第9話
翌日の早朝、夜明け前の青白い光が山々の稜線を縁取り始めた頃。
浅見透たちは研究施設跡に到着した。
都心から離れた山間部にひっそりと佇むその建物は、五年前の爆発事故の痕跡を色濃く残していた。
黒く焼け焦げた壁、割れた窓ガラス、そして補強のために打ち付けられた木の板が、かつての悲劇を物語っている。
透と共に施設を訪れたのは、神経科学者の高瀬誠と、フィギュア評論家の村瀬健治。
正面ゲートは頑丈なチェーンと南京錠で封鎖されていたが、村瀬が突き止めた裏手の搬入口には、辛うじて入れる隙間があった。
「間違いない、量子蝶製作所への配送記録は確実にここに繋がっていた」
村瀬が錆びついた鉄扉をこじ開け、低い声で言った。
「表通りは監視カメラだらけだが、この裏ルートは完全な死角になっている」
高瀬は持参した携帯型の測定機器を操作しながら、透の状態を継続的にモニタリングしていた。
「大丈夫か、透?」
高瀬が心配そうに声をかけた。
透の右目は今や完全に濃紺に染まり、時折、内側から発光するかのように青い光を発していた。
「ああ……奇妙な感覚だよ。彼女が俺を導いているような気がする」
透の右目を通して見える世界は、他の二人とは全く異なっていた。
灰色の廃墟の中に、青く光る線が床から浮かび上がり、迷路のように伸びていく。
まるで進むべき道筋を示すかのように。
その光の道は、彼の内に存在する白川ミサキの意識の一部が、彼を特定の場所へと誘導していることを示していた。
三人は懐中電灯の光を頼りに施設内部へと進んだ。
空気は黴と埃の匂いが混じり合い、腐敗した時間の重みを伝えていた。
廊下の両側には、かつての実験機器の残骸や、爆発で変形した金属の扉が並んでいる。
透の右目は、これらの冷たい物体から奇妙な残響を感じ取っていた——。
研究員たちの興奮、実験への期待、そして一瞬で全てが悪夢へと変わった瞬間の混沌。
「この場所で『イリスプロトコル』の実験が行われていたんだな」
高瀬が周囲を見回しながら言った。
「人間の意識とデジタル空間を直接接続する……あまりに先進的すぎた研究だった」
奥へ進むにつれ、施設の様相が奇妙に変化し始めた。
荒廃した区画を抜けると、突如として清潔で近代的な空間が現れた。
壁には新しい塗装が施され、最新のコンピュータ機器が整然と並んでいる。
そして壁面には「量子蝶製作所」の様式化された蝶のロゴが目立つように飾られていた。
「ここは……まるで現役のフィギュア工場じゃないか」
村瀬が怪訝な表情で言った。
その言葉通り、彼らはフィギュアの原型や塗装前のパーツ、半完成品が整然と並べられた作業場に立っていた。
そこには「深淵の瞳」シリーズの未発表バージョンや試作品が、数え切れないほど存在していた。
「大量生産のためなのか?」
村瀬が眉をひそめた。
「違う。これらは『観測者』の意識を収める器だ。断片化した彼女の意識は一つのフィギュアには収まりきらない。だから、これほど多くの『受け皿』が必要だったんだ」
透は直感的に言った。
その時、高瀬の機器が突然、甲高い警告音を発した。
「何だ?!」
「この先に強烈なエネルギー反応がある! まるで巨大な生体反応のようだ!」
三人の間に緊張が走った。
彼らは無言の了解を交わし、廊下の突き当たりにある大きな金属製の扉へと向かった。
高瀬が操作パネルを解析し、セキュリティを無効化する。
重い扉が音もなく開き、三人は動きを止めた。
目の前に広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
ドーム状の巨大な円形の部屋。
その中央には、複雑な生命維持装置に繋がれた一人の女性が横たわっていた。
白川ミサキ。
顔の左半分は火傷の痕で覆われているが、右半分は穏やかな寝顔を見せている。
