沈黙の共犯者たち
学院本館の西側、三階の自習室。
そこは静寂が支配する空間だった。
サリア=メルヴェルは机に向かい、分厚い魔導理論書をめくっていた。
だがその指先は、ページを繰るたびにわずかに震えていた。
(好きって、そんなに簡単に口にできる感情なの?)
ノアの告白を聞いたとき、胸の奥がざわついた。
否――あれは動揺だ。サリアはそれを認めたくなかった。
(不安定な感情に飲まれて、論理を失ったら終わり。私は……私だけは、冷静でいないと)
けれど、ページの上の文字は、目の前を通り過ぎるだけ。
内容が頭に入らない。集中できない。
(安心とか特別とか、唯一とか……そんなもの、数式には置き換えられない)
それなのに、自分もまた、湊と話すたびに心拍数が微増していた。
感情検出魔法で測ったわけではない。だが、自分の身体がそれを裏切れなかった。
そこに、コンコンと控えめなノック音が響く。
扉が開き、湊が顔を出した。
「……ここにいたのか、サリア」
「……あなたが、わたしを探すなんて珍しいわね」
「いや、単純に質問したいことがあっただけだ。昨日、ノアから好きって言われた……その言葉の定義を、君の視点で教えてほしくて」
サリアの手が、止まる。
「……それを、わたしに訊くの?」
「君なら、感情を客観的に整理してくれると思って」
皮肉のような、嬉しさのような。
矛盾した感情がサリアの中でせめぎ合う。
「好きという言葉の定義は、きわめて曖昧よ。個人の内的価値観に依存しすぎていて、定量化が難しい……だから、わたしは信じていない」
「……でも、君も時々、俺の反応を気にするような態度を取る」
サリアは思わず息を呑んだ。
「……観察対象としてよ。あなたは、私にとって特異な存在。感情魔法が使えないのに、他者の情動を動かしてしまう。その矛盾が面白いのよ」
湊はじっと彼女を見つめる。
「じゃあ、感情が芽生えてるっていう可能性は、ゼロなのか?」
「それは……」
言葉が出てこない。
それは論理ではなく、防御の欠如だった。
「サリア。君が感情を信じないって言うのは、自分が傷つくのが怖いからじゃないか?」
「っ……!」
図星だった。
以前、湊と深く話したあの日から、確かに何かが崩れていた。
「……もし、そうだとして。何? 怖いものは怖い。あなたも、それくらいは分かるでしょう」
「分かる。俺も、今まさにそうだから」
その言葉に、サリアは初めて沈黙した。
湊は静かに机の横に腰を下ろした。
「俺は、自分の中に芽生えた感情が、恋なのかどうか判断できない。でも、それを知ろうとしてる。君のような論理で測れないことを、少しずつ理解したい」
「それは……ノアさんの告白の影響?」
「それもある。けど、一番は君やリセたちと話すうちに、自分が何かを望むようになってるのを自覚したから」
サリアは膝の上で手を握りしめた。
(望む? わたしが、湊を? そんな、非合理な……)
だが、もう否定できなかった。
自分の中にも確かに、嫉妬と、焦燥と、微かな願望が渦巻いている。
(わたしは、いつから湊の観察者じゃなくなったの?)
放課後の研究棟。
ルディ=エストラーダは、サリアの訪問に驚いていた。
「おや、サリアくん。こんな時間にどうしたのかね?」
「……感情魔法の過去記録を閲覧したいの。個人感情の定義に関する哲学的資料が必要で」
「ふむ。珍しいね。君が感情の定義にこだわるなんて。さては、誰かに揺さぶられたな?」
「……うるさい」
「湊くんかな?」
図星を突かれて、サリアは睨む。
ルディは肩をすくめた。
「いいじゃないか。人間はね、考えるより感じるほうが、先に生まれた。それを逆行させて分析しても、本質は見えないよ」
「それでも、わたしは知りたい。感情の正体を……自分の中にある、この奇妙な揺らぎの正体を」
ルディは少しだけ微笑んだ。
「ならば、答えはいつも君自身の中にある。理論書には載っていない。好きという感情はね、理解するものではなく、肯定するものなんだ」
その言葉が、サリアの胸に妙な余韻を残した。
(肯定……? そんな不安定なものを?)
