答えの輪郭
感情――それは目に見えないのに、確かに存在するもの。
誰かを思えば胸が痛くなるし、傷つければ心が沈む。
その不可視の魔法に、湊は今、初めて真正面から向き合おうとしていた。
学院の小さな温室。
草花の世話をしていたノアのもとを、湊は訪ねた。
「ノア、少しいいか」
「……湊さん」
彼女は振り向くと、手にしていた水差しをそっと置いた。
その瞳には、不安と微かな期待が入り混じっていた。
「先に言っておくけど、答えを持ってきたわけじゃない。ただ……少しでも、今の気持ちを話してみようと思った」
ノアは小さく頷き、彼の向かいに腰を下ろす。
「君が俺に好きって言ってくれた時、すごく戸惑った。俺にはその言葉の重みが、あまりにも大きすぎて」
「……うん」
「でも、その日からずっと考えてた。誰かに必要とされるって、どんな感覚なのかって。君は、俺の無感情さを安心するって言ってくれた……それが、俺には嬉しかったんだ」
ノアは目を伏せ、指を組む。
「わたしね、最初は湊さんに好かれたいなんて思ってなかった。ただ、湊さんと話してると、裏切られないって信じられた……それだけで、十分だったのに」
「それ以上を望むのは、いけないことだと思ってた?」
「……うん。欲張りかなって。でも、わたし……やっぱり、選ばれたいって思っちゃうの」
沈黙が落ちる。
その重みは、どこまでも優しく、切なかった。
湊は、小さく頷いた。
「君が好きって言ってくれて、俺は好きってどういう感情かを知ろうと思った。たぶん、君のおかげで……俺も誰かを特別に思うってことが、少しだけわかってきた気がする」
「……それって、わたしのこと?」
湊は正直に目を合わせる。
「……まだわからない。けど、君の存在が俺にとって特別なのは、確かだよ」
ノアは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。
「うん……それでもいい。答えが出るまで、ちゃんと待つ……湊さんが、逃げないって決めてくれたなら」
彼女の手が、そっと湊の袖を掴んだ。
その小さな接触は、どこまでも優しく、温かかった。
午後の自習室。
サリアは黒板の前で、数式を黙々と書き続けていた。
(答えを出すには、変数の整理が必要。けれど、感情における変数は……)
「……心臓の鼓動、皮膚電位、視線の固定時間……それだけじゃ、感情の名前までは導けない」
「君が考えていることは、たぶん証明じゃなくて、確認だと思うよ」
その声に、サリアは手を止めた。
ルディ=エストラーダが、ドアにもたれて微笑んでいた。
「君の問いは、もうずっと前に答えを持ってる……それは、サンプルの中の一人に対してだけ、違和感があるってこと」
「違和感ね……」
「そう。他の誰かと同じように見ていたはずなのに、その一人にだけ、心拍数が乱れる。視線の残像が消えない。言葉の意味を反芻してしまう」
「……それが、好きってこと?」
「君が名前をつけるならね。でも、本質は自分が変わっているという事実に気づくことだよ」
サリアは黒板の前に立ち尽くしたまま、目を閉じた。
(わたしは、湊といると、論理じゃなくて行動が先に出てしまう)
(それは、きっと……)
彼女の頬が、ほんの少しだけ紅く染まった。
放課後の中庭。
湊はリセと再び会っていた。
「……サリアも、ノアも。それぞれが、気持ちと向き合いはじめてる。俺も、そろそろ逃げずに輪郭を描かないといけない気がしてるんだ」
リセは頷く。
「恋というのは、正解がある感情じゃないわ。でも、答えを出そうとすること自体が、大切なの……あなただって、もう分かってるはずでしょ?」
湊はリセをまっすぐ見つめる。
「俺は、君の強さにずっと惹かれてた。冷静で、理性的で、誰にも頼らず、誰にも甘えない。でも最近、それが無理してるようにも見えるんだ」
「……見破ったつもり?」
「違う。ただ、君の本音が見えるようになっただけ」
リセは、しばらく沈黙した。
「……もし、わたしが泣き出したら、あなたはどうする?」
「黙って隣にいる」
「それだけ?」
「それだけでいい。俺は、そういう風に誰かといられる人間になりたいと思ってるから」
その言葉に、リセはそっと息を吐いた。
「……それが、あなたの仮の答えね」
「うん。でも、まだ本当の答えは出てない……出したいとは思ってる」
「なら、今はそれでいいわ。中途半端でも、誠実ならそれは立派な意思よ」
