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そして、恋になる

朝の光が学院の塔を照らす。


湊は静かに寮の部屋を出た。


制服の胸元には、今まで一度も使うことのなかった小さなブローチが光っている。学院での正式な「告白」の印。これを手渡すことで、その想いが本物であることを証明する——


彼の足取りには、もはや迷いはなかった。


「……行こう。今度こそ、ちゃんと伝えるんだ」




学院の温室。

いつも静かなその空間に、今日は淡い光が差し込んでいた。


サリア=メルヴェルは、書きかけの論文ノートを片手に、ゆっくりと顔を上げた。


「来たのね」


「うん。話があるんだ」


サリアはペンを置き、真正面から湊の瞳を見つめた。


「もう、実験は終わった?」


湊は小さく頷いた。


「うん。もう答えは出てる。俺は……君を選びたい」


温室の空気が、一瞬だけ止まったかのように感じられた。


サリアは少し目を伏せて、ゆっくりと口を開いた。


「論理的に見れば、あなたがわたしを選ぶ確率は三分の一以下だった。リセは美しく、強く、誰よりも真っ直ぐだった。ノアは誰よりも近くて、柔らかくて、あなたを無条件に受け入れてくれた……それでも、なぜわたしを?」


湊はためらいなく答えた。


「たぶん……君が一番、俺を変えようとしなかったからだ。リセは俺に感情を与えようとした。ノアは俺を好きにしてくれようとした。でも、君は——俺に感情がなくてもいいって、そういう距離でい続けてくれた」


「……観察対象だっただけよ」


「そうかもしれない。でも、その観察が、俺には救いだった。君が理屈で自分を守っているのを知ってたから、俺も、自分を偽らなくて済んだ。少しずつ心を開いて、ゆっくり好きになっていけた」