彼女は資料を手にして研究室を後にする。
夜の回廊に差し込む夕陽が、赤く彼女の表情を染めていた。
(でも、もしこの感情が好きなら――)
(わたしは、すでに……)
その頃、湊は学院の中庭でリセと顔を合わせていた。
「聞いたわ。ノアが、あなたに告白したって」
「……ああ。返事は保留にした」
リセは静かに目を細める。
「断らなかったのね……それが、彼女にとってどんな意味を持つか、理解してる?」
「……俺も、無視はできなかった。俺にとってノアは、確かに安心の象徴だったから」
「安心と恋は違う」
「分かってる……でも俺は、今までそういうことから逃げてきた。君やサリアと話すたびに、それを思い知らされる」
リセは少しの間、何かを考えていた。
やがて、彼女は珍しくほんのわずか笑った。
「……少しは、進んできたわね。あなた自身が」
「そう、思うか?」
「ええ。でも、進めば進むほど、選ばなきゃいけなくなる」
「……選ぶ?」
「ええ。誰を、どんな想いで見つめるかを。その曖昧さは、もう許されない時期に入ったのよ。あなた自身にも、私たちにも」
風が吹いた。
リセの銀の髪が揺れる。
「……じゃあ、もし俺が君を選んだら?」
リセは答えなかった。
ただ、わずかに目を細めて、湊を見つめ返した。
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静まり返った図書室の奥、いつもの席でノアはノートを開いていた。
けれど、ペンは一文字も進まない。
(湊さん……今、どんなことを考えてるのかな)
告白してから三日。
返事を催促したわけではないが、湊から何の言葉もなかった。
その沈黙が、ノアをじわじわと追い詰めていた。
(優しいってわかってる。でも、それって……優しさで私を傷つけないようにしてるだけ?)
ふと、近くの棚から本を取る音がして、顔を上げると――そこにサリアがいた。
一瞬、ふたりの視線が交わる。
どちらからも言葉は出なかった。
サリアは無言で隣の席に座り、ノートと書物を机に並べた。
「……あなたがここにいるとは思わなかったわ。こんなに静かな時間に」
「……サリアさんこそ」
互いに目を合わせず、かすれた声で応じる。
まるで、会話のようでいて、会話になっていない。
そんな空白を、サリアが破った。
「……ノア。あなたは、なぜ湊に好きって言えたの?」
ノアは、手元のページを見つめたまま答える。
「……本当は怖かったです。でも、それ以上に、今言わないと、なにも変わらないって思ったんです」
サリアはしばらく黙っていた。
机の上のインク瓶のラベルをじっと見つめながら、小さく呟く。
「……わたしも怖い」
その声は、普段の彼女からは想像もできないほど、脆くて、震えていた。
「感情って、定義できないし、予測もできない。それに縛られるくらいなら、最初から無視してた方が楽……そう思ってた」
「サリアさん……」
ノアはサリアを見た。
彼女の瞳は真っ直ぐで、誤魔化しのない光を宿していた。
「でも、あなたの告白を見て思ったの。怖くても伝えたいって。きっと、それが、好きという感情の本質なんじゃないかって」
サリアは立ち上がった。
そして、自分のノートをノアの前に差し出す。
そこには、びっしりと書き連ねられた文字列。
感情の構造、ホルモンの作用、脳内伝達物質の反応速度――
そして、最後にただ一行。
「感情は、計算ではなく選択である」
ノアは微笑んだ。
「サリアさんらしいですね……でも、すごく素敵だと思います」
ふたりは、ようやくまっすぐ向き合っていた。
沈黙の共犯者だった少女たちが、ようやく想いを語り始めた瞬間だった。
その夕方、学院の中庭。
リセ=ヴァレンシュタインは、湊を呼び出していた。
冷えた風が、彼女の長い銀髪を撫でる。
その姿は、まさに氷の姫君と呼ばれるにふさわしかった。
「……あなた、最近迷ってるわね」
「……そう見えるか」
「見える。少なくとも、ノアの告白を受けて以降、あなたの目は曇ってる」
湊は黙って彼女の言葉を受けた。
「わたしは、あなたに期待していたの。無感情で、恋愛なんてばかばかしいと笑い飛ばす存在であってくれることを」
「……それは、君の安全地帯だったから?」
「違わないわ。でも、今のあなたは、私のその幻想を壊しつつある。そして同時に――それを壊されることに、わたしは少しだけ期待しているのよ」
その言葉に、湊の眉がわずかに動いた。
リセは一歩、近づく。
「……湊。あなたが誰を選んでも、私はそれを受け止める覚悟がある。でも――覚悟があるということは、願っているということでもあるの。わたしが、あなたに選ばれる側でありたいと、願っているの」
「リセ……」
「だから、決めて。迷ったまま、誰かを傷つけないで」
冷たくて、強くて、そしてどこまでも真剣な瞳。
湊はその視線に、何も言い返せなかった。
その夜。湊の部屋。
彼は一人、机の上の紙に向き合っていた。
そこには、三人の名前が並んでいる。
ノア・フィンレイ
リセ=ヴァレンシュタイン
サリア=メルヴェル
どの名前にも、消せない感情の断片がこびりついている。
安心、信頼、尊敬、好奇心、そして……愛情?
(俺は、選ばなければならないのか?)
(選ぶということは、同時に選ばない誰かを生むことになる)
心の中で誰かの声が響く。
――それでも、前に進めと。
(……もう、逃げるのはやめよう)
湊は、目を閉じて深く息を吐いた。
好きとは何か。
答えはまだ見えない。だが、それを知らなければならない理由がある。
自分が、誰かに必要とされているのなら。
そして、自分もまた誰かを選びたいと願っているのなら――