沈みかけた夕陽が、二人をオレンジ色に染めていく。
まだ、答えには届かない。
けれど、答えに向かう道は、確かに歩み始められていた。
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静かな学院の裏庭。
風がやわらかく枝葉を揺らし、空には薄く雲がかかっていた。
その中央、並んで腰かけていたのは――ノアとサリア。
ふたりきりの空間。けれど、すぐに言葉は交わされない。
ノアが先に口を開いた。
「……サリアさん、ここに来るなんて、ちょっと意外でした」
「……あなたもね。湊がいない場所に、あなたがいるとは思わなかった」
「……会わないって、決めたわけじゃないです。ただ……少し、自分のこと、考えたくて」
「わたしもよ……結局、わたしたちって似てるのかもしれないわね」
ノアは少し驚いたように目を丸くした。
「サリアさんって、似てるとか言う人だと思ってませんでした」
「言わないわよ、普段は。でも……あの人の前だと、自分がいつもと違う……論理じゃ測れないものが、わたしの中にもあるって、最近ようやく認めるようになった」
「……わかります。湊さんを好きになって、初めて自分が変わってるって気づいたんです」
サリアは静かに視線をノアに向けた。
「……あなたは、強いわ。感情を持って、素直に言葉にして。その結果がどうなっても、傷つく覚悟をした……それって、すごいことよ」
「でも……こわかったですよ、本当は。誰かに、いらないって言われるかもしれないって、怖くてたまらなかったです」
「……それでも言った。だから、あなたは強いのよ」
ノアはうつむいたまま、少しだけ笑った。
「サリアさんって、ほんとは優しいですよね」
「やめて。そういうの、照れるから」
二人の間に、少しだけ和らいだ空気が流れる。
だけど――
「……湊さんを譲る気はありません」
ノアの言葉は、凛としていた。
優しさの裏に、確かな決意が宿っていた。
サリアはその瞳をまっすぐ見返し、静かに答える。
「わたしもよ。彼を感情の対象として見てしまった以上、もう後には引けないわ」
互いに微笑みながらも、火花が見えるような静かな戦火。
それは、想いを持った者同士だけが交わせる、誠実な宣戦布告だった。
その日の夕刻。
湊は学院の屋上にいた。
ここは学院でも特に人気のない場所。
風が強く、手すりの向こうには町と森が一望できる。
(誰かに選ばれること。誰かを選ぶこと)
(……その両方に、俺は怖さを感じてる)
これまでの湊なら、逃げていた。
でも、いまは違う。
自分の中に芽生え始めた感情に、もう目を背けるわけにはいかなかった。
――そのとき、ドアが開く音がした。
「ここにいると思った」
リセだった。
彼女は湊の隣に立ち、同じ景色を見た。
「……ノアとサリア。もう、完全に構えてるわね」
「……知ってる」
「でも、あなたはまだ、どちらにするか決めてない」
湊は頷く。
「そうだな。でも……ようやく、決めることそのものが怖くなくなってきた」
「……少し前のあなたなら、そうは言わなかった。それだけで、充分に変わってきたってことよ」
リセは、視線を外に投げたまま続ける。
「わたしは、あの子たちとは違う。素直に想いを語るのはまだ怖い」
「……知ってる。けど、君は君なりに誠実だったと思うよ」
「……ありがとう。でも、だからこそ伝えておく」
湊が彼女の顔を見ると、リセはまっすぐ彼を見返した。
「――湊。あなたの答えが、わたしじゃなくても。わたしは、その選択を尊重する……でも、あなたが誰かを選ぶ前に、わたしを見て」
「……リセ」
「わたしは……あなたといると、弱くなれる。それが、どれだけ救いだったか、あなたには伝えておきたかった」
それは、リセ=ヴァレンシュタインという氷の姫君が見せた、初めての温度だった。
湊はその言葉を、ただ静かに胸の奥に沈めた。
夜。湊の部屋。
机に向かっていた湊は、ペンを取り、手帳を開いた。
1ページ目には、彼の字でこう書かれている。
「自分はなぜ、恋がわからないのか」
そして今――その下に新たな文字が並ぶ。
「でも今、知りたいと思っている」
三人の少女。三つの想い。三通りの距離と関係。
(まだ結論は出ない。でも、俺は――)
湊は目を閉じた。
自分の心の奥底に、確かに灯り始めた小さな想いに、そっと手を伸ばす。