選んだ答え、選ばれなかった心
学園祭の朝。
学院の門をくぐる生徒たちの表情は、どこか晴れやかで、期待に満ちていた。
けれど、湊の足取りは重かった。
今日という日が、ただの祭りではないことを——
誰かを選ぶ日になると、彼は痛いほど理解していた。
「いらっしゃいませー! こちら劇団『蒼月』の公演会場ですー!」
ノアの明るい声が、講堂の前に響く。
クラスの演劇は、学園祭のメイン演目のひとつ。湊たちのクラスはその脚本・演出・演技すべてを、リセを中心に作り上げた。
舞台裏では、出演者たちが慌ただしく準備を進めていた。
その中で、リセは一人、静かに衣装のリボンを結び直していた。
「……湊、来てるかな」
誰にも聞こえないほど小さな声で、彼女は呟いた。
「今日が、最後かもしれない。でも、それでもいい。私の全部を届けて……それで終わっても」
その言葉には、震えるような決意が込められていた。
講堂の座席、中央前列。
湊は、静かに開演の時を待っていた。
「……ちゃんと見届ける」
心の中で、もう何度目になるか分からない決意を噛みしめる。
そして、幕が上がった。
演目は「氷の王女と無感情の騎士」
まるで、湊とリセ自身をなぞるような物語。
感情を失った騎士と、心を閉ざした王女が、互いを知ることで変わっていく——
「どうして……あなたは、そんなに優しいの……」
リセの台詞は、脚本にない一言を含んでいた。
彼女は、舞台の上で台本を少しずつ逸脱し始めた。
「私は……ずっと一人でいる方が楽だって、思ってた。でも、あなたと出会って……その考えが、少しずつ壊れていったの」
湊は息を呑んだ。
これは演技ではない。
彼女は、舞台の上から自分に想いを語っている。
「だから、今——最後に一つだけ、伝えたい」
王女の役を脱ぎ捨てるように、リセは客席の湊をまっすぐ見た。
「私、あなたを……好きになってしまったの。心を閉ざしてたはずの私が……あなたに、恋をしてしまったの!」
客席がざわつく中、リセは深く一礼した。
その背中には、迷いも恐れもなかった。
終演後、講堂の裏手。
夕暮れが、学院の空を赤く染めていた。
リセは舞台衣装のまま、湊の前に立っていた。
「……聞いたよね」
「ああ」
湊は静かに頷いた。
「もう逃げないって、決めた。だから——今、俺の答えを言うよ」
リセの目が見開かれる。
けれど、湊はその視線をしっかりと受け止めた。
「俺は……君を、選びたいと思ってる」
その言葉に、リセの表情が一瞬、凍りつくように固まる。
「でも……まだ決めたとは言えない。君だけじゃない、ノアもサリアも、同じくらい真剣に想ってくれた。俺は、それを受け止めきれてないまま——誰かを選ぶ資格があるのか、ずっと悩んでた」
リセの目が伏せられる。
その横顔に、ほんの少しの寂しさが浮かんだ。
「それでも……今、君が舞台の上からぶつけてくれた気持ちを、俺は無視できなかった。だから、伝えたかったんだ。今の俺は、君のことを、強く意識してるって」
リセは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、涙はなかった。
「ありがとう。ちゃんと……届いたよ」
それは、受け入れるでも、拒むでもない答え。
けれど、彼女はそれで十分だった。
「……でもね、湊。これは始まりじゃない。終わりよ」
「え?」
「私は、あなたが私を選ぶと言い切るまで待てるほど、強くない。だから、これで最後。私があなたに告げる、最初で最後の本当の告白だったの」
風が吹く。
リセの銀髪が、静かに揺れる。
「じゃあね。湊——さようなら」
そう言って、彼女は振り返らずに去っていった。
その夜。
寮の自室で、湊はひとりベッドに座っていた。
窓の外に目をやると、星空が広がっている。
(誰かを選ぶって、こんなに苦しいことだったんだな……)
一歩踏み出せば、誰かを傷つける。
だからずっと、踏み出せなかった。
けれど——リセは、自分に向き合ってくれた。
そして、離れていった。
(今度は、俺の番だ)
次は、逃げない。
想いに、誠実に、最後まで向き合う。
(終わらせない。ちゃんと、未来へ進む)
その胸に刻まれた決意は、これまででいちばん鮮やかだった。