まるで深い眠りについているかのように。
そして彼女を取り囲むように、何百体もの「深淵の瞳」シリーズのフィギュアが完璧な同心円状に配置されていた。
一体一体の瞳が微かな青い光を放ち、まるで巨大な心臓の鼓動に合わせるかのように規則正しく明滅していた。
「これは、心拍……」
高瀬が呆然と言った。
透は何かに引き寄せられるように、震える足で前進し始めた。
彼が中央へ近づくにつれ、周囲のフィギュアたちの瞳が一斉に彼の方を向き、その輝きを増していった。
空気が震えるような感覚と共に、彼の右目に激痛が走った。
『ようこそ、浅見さん』
声が響いた。
白川の肉体は動かないのに、その声は部屋全体から反響するように聞こえた。
電子的なエコーを伴いながらも、紛れもなく白川ミサキの声だった。
『あなたがついに、ここまで来てくれました』
高瀬と村瀬はその超常現象に完全に圧倒され、凍りついたように立ち尽くしていた。
透だけが、まるで磁石に引かれるように、円の中心へと歩み続けた。
「これが……あなたの本当の姿なのか」
透はかろうじて言葉を紡いだ。
『私の肉体は、ここで安らかに眠っています。しかし、私の意識は……あなたにはもうお分かりでしょう』
透は無言で頷いた。
彼の右目には全てが見えていた。
白川の意識は単一の存在ではない。
それは数百のフィギュアに分散し、施設のコンピュータシステムに融合し、さらにその一部は彼の右目を通じて、彼自身の精神にも侵入していた。
「なぜ、こんなことを……」
『それは……私の研究の本来の目的のためです』
声とともに、部屋の壁面が巨大なスクリーンに変わり、映像が映し出された。
爆発事故の前の白川ミサキが記録した研究日誌だった。
若々しく、熱意に満ちた表情の彼女が語り始める。
『人間の意識は孤立しています。私たちはそれぞれの肉体という殻に閉じ込められ、他者と真に理解し合えない。「イリスプロトコル」はその孤独の壁を打ち破り、意識の限界を超えるための技術でした』
映像は続き、意識の量子的性質、観測による現実への干渉、複数の意識が共鳴することで生まれる新たな集合知について語られる。
彼女の理論は常軌を逸していながらも、恐ろしいほどの説得力を持っていた。
『私の目的は支配や侵略ではなく、「つながり」の新しい形を創造することでした。しかし実験は制御不能となり、私の意識は断片化しました。消滅を免れるため、自分を維持する方法を必死で探さなければならなかったのです』
透は白川の眠るポッドの傍に立っていた。
生命維持装置の微かな作動音だけが、この非現実的な空間にわずかな現実感を与えていた。
彼女の顔の右半分は驚くほど穏やかで、あどけないようにさえ見えた。
「そして……あなたは俺を選んだ」
『あなたは完璧な共鳴者でした。「見る」ことを生業としながら「見る」ことに障害を持つという矛盾。そして何より、あなた自身も気づいていない他者への深い共感能力。それが私の断片化した意識と奇跡的に同調する可能性を秘めていたのです』
透の右目から一筋の涙が流れ落ちた。
それは彼の涙でありながら、青い光を帯びていた。
「だが、あなたの侵食は俺の存在を脅かしている」
『分かっています。だからこそ、ここであなたに会いたかったのです』
白川の声に初めて明確な感情――後悔のような響きが混じった。
『もう一方的な侵食は望みません。ここで、あなたに選択の機会を与えたかったのです』
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、突如部屋全体の温度が急速に下がり始めた。
フィギュアたちの瞳が痙攣するように激しく明滅し、けたたましい警報音がドーム状の天井に反響した。
「何が起きてる?!」
村瀬が叫んだ。
