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感情を知らぬ二人、町へ降りる

学院から町へ出るのは、決して珍しいことではない。


特に《感情魔法》の実技課題となれば、町の市場や広場といった人の感情が交差する場所は重要な学びの場とされている。


湊とリセがその課題に組まされたのは、偶然か、あるいは誰かの意図か。


「――感情観測実習?」


湊がその指令書を読み上げると、隣でリセが軽く頷いた。


「町で自然発生する感情を、記録する実地演習。場所ごとに人の感情波を記録して、分類・考察するの」


「……観測するのはいいけど、俺に感情は見えないぞ」


「感情魔法を使える私が見る。あなたは感情の起点を読む役目。客観視点ね」


「なるほど。論理と感情、分業ってわけか」


ふたりは学院の正門を出て、緩やかな石畳を下る。


その先に広がるのは、にぎやかな市場と人の波。色とりどりの屋台、果実の香り、飛び交う売り声と笑い声――感情が渦巻く場所。


「ここが観測地点のひとつ?」


「そう。特に午後の市は、恋人や家族連れが多くなる。感情の濃度も高い」


湊は人々の流れを見渡した。


互いの手を取り合う恋人たち。子をあやす母親。商人と客が笑いながら値段交渉をする姿。


感情の色が、見えなくてもそこに熱があるのは感じられる。


リセが片手を掲げ、小さな結晶石を起動させると、淡い光が彼女の目に反射する。感情波長を可視化する魔法具だ。


「……幸福、安堵、苛立ち、好奇、恋情……ふふ、やっぱり混ざってるわ」


「ふふ?」


「失礼。少し楽しいだけよ……こんなに色が溢れてるの、久しぶり」


そう言ったリセの横顔は、どこか柔らかかった。


「……君にも感情はあるんだな」


湊の言葉に、リセはちらと目をやる。


「感情がない人間なんて、いないのよ。ただ、感じたくないと願っただけ。あなたと同じ」


湊はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


「……じゃあ、どこから調査する?」


「そうね、まずは――」


「わわっ、ごめんなさいっ!」


突然、二人の間を誰かがすり抜けた。果物かごを抱えた少女――金髪の三つ編みに、鮮やかな赤のスカート。ぶつかった衝撃でかごの中のリンゴが転がる。


「ああっ、りんごが……!」


少女は必死に拾い集めようとするが、転がったひとつが湊の足元に転がってきた。


彼は無言でそれを拾い、差し出す。


「……ありがとう、助かったよ」


少女はぱっと笑顔を咲かせた。光が満ちるような笑み。だが――湊は何か引っかかる感覚を覚えた。


「君、大丈夫か?」


「うんっ、平気平気! 私、ノア。ノア・フィンレイっていうの! そこの果物屋で手伝ってるの!」


「学院の課題中だ」


「へぇ、二人とも学生さんなんだ。……あ、あの……よかったらこれ、お礼に」


そう言って彼女は、ほんのり赤みがかった小さな果実を差し出す。


「感情果って呼ばれてるの。食べると、気分がちょっとだけ明るくなるって言われてるのよ……おまじないみたいなもんだけど」


「感情果……ね」


湊は受け取り、手の中でそれを見つめた。


彼にとって、気分が明るくなるなど、未知の概念だった。


だがその視線に、ノアは怯えなかった。


むしろ安心したように笑っていた。


「なんだろ……君って、ちょっと変わってるね」


「変か?」


「ううん、悪い意味じゃないよ。なんていうか、全然押しつけてこない感じ……すごく、安心する」


その言葉に、リセがほんのわずかに視線を落とした。


「ねえ、湊。そろそろ観測に戻らないと」


「ああ、そうだな」


「ノアさん、ありがとう。これで十分よ」


リセがやや強めの口調で言った。


「うん! またね、お兄さんっ!」


そう手を振るノアに、湊は小さく頷いた。


彼女の笑顔は明るい。けれど――その奥に、どこか探るような色が見えた気がした。




市場から離れた小路に出ると、リセが言った。


「彼女、演技が上手ね」


「ノアのことか?」


「ええ。あの無邪気さは本当じゃない……少なくとも、私はそう感じた」


湊は果実を見下ろす。感情果。その甘い香りが、風に混ざっている。


「君の目には、どう見えた?」


「……あの子は人を試すように笑っていた。傷つけられないかって確かめるみたいに」


「君と少し似てる」


リセが一瞬だけ動きを止めた。


「……私は、もっと露骨に拒絶するわよ」


「でも、あの子は、受け入れてくれるかを探ってた。君は拒絶してくるかを見てる……方向が違うだけだ」


その分析に、リセは苦笑する。


「やっぱり、あなたは冷静ね」


「感情がないだけだ」


「――羨ましい」


その一言に、湊は返す言葉を持たなかった。




その夜。


ノアは小さな宿屋の裏手で、今日拾った果実かごを手入れしていた。


誰もいない夜道、彼女はぽつりと呟いた。


「やっぱり……あの人、ちょっとだけ、怖くない」


誰に語るでもなく、言葉がこぼれる。