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翌朝。
学院の中庭は祭りの余韻を残しつつも、どこか静けさを取り戻していた。
リセの姿は、もうどこにもなかった。
「……転科申請か。しばらく、中央都市の研究院へ行くらしい」
ルディの言葉は、まるで夢のように湊の耳に届いていた。
「彼女は強い子だ。だが、強い者ほど、傷つくときは深い。君の言葉は届いたよ。だけど……今は、彼女が一人になりたいんだろう」
湊は小さく頷いた。
「俺……間違えたかな」
「間違いじゃない。誰かを真剣に思うってことは、それだけで正しさの証明になる。ただ、それでも、誰かを選ぶ以上、傷つく人が出るのは避けられない。それが恋という魔法の本質だよ」
ルディは、やさしく笑った。
「さぁ、どうする? 残された時間はそう長くない。君が選ぶべき人は、まだここにいる」
その日の午後。中庭のベンチ。
ノアは湊の隣に座っていた。
彼女の手には、いつものように飴玉が一つ。
「ね、湊さん」
「ん?」
「わたし、あの舞台、ちゃんと見てたよ。リセさんの気持ち、すごく綺麗だった」
「……ああ」
「でも、ひとつだけ聞かせて。湊さんは、リセさんを選びたかった? 本当に」
問いは、無邪気に見えて、とても鋭かった。
湊はしばらく黙ったあと、正直に答えた。
「……選べると思った。だけど、それはただ、彼女が俺に強く想いをぶつけてきてくれたからで……それに応えたいって思っただけで、自分の心をちゃんと見てなかった」
ノアはそっと笑った。
「そっか。じゃあ、今は? 自分の気持ち、ちゃんと見えてる?」
湊は彼女の横顔を見た。
どこまでも明るくて、どこか影のあるその表情。
「……わからない。でも、ちゃんと考えてる。君のことも、サリアのことも、同じように真剣に」
「うん……それでいいよ」
ノアは立ち上がり、湊に微笑みかけた。
「わたしは待つよ。あなたが自分の気持ちを見つけるまで。リセさんみたいにはできないけど、わたしは……最後まで湊さんを信じていたいから」
その背中が遠ざかる。
湊は、何かを飲み込むように唇を結んだ。
夕刻。図書棟の一室。
サリアはいつもと変わらず書架の整理をしていた。
「サリア、話せるか?」
湊が声をかけると、彼女は軽く目線を上げた。
「ええ。何かあった?」
「リセが……学院を離れた。俺が選ばなかったから」
サリアは少しだけ、目を伏せた。
「彼女らしい決断ね。リセはいつも、自分の美学に忠実だった」
「俺……怖かった。君の言う感情のバグって、ずっとわかる気がしてた。誰かを好きになると、見えなくなるものがある。傷つけてるのか、癒してるのか、自分でももう、わからなくなる」
サリアはしばらく沈黙したのち、静かに本を閉じた。
「……じゃあ、逆に聞くわ。あなたは、わたしといるとき、見えていた? 何かを、見失っていた?」
「……いや。君と話してると、いつも冷静になれる気がした。安心した。頼れた。ちゃんと自分の感情を見つめられる気がした」
その言葉に、サリアの指先がわずかに震えた。
「それって、恋なのかしら?」
「わからない。でも、そうなってほしいと……今は、思ってる」
サリアは小さく目を見開き、それから、ふっと微笑んだ。
「なら、実験してみればいいじゃない。この脳内バグが、どこまで深くなるのかを——」
「……君らしいな」
「ええ。だから、あなたにもお願いがあるの。選ぶときは、論理じゃなく、ちゃんと心で決めて」
サリアの声には、ほんの少しの震えと、確かなぬくもりがあった。
「それが、わたしへの最後の実験結果であってほしいから」
湊は頷いた。
その胸に、ようやくひとつの感情が芽吹きはじめていた。
(俺は、誰と……未来を歩みたい?)
問いは、もう逃げられない。
その夜。湊は屋上へと足を運んだ。
学院の灯りが遠くに瞬く中、彼はひとり、風に吹かれていた。
「……俺は、誰かを選ぶ」
リセは去った。けれど、その想いは胸に残っている。
ノアは優しく手を差し伸べてくれた。
サリアは理性を越えて、心で触れてくれた。
彼女たちと向き合い、言葉にして、傷つくことを恐れずに——
「ちゃんと、伝えよう。俺の答えを」
静かに目を閉じる。
次に目を開けたとき、湊の中にはもう、迷いはなかった。




