気づかない焦燥、ほどけぬ依存
木々がさわめく早朝の中庭。
その隅で、ノア・フィンレイは湊を待っていた。
彼が朝の散歩をするのは日課だと、以前ちらりと聞いたことがある。
ノアは制服の裾を握りしめ、小さな靴音を立てて一歩、また一歩と、石畳を踏みしめた。
「……来て、くれるよね。湊さん……」
木漏れ日が差し込む中、やがてその影が現れる。
「……ノア?」
「お、おはようございます!」
ノアはぱっと笑顔を作り、湊に駆け寄った。
「……何してるんだ、こんな朝早くに」
「たまたまです! ちょっと、お散歩しようかなって!」
「偶然って、そんなに都合よく起きるか?」
湊の淡々とした口調に、ノアはむぅと頬をふくらませる。
「偶然じゃダメですか?」
「いや、別に……一緒に歩くか」
その一言に、ノアの顔がぱっと明るくなった。
「はいっ!」
小さな沈黙の後、ふたりはゆっくりと並んで歩き出す。
学院の回廊を抜ける風はまだ冷たく、けれどその静けさは心地よかった。
「……ねえ、湊さん。最近、リセさんやサリアさんと、よく話してますね」
湊の足が、少しだけ止まる。
「……そうか?」
「うん。なんていうか……リセさんは湊さんにだけ、怒らないような気がして。サリアさんも、よく観察とかって言いながら近づいてきてるし」
「……それがどうした?」
「……いえ。ちょっと気になっただけです」
ノアは笑ってみせるが、その瞳は揺れていた。
(私だけが、湊さんと“特別”なんだと思ってた。でも……もし、誰かに気持ちが傾いていたら?)
胸の奥が、妙にざわつく。
午前の講義後。
湊は学院の図書室で参考書をめくっていた。
その隣に、そっと座るノア。
本を読んでいる彼の横顔を、ちらちらと盗み見る。
ときおり視線がぶつかっては、慌てて目を逸らす。その繰り返し。
「……読みにくくないか?」
湊の問いに、ノアは首を振った。
「全然。湊さんの隣、落ち着きますから」
「……そうか」
「……ねえ、湊さん」
ノアは本のページを閉じ、声をひそめた。
「私、ちょっと怖いことがあるんです」
「……何が?」
「このまま、湊さんが誰かと仲良くなって……私のこと、遠くなったらどうしようって」
沈黙が落ちる。
ページをめくる音さえ、止んだ。
湊は顔を上げて、ノアの瞳を見つめる。
「……俺が誰かと親しくなったら、君は俺から離れるのか?」
「違います。離れたくないから……不安になるんです」
「不安か」
その言葉を、湊はゆっくり噛みしめるように繰り返した。
「……俺は感情がよくわからない。でも……安心できる存在っていうのは、君を見て初めて知ったかもしれない」
「……それ、本当ですか?」
「本当だ」
ノアの胸が、じわりと熱くなる。
(よかった……私だけじゃない。湊さんも、少しだけ……)
だがその喜びの中に、確かに一滴、黒い染みがあった。
(……でも、少しだけじゃ足りない。もっと、もっと……)
その日の夕刻。
学院の食堂で、ノアはリセと鉢合わせた。
リセは静かにスープを飲みながら、ノアの姿に気づき、目だけで合図を送る。
「ノア……珍しいわね、あなたがここに一人でいるなんて」
「……湊さんを待ってるんです」
「そう。なら、あなたに一つ忠告しておく」
リセの声は冷たくも静かだった。
「彼に寄りかかるだけじゃ、何も得られない。あなたが彼を安心できる人だと思ってるように、彼もまた誰かに頼られることを学んでいるだけ」
「……それの何がいけないんですか?」
「そのままじゃ、彼はあなたを必要とは思わない。あなたが怖がってるうちは」
ノアは言葉を失った。
リセはスプーンを置き、立ち上がる。
「……私も、彼を知りたいと思ってる。でも、私が彼に近づくのは恋愛じゃない。もっと違うもの」
「……リセさんは、怖くないんですか? もし、湊さんに拒まれたら……もし、彼が誰か別の人を選んだら……!」
リセは立ち止まり、振り返った。
「怖いに決まってる……でも私は、恐れて何もしない方がずっと怖い」
ノアはその背中を、何も言えず見送った。
(私は……今のままじゃダメなんだ。ただ一緒にいたいだけじゃ、届かない……)
夜の寮室。
ノアはベッドの上で小さなノートを開いた。
そこには、何度も書き直された一つの文章がある。
湊さんにとって、私は安心できる存在でいたい。
でも……それだけで終わりたくない。
ページの余白に、震える手で一文が加えられる。
私は、湊さんにとって唯一になりたい。
その瞬間、扉がノックされた。
「……ノア、起きてるか?」
湊の声だった。
ノアは慌ててノートを閉じ、ドアへ向かう。
「は、はいっ。起きてます!」
扉を開けると、そこには手に小さな包みを持った湊が立っていた。
「図書室に忘れてたみたいで……君のノート。司書が預けてた」
「え……あっ、ありがとう……ございます……!」
顔が一気に赤くなる。
「さっきは、ごめんな……君の話、ちゃんと聞けなかった」
「……いいえ」
「……俺は、君に安心をもらってる。だけど、それに甘えてるだけじゃ、だめなんだろうなって思った」
「え……」
