな名前を持ってるかなんて、あとで知ればいいんだもん」
そう言って、彼女はそっと湊の胸に額を寄せた。
時間が、静かに流れる。
選ばれないという現実を、怖れずに抱きしめるその強さに、湊は初めて、自分の「選びたい」という衝動が湧き上がるのを感じた。