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論理で拒んだ想いの正体

学院の南翼――そこは、研究者や高等魔術理論を学ぶ者のための知性の区画と呼ばれていた。


装飾の少ない石壁。静まり返った廊下。わずかに響く羽ペンの音。


篠原湊はその一角にいた。


恋愛魔法理論の論文写本を探すためである。セリア校長の指導の一環として、「恋愛感情の発生原理」に関する古文献を読むように言われたのだ。


棚を探っていると、ふいに後ろから声が届いた。


「……あなたが湊ね?」


柔らかくも、芯のある声。

振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。


琥珀色の髪をまとめた上品な三つ編み。整った顔立ちに、鋭く冷静な瞳。左腕には厚めの理論書が抱えられている。


「私はサリア=メルヴェル。研究生枠で飛び級してきたの。あなたの存在、少し気になってた」


「……どうも。俺に何か?」


「ええ。ひとつ、検証したい仮説があるの」


彼女はまっすぐに湊の瞳を見た。


「感情を持たない人間が、本当に存在するのかどうか。あるいは、単にそれを定義できないだけなのか――」


「……つまり、俺を実験材料に?」


「言い方はともかく、そういうこと」


その態度に、湊は特に動じた様子もなくうなずく。


「面白い仮説だ。で、どう検証する?」


「簡単。あなたと会話するだけ。問いかけ、観察し、心的反応を記録する。そう、感情を持たないならば、どれだけ論理的な挑発をしても反応しないはず」


「挑発する気満々だな」


「ええ、研究熱心なの」


そう言ってサリアはすぐ傍の閲覧席を指し示す。


「座って。もう少し論理的な遊戯に付き合ってもらうわ」




「まず第一の問い。あなたは恋愛という概念を、どう捉えている?」


「不安定な情動。理性を阻害する要素。個体によって定義が変わるため、観測に不向き」


「ふむ。予想通りの答え。じゃあ次。誰かを好きになるという現象を、どう説明する?」


「錯覚。記憶や状況の積層による一時的な優先反応。いずれは薄れる」


サリアは書きながら、ちらと視線を向ける。


「……随分冷めてるのね」


「事実として、観測可能な事象を並べただけだ」


「じゃあ、質問を変えよう。誰かの名前を無意識に思い出すのは、どうしてだと思う?」


湊の指が止まった。


「……それは、条件反射か、記憶の連想による自動化された応答」


「たとえば、ノアとか?」


静かな廊下に、その名前が落ちる。


湊は視線を落とし、わずかに息を吐く。


「……彼女の名が思い浮かぶのは、観測中に起きた印象的な出来事があったから。それだけだ」


「本当に?」


「……感情じゃない。論理だ」


サリアはふっと笑った。その笑みには、どこか確信があった。


「ねえ、湊。あなたの言葉は正確で冷静。でも、それが言い訳にも聞こえるの……自分を納得させるためのね」


湊は初めて、わずかに目を細めた。


「面白いな。君は感情は錯覚と断言していたと聞いたが」


「そうよ。恋愛なんて、脳のバグ。誤作動。生存戦略の副産物」


「なのに、なぜ俺を試す?」


「――あなたが、感情に無関心でいられる人間に見えなかったからよ」


沈黙が落ちる。


「むしろあなたは、誰よりも真剣に感情と距離を取っている。それは、感情に触れてしまうと危ういって、どこかで理解している証拠よ」


湊は返答せず、ただ目を伏せた。


「……面白い推論だ」


「ありがとう。これは観測結果。感情の空白を演じてるのがあなたなら――私は、それを暴きたいの」


言葉の端に、奇妙な熱が宿る。

それを自覚したのは、サリア自身だった。


(……まずい。これ、わたしの仮説が……)


「最後に一問だけ。あなたは誰かと二人きりでいる時間を、無感情に過ごせる?」


「……その相手による」


「たとえば、今の私では?」


しん、と空気が張る。


「……論理的会話は有意義だ。君との時間に感情が混じっているかは、まだ自分では判別できない」


「……判別できない時点で、それはもう始まってるのよ」


サリアは言い、立ち上がる。


「……今日の検証はここまで。でも……私はまだ、あなたの心の防御理論を崩せてない」


「なら、また来るか?」


「ええ。あなたが、どこまで拒絶できるか試したいの」


その言葉に、湊は小さく笑った。


「……君、恋愛を否定してる割に、妙に楽しそうだな」


「だからバグって言ってるのよ」


サリアはそう言って、足早に去っていった。

その背中は――少しだけ、迷っているように見えた。




その夜、彼女は一人、研究室で書きかけの論文に手を置いていた。


そこに走り書きされたのは、こうだ。


仮説補足:

被験者シノハラ・ミナトは、感情無欠ではなく、過去のある経験により感情を自衛的に封じている可能性が高い。また、彼と接した際、自身の内部に予測不能な感情反応が生じた。※この現象は、学術的興味か、あるいは――


