感情なき者、門を開く
――それは、曇り空の放課後だった。
校舎裏の図書館、窓際の静かな席。鈍色の光が積み重なる古書に反射している。ページをめくる音だけが、空間を支配していた。
篠原湊は、眉一つ動かさず活字を追っていた。
彼の前に置かれていたのは、どこか時代錯誤な装丁の分厚い書物。背表紙に金文字で記された『異世界神話全集』というタイトルが、妙に浮いている。
「くだらない」と小さく呟いた。けれど、指は次のページへ進んでいた。
そこには、こんな一節が記されていた。
『真実の感情なき者よ。心を持たぬがゆえに、門を開く資格を得る』
ページの中心が、淡く発光し始めた。
「……なんだこれ」
瞬間、世界が白に飲み込まれた。
目を開けた湊は、見知らぬ場所に立っていた。
大理石の中庭。空には双つの太陽。ヨーロッパ風の建物が周囲を囲んでいる。花々が咲き乱れ、風は甘い香りを運んできた。
「夢か?」
そう思いたかった。だが、感覚が現実的すぎる。石の冷たさも、頬をなでる風も、制服のしわまでも――すべてが鮮明だ。
「おや、目が覚めたかい?」
声がした。振り返ると、真紅のローブを纏った青年が立っていた。栗色の髪、親しげな笑み。
「君が……篠原湊、だよね?」
「……あんた誰?」
「ルディ=エストラーダ。君をここに招いた張本人さ」
「……なるほど。つまり、異世界転移ってやつか」
驚きも拒絶もなかった。湊にとって、どんな現象も感情の揺れには繋がらなかった。
ルディは肩をすくめて笑った。
「君、面白いな。さっきの転移で少しくらい驚くと思ったけど」
「それ、必要ある?」
「いや、別に? ただ、感情が極端に薄いって話、本当なんだなって思ってさ」
「感情がないことを問題視される筋合いはない」
「いやいや、そう怒らないで――あ、怒らないか。うん、うん。合点がいった」
ルディの軽口に湊は無反応だったが、話は続けられた。
「ここは〈エールフェン〉感情を魔力に変える魔法の世界。怒り、喜び、哀しみ、愛……人の心の動きが力になる。君みたいな無感情体質は、こっちじゃほとんど存在しないんだよ」
「……じゃあ、俺はこの世界じゃ何の力も持てないってことか」
「うん、理論上はね。でも逆に、君みたいな感情を持たない存在は、特別な意味を持つこともある」
「へえ」
興味を示しているようには見えなかった。だが、完全に無視するでもない。
「とりあえず、学院で暮らしてもらうことになってる。〈セラフィード魔法学院〉 ここの中心的な教育機関さ」
「……学校ね。まあ慣れてる」
「君にぴったりの人もいる。似たような冷たい感情を持ってる子でね。名前は――」
ルディが続けようとしたとき、学院の鐘が鳴った。
新しい日常が始まる合図だった。
翌朝。学院の門をくぐると、湊はすぐに注目の的になった。
「えっ、あの人が無魔の……?」
「感情ゼロらしいよ。ほんとに存在するんだ……」
「でも、なんか雰囲気あるよね……静かだけど、目が離せないっていうか」
噂話は湊の耳に届いていたが、彼は無視した。
教室の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
冷気――としか言いようのない、鋭く張り詰めた気配が教室を支配していた。
その中心にいたのは、一人の少女。
銀髪。氷のように透き通った青い瞳。制服も完璧に着こなし、背筋は微塵も揺れていない。
「あなたが……新入生?」
彼女の言葉は静かだったが、拒絶の温度を孕んでいた。
「篠原湊。よろしくって言うべきか?」
「言わなくていいわ。興味はない」
一蹴。けれど湊も気にする素振りはなかった。
彼女は名を、リセ=ヴァレンシュタインという。
氷の姫君――学院のエリートで、感情制御魔法の達人。誰にも心を見せず、完璧主義を貫く存在。
二人は、誰にも感情を見せないという共通点を持っていた。
その日の授業は、実技演習だった。
「では順に、自分の強い感情を魔法として具現化してください」
教壇の講師が告げると、生徒たちは次々に前へ出て、感情を魔力へと変換してみせる。
怒りから炎。喜びから光。切なさから風――。
やがて、湊の番が来た。
「さあ、君の感情を思い出して。何かひとつ、心を揺らした記憶はある?」
講師の問いかけに、湊は静かに手を上げる。そして、そのまま何も起こらなかった。
ざわめきが走る。
「やっぱり無魔……!」
「マジで感情ないんだ……」
講師が困惑する中、湊は静かに言った。
「言ったはずだ。俺には、感情なんてものは必要ない」
誰かが嘲るように笑った。
「それって、ただの欠陥品ってことじゃん?」
その瞬間、静かだった空気が一変する。
「……黙りなさい」
そう言ったのは、リセだった。
教室の空気が凍りつく。
「他人の在り方を、あなたが決めつける資格はない」
「リ、リセ……?」
「彼の感情が希薄でも、それは欠陥ではない。私にとっても、それは秩序の一形態にすぎない」
誰も言い返せなかった。
湊はリセを見る。
その瞳は冷たいままだが、そこには明確な意志が宿っていた。
「……礼は言わないけど、助かった」
「誤解しないで。私はただ、自分の信念を曲げたくなかっただけ」
そう言い残し、リセは席へ戻る。だがその後ろ姿には、かすかな揺らぎがあった。
夜。学院寮の個室。
湊は窓辺で、双つの月を眺めていた。
「……不思議なやつだな。あの女」
感情を否定しながら、誰よりも繊細な目をしていた。