高瀬が計測機器のディスプレイに目を凝らし、声を張り上げた。
「システムが不安定になっている! 白川の意識の断片が急速に崩壊しつつある! このままではシステム全体がダウンする!」
『私の……時間が……尽きかけています……』
白川の声がノイズ混じりになり、弱々しく途切れ始めた。
『浅見さん……あなたは……選ばなければ……私を……排除するか……受け入れるか……あるいは……』
「第三の道だ」
透は迷いなく、しかし静かに言った。
その確信はどこから来たのか、彼自身にも分からなかった。
決断を下そうとしたまさにその瞬間、ブツンという音と共に施設の主電源が落ちた。
非常灯の赤い光だけが、円形の部屋をぼんやりと照らす。
フィギュアたちの瞳の光が消え、白川の生命維持装置も危険を示す警告音を断続的に発していた。
「システムが崩壊した! 彼女の意識の不安定さが施設のメインシステムを破壊したんだ!」
高瀬が絶望的な声を上げた。
透は迷わなかった。
彼は白川のポッドに手を置き、もう一方の手で右目を覆った。
「答えなら、ここにある。第三の道が」
彼は自分自身に言い聞かせるように、しかし確かな意志で言った。
「白川、あなたが必要としているのは肉体への回帰じゃない。断片化した意識を統合し、安定して存在できる新たな形態なんだ」
彼の右目が闇の中で、これまで以上に強く青い光を放った。
そして彼の手がコンソールのタッチパネルに触れると、驚くべきことが起きた。
透の指が機械のような精度とスピードで、画面上に複雑なコードを打ち込み始めたのだ。
それは明らかに透自身の技術や知識ではなかった。
彼の内に存在する白川の意識が、彼の体を介して、最後の望みを託しているようだった。
「浅見、何をしてるんだ?!」
村瀬が驚きの声を上げた。
「彼女の意識をフィギュアのネットワークに再分散させる」
透は額に汗を滲ませながら断続的に答えた。
「だが今度は、バラバラの断片としてではなく、統合された一つの意識として。このフィギュアたちのネットワーク全体が、彼女の新たな『体』となるんだ」
高瀬は瞬時に透の意図を理解し、隣で補助作業を開始した。
「量子もつれの原理を応用すれば可能かもしれない! 分散しながらも単一の意識状態を維持できる!」
二人は崩壊寸前のシステムとの戦いを開始した。
非常灯が明滅し、施設の構造が軋む中、コンソールの画面には新たなプログラムが驚異的な速度で構築されていく。
そして、ついに——。
システムが再起動のシーケンスを開始した。
フィギュアたちの瞳が一つ、また一つと光を取り戻し始める。
今度の光は不安定な明滅ではなく、穏やかで安定した明るい青色だった。
白川の生命維持装置も正常な作動音を取り戻し、安定状態へと移行した。
すると、部屋中のフィギュアの瞳から一斉に青い光線が放たれた。
それらは意思を持つかのように、円の中心——透の右目へと収束していく。
彼の意識と白川ミサキの再構築された意識が、一時的に完全に融合した。
透はその瞬間、白川という一人の人間の全て——誕生から現在に至るまでの記憶、感情、恐怖、孤独と希望を奔流のように体験した。同時に白川もまた、透という人間の喪失、執着、孤独、そして内に秘められた共感能力の深さを完全に理解した。
言葉を超えた、魂レベルでの相互理解の瞬間。
二つの異なる存在が互いを認め合い、共に「第三の道」という新たな存在の形を構築し始めた。
融合の奔流から意識を取り戻した透は、白川の眠るポッドの横に膝をついていた。
彼は穏やかな寝顔に向けて静かに語りかけた。
「約束する。あなたはもう消えない。俺たちは共に、新たな存在の形を見つける」
フィギュアたちの瞳から放たれる無数の青い光が、祝福するかのように白川の肉体を優しく包み込んだ。
それは絶望の淵から生まれた、新たな始まりの瞬間だった。