「無表情なのに、嘘もない……なんでだろう、すごく、安心するんだよね」


その表情に浮かんでいたのは、誰にも見せたことのないほっとした顔だった。



====



翌朝、湊は学院の資料室にいた。


昨日の観察記録を整理するため、ノートを広げている。だが、ペン先が止まったまま動かない。


「……なぜ、気になる?」


ただの出会いのはずだった。果物屋の少女。


だが、ノア・フィンレイの笑顔の違和感が、頭から離れなかった。


そこへリセが静かに現れる。


「思ったより熱心なのね、あなた」


「……彼女の笑顔が、引っかかってる。普通の好意とは、違った」


リセは静かに本を閉じ、湊の机に腰を下ろす。


「好意の本質は、受容されたいという願い。でも彼女のそれは、もっと切実だった」


「依存……に近い?」


「ええ。拒絶されない安心を得ようとしてる。……あなたの感情の空白が、逆に彼女を引き寄せたのよ」


「空白だから、安心した?」


「あなたは判断しない。期待もしない……そういう人間にしか、近づけない心もあるの」


湊はノアの差し出した感情果を見下ろす。


「……俺は、彼女の期待になれるだろうか」


「なろうとする時点で、あなたは感情を知らないとは言えないわ」


リセの目は柔らかい。冷たさはなかった。


「……ありがとう、リセ」


ふと、湊が言ったその言葉に、彼女の肩がぴくりと動く。


「何でもない。次の調査、どこにする?」


「あの子の店。今日もいるはずよ」




果物屋の前で、ノアは昨日と変わらぬ笑顔を浮かべていた。


が、二人の姿を見た瞬間、ぱっと顔を輝かせる。


「また来てくれたんだ! ふふ、ちょっとだけ期待してたんだよ?」


「観察の続きでね」


「それでも、嬉しいのは嬉しいよ」


湊は言葉を飲んだ。


その笑顔は眩しい。けれど、昨日よりうまく笑っているように感じた。


「今日はね、新しい果物が入ったの。これ、涙桃っていって、ほんの少し、寂しい気持ちを和らげるんだって」


「君、やけに感情に効く果物に詳しいな」


「んー……昔、いろんな人に試してたの」


「試してた?」


「……うん。小さい頃ね、お父さんがいなくなっちゃって。お母さん、すごく泣いてたから」


一瞬、ノアの声の色が変わった。


「毎日、悲しそうな顔ばかりで。何とか笑ってほしくて、果物屋さんのおじさんに教えてもらったんだ。『この実は、心が軽くなる』って」


「……それで?」


「たくさん試したよ。甘いの、苦いの、きれいな色の。でも、笑ってくれたのはほんの数回だけ」


ふっとノアが笑う。その笑みは、どこか自分に言い聞かせるような笑顔だった。


「でも、そういうのって、効いてるふりしてくれる時もあるじゃない? ……だから、今でもふりを信じてるのかもね」


リセが静かに息を吸い、言葉を選ぶように言った。


「それ、全部あなた一人で抱えてきたのね」


「うん、でも、そんなの普通だよ。みんなそうでしょ?」


「普通じゃない……あなたの笑顔は武器よ」


「……うそ。そんな風に思ってなかったよ」


「じゃあ、なんで彼に惹かれたの?」


ノアは目を見開き、湊の方へ視線を移す。


「……たぶん、無反応だから。私の笑顔が通じなくても、嫌われないって思えたから」


「拒絶されない安心」


リセの言葉に、ノアは小さく頷いた。


「……笑ってると安心する人もいるけど、傷つけられることもあったの。だから、効かない人の前では、ちょっと楽なのかも」


湊は何も言わず、彼女を見つめていた。


(俺は……彼女の避難所なのか)


「……君の笑顔が効かないっていうのは、悪いことじゃない。むしろ、笑ってなくても、近づいていいっていう安心だってある」


「……そんなの初めて聞いた」


ノアの目に、少しだけ熱が宿る。


「……次の観察地点は、どこ?」


リセの声が入った瞬間、ノアの空気が少し硬くなる。


「……もう行っちゃうんだ」


「また来るかもしれない」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶんでも、信じるよ」


湊は、昨日の感情果をそっとノアに返す。


「俺が持つより、君の方が似合う」


ノアは微笑む。それは、昨日までよりもほんの少し、力の抜けた笑顔だった。




学院への帰り道、リセはぽつりと呟いた。


「……あの子、あなたに惹かれていく」


「……そうかもな」


「でも、あなたが無意識に、それを受け止めることが、彼女を縛るかもしれない」


「……なら、どうすればいい?」


リセは答えず、ただ空を仰いだ。


夕焼けが校舎の尖塔を赤く染めていた。


「私は――」


そう言いかけて、言葉を止める。


「……私も、あなたを使っているのかもしれないわね」


「……どういう意味だ?」


「気づいてるはずよ、湊。感情って、伝染するの……私の中にも、少しずつ何かが、芽生えてる気がするの」


湊はリセを見た。


その瞳の奥に、抑えきれない何かがきらりと揺れていた。


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