自分と似たようで、決定的に違う。
「――感情なんて、いらない。ずっと、そう思ってたはずなのに」
その言葉には、自分でも気づかぬ微かな違和感が滲んでいた。
やがてそれは、名もなき感情へと育っていく。
それが恋と呼ばれるものだと知るには、まだ早すぎた。
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「篠原湊。リセ=ヴァレンシュタイン。二人一組になりなさい」
教師の一言に、教室がざわついた。
午前の実技演習の後、午後の理論課題は、感情の共鳴測定だった。二人一組で座り、互いの感情波長を測定するという学院恒例の演習である。
ペアの決定は、ランダム――とは名ばかりで、教師の意図が色濃く滲んでいた。
リセがわずかに眉を動かした。だが、反論はしない。
湊もまた、静かに席を移動する。
黒曜石でできた円卓の前に、二人が向かい合って座った。卓の中央には、水晶の球が置かれている。感情波長の同期を可視化する魔道具だ。
「では、始めてください。手を添えて、互いに目を見つめ合って」
教室のざわめきが遠のいていく。
湊とリセが同時に水晶へと指を添える。
触れた瞬間、水晶の奥で淡い光が浮かんだ――が、それはほんの一瞬で、すぐに色を失った。
「……やはり、共鳴はゼロですか」
教師が困ったように唇を結ぶ。
リセは無表情のまま立ち上がろうとした。だが、湊はそれを止めるように口を開いた。
「ゼロでも、無意味じゃない。そういう結果も、感情の一形なんだろう」
リセがわずかに目を見開いた。
「……それは、皮肉のつもり?」
「違う。俺は事実を言っただけだ」
「感情のない人間が、感情を語るなんて滑稽ね」
言葉は冷たい。けれど、その奥には、どこか揺らいだ響きがあった。
湊は目を逸らさずに続けた。
「共鳴がなかった。それだけだ。失敗とも成功とも言えない」
「……合理的だけど、つまらないわね」
リセが席に戻ると、教師は「では次のペア」と演習を続けた。だが、教室の空気はどこか張りつめたままだった。
その日の放課後。
湊は学院の裏庭にいた。人工湖の水面が夕陽を映している。木々の間から小鳥の声が聞こえるが、静けさは壊れない。
リセの姿がそこにあった。
ベンチに腰掛け、一冊の本を膝に乗せていた。だがページは進んでいない。
「……ストーカーのつもり?」
「偶然だ。散歩してただけ」
「そう。なら、少しだけ偶然を許してあげる」
その言葉が、どこか柔らかく響いたのは気のせいだろうか。
湊は彼女の隣に腰を下ろす。距離はひとつ分の呼吸を空けていた。
「君は、感情を抑えてるように見える」
「……どうしてそう思うの?」
「本当に何も感じてないなら、怒りも不快も出ない。けど、君には意図的な冷静さがある。違うか?」
リセは答えない。代わりに、湖面を見つめたまま囁いた。
「……感情って怖いのよ」
「どうして」
「一度、心を許した相手に裏切られたの。全部を捧げたつもりだった。けど……彼は、私の完璧さに息が詰まるって言って去った」
「……」
「それから気づいたの。感情は、他人に隙を見せる穴だって。なら、そんなもの――いらないって」
静かだった湖面に、夕陽が赤く滲んでいた。
湊はただ、彼女の言葉を否定しなかった。
「……なら、俺は怖くないのか?」
リセが、初めて真正面から湊を見つめた。
「……あなたは、最初から穴がない。感情も、情熱も、愛しさも、痛みも、ない。空っぽ。だけど――それが逆に、心地いいと感じてしまう自分がいるの」
その声には、自嘲と微かな安堵が混ざっていた。
「あなたに何を話しても、揺れない。期待もしないし、拒絶もされない。だから……少しだけ、楽なのよ」
湊は小さく息を吐いた。
「なるほど。君もまた、感情から逃げてるんだな」
リセのまなざしが鋭くなった。
「違う。私は――」
「じゃあ、どうして安心を求めた?」
言い返せなかった。
湊は続ける。
「俺は、感情の意味がまだわからない。でも……少しずつ理解しようとは思ってる。ここに来て、君に会ってから」
リセの胸に、小さな波紋が広がっていた。
「私も……昔はそう思ってた。恋って特別なものだって。誰かを想って、胸が痛む感覚。それが愛なんだって」
「それを、信じなくなった」
「ええ」
「俺は、まだ信じたことすらない」
二人の距離は変わらないまま、心の内側だけがわずかに近づいていた。
リセはゆっくりと立ち上がる。
「湊、ひとつだけ忠告するわ。私と関わるなら……感情を知る覚悟を持ちなさい」
「……なら、君は俺にとって教師かもな」
リセが驚いたように目を見開いた。
だが次の瞬間、その瞳にわずかな熱が灯った。
「教師なんて、柄じゃないけど……まあ、嫌いじゃないわ」
それだけを言い残し、彼女は背を向けて歩き出す。
その後ろ姿に、湊はほんの一瞬だけ目を細めた。
感情なんて、いらない。
そう思っていたはずの胸に、見たことのないざわめきがあった。
夜。湊の部屋。
窓の外には、双つの月。静かな月光が机に降り注ぐ。
湊は開きっぱなしの本を閉じた。
『感情の共鳴理論』。理解できるはずもない、感情魔法の教本だった。
けれど今夜は、少しだけ意味が見える気がした。
彼は、そっと呟いた。
「共鳴か……ゼロじゃなかったのかもな」
その言葉を聞いた者はいない。
ただ、彼の心の奥に、名もなき火種が静かに灯っていた。
それが恋の始まりだと気づくには、まだ時間が必要だった。