「君が、俺を見てくれてることに、応えなきゃって。だから……その、もしよければ、今度の休みに一緒に散歩しないか?」
ノアの瞳に、光が宿る。
「……はい、ぜひ!」
扉が閉まり、再び静寂が戻った。
ノアは包みを抱きしめ、そっと呟く。
「……安心じゃない。好きって、こういうことなのかな……」
彼女の胸には、まだ拭いきれない不安がある。
だが確かに、ただの依存ではない何かが芽生えはじめていた。
学院の南庭にある古い石橋の上。
休みの日の朝、そこに湊とノアの姿があった。
いつもより少しだけ華やかなリボンをつけたノアが、隣で小さく呼吸を整えている。
湊は、その変化に気づきながらも口には出さない。ただ、一定の歩調で並んで歩いていた。
「……お天気、よくてよかったですね」
ノアがふと話しかけると、湊は空を見上げた。
「ああ。雲ひとつない」
「今日は、どこまで行きましょうか? あんまり遠いと、帰りが大変ですよね」
「……君に任せるよ。こういうとき、俺は計画を立てるのが苦手だから」
ノアはくすりと笑った。
「湊さんって、無感情っぽいのに、時々すごく優しいですよね」
「それ、どういう意味だ」
「えへへ。今のも優しいです」
石橋を渡り終え、木立の並ぶ遊歩道へと入る。
木々の間を風が吹き抜け、葉がさらさらと鳴った。
その音に包まれながら、ノアはゆっくりと問いかけた。
「……ねえ、湊さん。わたしと一緒にいるとき、どんな気持ちになりますか?」
「……安心かな」
その即答に、ノアの胸がきゅっと鳴る。
「それって、いてもいなくても同じって意味ですか?」
「違う」
湊は立ち止まり、ノアのほうを見た。
「君がそばにいるとき、俺は――何かが満ちるような感覚になる。でも、それが何なのか、うまく言えない」
ノアの頬に、赤みが差す。
だが、胸の内には少しだけ棘があった。
(うまく言えない……それって、やっぱり、恋愛じゃないの?)
彼女はその不安を押し殺すように、笑ってみせた。
「それって……たぶん、いいことですよ。わたしも、湊さんと一緒にいると、怖くなくなります」
ふたりはまた、歩き出す。
数分の沈黙のあと、ノアが唐突に切り出した。
「……リセさんのこと、どう思ってますか?」
湊は驚いたように顔を向けたが、すぐに視線を戻した。
「難しい人だ。感情を抑え込んでいるのに、内側では燃えてる……強いようで、壊れやすい」
「優しいんですね。リセさんにも、サリアさんにも、湊さんはちゃんと向き合ってて」
「向き合ってるというより……気になる。俺が彼女たちにどう見られてるかを、以前より気にしてる気がする」
「それって、好きってことじゃないですか?」
湊は立ち止まった。
そして、真剣な眼差しでノアを見つめる。
「……好きって何だと思う?」
ノアは言葉を詰まらせたあと、静かに答えた。
「そばにいてほしいって思うこと。他の誰よりも、自分のことを見ててほしいって願うこと」
「……それが、好き?」
「わたしは、そう思ってます。だから……わたしは、湊さんのことが好きです」
――言ってしまった。
ノアの心臓が跳ねる。
湊は、ただ黙っていた。何も言わず、ただその告白を受け止めていた。
やがて、ゆっくりと答える。
「……ありがとう。君がそう言ってくれるのは、嬉しい。
でも……今の俺には、それに同じ言葉で返す資格がない気がする」
「……それでも、いいんです」
ノアの声は、震えていた。
「待ちます。湊さんが、わたしのことをちゃんと見るようになるまで……わたし、安心できる場所でいるのはもう終わりにします。ちゃんと、選ばれたい。ちゃんと、わたしだけを見てほしい」
その瞳は、真剣で、涙を堪えていた。
湊は、返す言葉を見つけられずにいた。
その日の午後。
学院の裏手で、リセとサリアがばったり顔を合わせた。
どちらも口には出さないが、気配で察していた。
――湊とノアが、どこかで何かを話したことを。
「……あなた、最近焦ってるようね」
サリアがリセに言う。
「……焦ってるのは、あなたも同じ」
「私は、観察してるだけ」
「ふうん。でも、あの子の告白には、心がざわついたんじゃない?」
サリアは一瞬だけ黙ったが、やがて口を開いた。
「正直に言えば……そうかもしれない。論理ではなく、好きという言葉を堂々と使えるあの子に、嫉妬したのは事実」
リセは肩をすくめた。
「私も……あの子が先に一歩を踏み出したのを見て、自分の立ち位置が揺らいだ気がした」
ふたりの間に風が吹いた。
「でも、それでも……私は諦めない。湊にとって必要な存在になりたいって思ってる」
「同じね」
「……次は、私たちの番よ」
二人の視線が交わり、そして離れた。
その夜。
湊はベッドの中で、ノアの告白を思い返していた。
好きという言葉が、何度も脳内で反響する。
(誰かに必要とされるって、こういう感覚なのか)
(選ぶって……俺に、できるのか?)
静かな夜の中で、湊は確かに感じていた。
自分の中に芽生えた何かが、もう他人事ではなくなっていることを。
恋という名の感情が、ゆっくりと彼の世界に浸透し始めていた。