彼女はそこまで書き、ペンを止めた。


(論理で定義できない感覚。それを感情と呼ぶのなら――)


彼女の胸に、かすかなざわめきがあった。



====



朝の講義後、学院の中庭は学生たちの声で賑わっていた。

木漏れ日の揺れるその片隅に、湊は立っていた。


一歩下がった石畳の先に、見覚えのある三つ編みの少女――サリアが佇んでいる。


普段通りの整った制服姿。だが、その表情は、どこか落ち着かない。


「……来てくれたのね」


「呼び出したのは君だろ」


「返答が来るかどうかは五分五分だったけど。まあ、来てくれてよかった」


サリアは鞄から一冊の小さな本を取り出す。表紙には《感情理論の再構築》と書かれていた。


「これ、仮説整理の参考資料。あなたとの対話を基に、再定義を試みようと思って」


「……それが俺に関係するのか?」


「ある。私は感情は錯覚という論に自信を持ってた。でも、あなたと話すうちに――妙なノイズが走るようになったの」


「ノイズ?」


「本来起こらないはずの思考の引っかかり。論理では説明できない関心が、生じてしまった」


「……つまり興味?」


「個人に対する興味なんて、研究目的以外では抱いたことなかった。でも今は……正直、自分でも判別できてない」


湊はその言葉を、静かに受け止める。


「……君は、自分の心に興味が出てきたのか」


「……もしかしたら」


サリアは数歩、湊に近づいた。


「あなたは、私の予測を超える存在よ。論理で解けない問いの塊。そのくせ、どこか脆くて、だから惹かれるのかもしれない」


「俺は、君の理論を壊したか?」


「ええ。少しだけ。でも……それが嫌じゃないって思ってる自分に驚いてる」


湊は黙って空を仰いだ。

少し先、木々の向こうに人影が見える。

リセとノアがこちらを遠巻きに見ていた。


リセの視線は鋭く、ノアのそれはどこか不安げだった。


「……あの二人、君を見てる」


「うん。わかってる。観測対象は、あなただけじゃないのね」


「……俺は、何者なんだろうな。君たちを観察するつもりだったはずなのに、逆に観察される側になってる」


「恋愛って、そういうものなんじゃない?」


サリアはそう言って、ふと笑った。


だが、その微笑みは今までとは違うものだった。張り付いた皮肉や嘲笑ではなく、少し、寂しげで、柔らかい。


「……湊、あなたの目に、私はどう映ってる?」


唐突な問いだった。だが湊は、即答を避けた。

沈黙が流れ、風が葉を揺らす。


「……賢くて、論理的。でも……それだけじゃない」


「それだけじゃない?」


「君は、感情に傷つくことを恐れてる。だから、バグと定義して、安全な距離を取ってる」


サリアの瞳が揺れた。


「……やっぱり、私の中にも誤作動が始まってるのかもしれない」


「それは、バグじゃない。はじまりだよ」


「はじまり……」


湊はゆっくりと視線を落とす。

サリアの持つ《感情理論の再構築》という本が風に揺れていた。


「君の理論が完成したら、また教えてくれ……それが、どんな答えになっても」


サリアは頷いた。


「……ありがとう。あなたにそう言ってもらえたら、少しだけ……信じられる気がした」


その言葉のあたたかさに、湊はわずかに胸の奥をかき回される感覚を覚えた。


静かに、だが確かに、何かが溶け出している。




その日の夕刻、湊は学院の塔の上から、夕日に染まる中庭を眺めていた。


誰にも話しかけず、ただ、今日一日を反芻するように。


「……サリアの笑顔、今日が初めてだったかもしれない」


小さく呟いたその声に、背後から返事が届く。


「君、意外とちゃんと見てるんだね」


振り返ると、そこにはルディ=エストラーダがいた。白衣を翻し、いつもの飄々とした笑顔を浮かべている。


「観察の精度が上がってる……それはつまり、自分の感情にも反応してるってことだよ」


「……俺の中に、何かがあるって言いたいのか」


「あるに決まってる。君はそれを持たないんじゃない。知らなかっただけさ。知らなかった感情を、今、三人の少女が教えてくれてる」


湊は返事をしない。だが、その表情に、わずかな戸惑いが浮かんでいた。


「……ノアは、君に触れて安心してる。リセは、君にだけ本当の姿を見せてる。そしてサリアは……論理じゃない気持ちを君で知った」


ルディの言葉は、どこまでも穏やかだった。


「……そのうち、君自身が、誰かを選ぶ時が来る。その時、答えはもう理屈じゃない」


「……選ぶ?」


「うん。恋っていうのは、最後に誰といたいかなんだよ」


湊は再び、遠くを見やった。


沈みゆく夕日が、ゆっくりと学院の塔を染めていく。


彼の胸の奥で、確かに小さな誤作動が始まっていた。


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