湊は、ポケットからひとつの小さな箱を取り出した。

それは、学院伝統の告白の証——感情ブローチ。


「君が恋というものを、脳内バグじゃなく人間らしさとして見つめられるなら——これを、受け取ってほしい」


サリアは一歩も動かず、その箱をじっと見つめていた。


「わたしは、未だに恋という感情を完全には解析できていないわ。心拍、発汗、言葉の選び方、瞳孔の開き方……どれも曖昧で、不安定で、不確定」


「それでいい。俺も、まだ完全にわかってるわけじゃない。でも、君と一緒に考え続けたいって思った。君の論理で、君の言葉で、俺に恋を教えてくれ——隣で、ずっと」


サリアの瞳が揺れる。


その揺れは、今まで彼女が見せたどの感情よりも複雑で、そして——あたたかかった。


「……脳内バグね」


サリアはそっと笑った。


「いいわ。認めてあげる。このバグは、あなたという存在によって、確かに起こったものだと」


彼女は静かに、湊の手からブローチを受け取った。


「そしてそれは、きっと——世界で最も優しいエラー」


温室に、風が吹き込んだ。

木漏れ日のなかで、ふたりの影が重なる。




夕暮れ。学院の鐘が、最終下校を告げる。


校門の近く、ノアが一人、ベンチに座っていた。

彼女の手には、包み紙にくるまれた飴玉が二つ。


湊が近づくと、ノアは笑顔でそれを差し出した。


「おつかれさま。決まったんだね」


「……ああ」


「ふふ、うん。なんとなく、分かってたよ。サリアさんのところに行くの、昨日から分かってた。湊さんの足音、違ったから」


彼女の笑顔には、涙がにじんでいた。


「でも、わたし、すっごく幸せだったんだ。湊さんに出会えて、恋を教えてもらえて。こんな風に、ちゃんと自分の想いを伝えようって思えたの、初めてだったから」


湊は言葉を詰まらせる。

何を言えば、彼女の痛みを軽くできるのか、答えはなかった。


「だから、泣くけど……でも、ちゃんと笑うね。最後は、湊さんらしくありがとうって言ってくれたら、それでいいよ」


湊は、深く一礼した。


「ありがとう、ノア。君の笑顔に、何度も救われた」


「うん。わたしも、ありがとう——また、友達として会えるよね?」


「ああ、絶対に」


ふたりは軽く握手を交わし別れた。


それは、恋の終わりではなく、新たな関係の始まりだった。




寮へ戻ると、サリアが入口で待っていた。


「……戻ってくるの、遅かったわね」


「少し話してきた」


「ノアさん?」


「ああ。大切な人だから」


サリアはほんの少し微笑み、歩き出す。


「じゃあ、今日は論文は置いておきましょう。代わりに、あなたと——感情について、もう少し考えてみたい」


湊も歩調を合わせる。


彼女の隣を歩くたびに、少しずつ好きの輪郭が深くなっていく。


——恋を知らなかったふたりが、

今、ようやく恋の始まりに立っている。




====




春の風が学院の窓を叩いていた。

季節は巡り、卒業式が終わった翌日——


寮の部屋で、湊は一通の封筒に最後の一筆を加えていた。


宛名は「リセ=ヴァレンシュタイン」


彼女が中央研究院へ移ってから、すでに一か月。直接会うことはかなわなかったが、どうしても伝えたい言葉があった。


「これで……いい」


封を閉じ、風に乗せて想いを送り出す。

それはもう選ばなかった相手への手紙ではなく、

かつて自分を救ってくれた尊敬すべき人への贈り物だった。




その頃。遠く離れた中央都市・研究院。

一人の女性が書斎で静かに資料を広げていた。


リセ=ヴァレンシュタイン。

白い研究服に身を包んだその姿は、かつての氷の姫君のような鋭さこそあれど、どこか柔らかい空気をまとっていた。


窓辺に、小さな鳥が手紙を運んできた。


「……湊?」


封を切ると、端正な筆跡が並んでいた。




リセへ


元気にしているか?

あれから毎日、君の言葉を何度も思い返した。

君はまっすぐで、誰よりも強かった。

だけど俺は、その強さに甘えていた。

本当に向き合う覚悟がないまま、君の想いに触れた。

傷つけたこと、心から謝る。


だけど——ありがとう。

君が愛してると叫んでくれたおかげで、俺は初めて恋と向き合えた。


君の恋は、本物だった。

だからこそ、俺も本物の恋を探せたんだ。


どうか、君の心が、これから出会う誰かに再び温められることを祈っている。


そしていつか——

笑って話せる日が来ることを、心から願ってる。


湊より




読み終えたリセは、ふっと笑った。


「ほんと、最後まで不器用なんだから……」


手紙を胸に抱き、目を閉じる。


氷のように固く凍らせていた過去が、少しだけ溶けていくのを感じた。


(……またいつか。あなたに会えたら、今度こそ笑ってバカって言ってやるわ)




学院の温室。

いつもの場所で、湊とサリアは並んで座っていた。


ふたりの前には、一輪の感情花エモリアが咲いている。

感情に反応して色を変える、不思議な魔法植物。


「これ、青くなった」


サリアが言った。


「思慕の色だね」


「ええ……つまり、いまのあなたは、わたしに思慕を抱いているってこと」


「当たってる。最近、こうして一緒にいる時間が一番落ち着く。

論理も魔法も、なんか全部どうでもよくなるくらい」


サリアは微笑んだ。


「わたしも……少しだけ、同じ気持ち。不確定で、測定不能な感情だけど、それでも確かにそこにあると、そう感じてる」


「なら、恋って……案外、悪くない?」


「ええ。バグだけど——とても、人間らしいバグ」


ふたりは顔を見合わせ、笑い合った。

エモリアは淡い桃色に染まり、ほのかに甘い香りを漂わせた。




その夜。学院の屋上。


ノアはひとり、夜風に当たりながら空を見上げていた。

そこへ、リディがひょっこり現れた。


「やあ、ノアちゃん。さぼり?」


「ううん、見回りの途中。ちょっとだけね」


リディは彼女の隣に腰を下ろす。


「……湊君、変わったよな」


「うん。すっごく、いい顔になった。わたし、ふられたけど……後悔はしてないよ。だって、恋してるときの自分、きらきらしてた気がするもん」


「その言葉が出るなら、もう恋に勝ってるさ」


ノアはふわっと笑った。


「ねえ、リディさん」


「ん?」


「もしさ、恋ってもう一度できると思う?」


「もちろん」


「じゃあ、次の相手は——あなたかもね」


リディが吹き出す。


「おいおい、それは反則だってば」


ふたりの笑い声が夜空に溶けていった。




翌朝。学院の正門。

湊とサリアは並んで立ち、門の向こうに広がる町を見ていた。


「……これから、どうする?」


湊が尋ねる。


「しばらくは研究に専念するわ。でも、あなたとは週に一度は、感情の経過観察をするって決めてる」


「それって、デート?」


「科学的にいえば、そうなるわね」


湊は笑い、サリアも小さく笑った。


「——行こうか。ふたりで」


ふたりはゆっくりと歩き出す。


恋という不確かで温かなものを、

大切に抱きしめながら——


そして、ふたりは知る。


恋って、案外——


悪くない。


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